磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

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原爆前後XXVII

2008年03月23日 | 読書日記など
『原爆前後XXVII』
  思い出集世話人・編/白井秀雄1974年

長崎の原爆もパラシュート爆弾ではなかったですね。その他、伝えられていることの間違いを訂正されています。



1番目の間違い。パラシュート爆弾。下「」引用。

「その図が仁科財団編纂の「原子爆弾」に掲載されているのを見て、この図が元凶でと初めて解った次第。もっとも、この件については、私は後の巻(第二巻、四九頁)で取り消しておきました。」

2番目、米軍入港。下「」引用。

「私の冒した、もうひとつの誤りは、第二巻二五三頁の進駐軍の軍船が入港して来たときの描写です。実はあの文の初めの方は小柳さんの原稿は無く、ある人に、当時のことを伺って僕が書き足したのですが、後に調べると入港の日付も違い、その町の様子も思い違いがあるようなので、一応、初めの十行程は取り消さねばならぬのです。」

3番目、原爆投下後も攻撃があった。下「」引用。

「僕は、もう一つ大きな誤りをおかしており、それが気になっているのです。この機会に白状しておこうと思います。それは原爆投下した当日、更に敵機が来て地上掃射したり投弾したかという問題についてです。
 僕もあんな大型の爆弾を投下して徹底的に破壊したところに、わざわざやってきて地上掃射したり投弾することはあるまい、という考えが根本にあるのです。僕も当初はそう考えて、初めて機銃掃射や焼夷弾の投弾のことを書いてある記述のある御手記が到着したときは、まさかそんなことはあるまいと考え、長崎の証言の会のある方に問い合わせて御意見を伺い、一応その記述を削除しておいたのでしたが、その後、続々到着する御手記によると、当日、敵機が来て地上掃射をやり爆弾を落し、焼夷弾を投下していることは確実のようです。この件については、いずれ、後の巻で実情を説明しようと思っています。」

4番目、原爆前にまかれたという降伏勧告の例の「日本国民に告ぐ!!」というビラの実物が出てきた。

トンネル工場とテニスコートは芋畑。下「」引用。

「当時、私は十四歳、県立高女三年に在学中でした。もう、その頃の戦局は、相当に緊迫の状態でありましたから、校庭の花壇には美しい花はなく空豆が実をつけ、テニスコートは芋畑に変っていました。昭和二十年四月ついに学業は中断し、学徒報国隊として三菱兵器製作所に動員されました。
 片方の方に防空頭巾、片方に救急袋を掛け、上衣は全国統一の新制服、下衣はモンペに下履き、頭髪は二つに分けてキッチリ結んでいました。今から思えば乙女らしさなど、かけらほどもありませんでしたが、大して苦にもならず、張り切って本紺屋町の自宅から住吉の兵器トンネル工場までの七キロを朝夕、徒歩で通っていました。」

カトリックの深堀福市さんのことも書かれてありました。下「」引用。

「白井 あの方は浦上教会の信徒として「宿老」とか「教え方」という大事な役目をされ、同教会の大黒柱的存在だったと、カソリック・グラフに紹介してありました。造船設計でも、たくさんの方が深堀さんのお世話になり、その連中から彰徳碑のようなものを建てようかという話まで出たのですが、都合があって取り止めになっているのです。」

深堀さんは永井隆関連のでも登場します。










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