大阪龍馬会

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幕末を駆け抜けた謎の志士・田中光顕の企画展が開催中=茨城県大洗町

2010-11-12 17:00:00 | 展示会・イベント
 茨城県大洗町の「幕末と明治の博物舘」で、坂本龍馬、中岡慎太郎ら幕末の志士と活躍をした田中光顕の企画展が10月30日から12月7日まで、開催されている。11月14日(日)午後1時から「坂本龍馬の時代と水戸藩」、「企画展を通してみた幕末の志士・田中光顕」の講演会も開かれる。

 吉田松蔭や高杉晋作、坂本龍馬や中岡慎太郎、武市瑞山、後藤象二郎など幕末を駆け抜けた志士には早世した人物が多い。その一方、死者の遺功を伝え、遺志をついで活躍した人物は忘られがちだ。謎の幕末の志士・田中光顕(たなか みつあき)はその少ない人物の一人である。殺戮に明け暮れた時代をすごし、明治政府の要職に上り詰めたのは、運のよさに加え、天性の処世術を心得ていたからであろう。

 彼の名を高めたのは、慶応3年(1867年)11月15日、坂本龍馬と中岡慎太郎が京三条河原町・近江屋井口新助宅(醤油屋)において京都見廻組がおこしたいわゆる「近江屋事件」以降である。この夜、龍馬と慎太郎が襲撃された直後、近くの土佐藩京屋敷から現場に駆けつけ、瀕死の重傷を負った中岡からことの経緯を聞きとったのである。医師川村盈進を呼び手当てをさせたが龍馬は即死。慎太郎は17日に亡くなった。この後、光顕は陸援隊の副隊長として鳥羽・伏見や戊辰戦争で活躍することになる。

 光顕は天保14年(1843年)土佐藩の家臣浜田金治の長男として生まれた。出生の時の名は浜田辰弥である。長ずるに及んで武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒。文久2年(1862年)、吉田東洋による藩政改革が進む一方、武市瑞山は邪魔者である吉田暗殺を決断。勤王党の志士らに暗殺を指示。4月8日、東洋の暗殺後、保守派が藩の実権を握ったが、事件の背景に叔父の那須信吾と共に光顕の関与が噂された。

 文久8年(1863年)、勤王党が「八月十八日の政変」で弾圧されると、翌文久9年(1864年)同志らとに脱藩、大和十津川方面に潜伏。名を田中顕助と改めた。その後、長州藩の高杉晋作の知己を得、同じく脱藩していた中岡慎太郎の下にあって、薩長同盟の成立に貢献した。

 維新後は明治政府に出仕。陸軍少将や元老院議官、初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任。11年間にわたる宮内大臣時代には、天皇親政派の宮廷政治家として勢力を振るったとされる。

 勤皇党時代の光顕は、薩摩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行し、後の黒田内閣の内閣書記官長(官房長官)として生かされることになる。「北海道官有物払い下げ事件」の当事者の黒田と縁深い安田定則が茨城県の県令(知事)に就任。水戸鉄道(現・JR水戸線)の敷設には政府要人として役割を果たした。常州水戸との縁が深まったのである。

 国立公文書館には、現在田中と安田の往復書簡が多数残されている。しかし、常州茨城の「常陽」という呼び名は紀州和歌山の「紀陽」と共に、光顕の命名であることを知る人は少ない。光顕の郷里、高知県高岡郡佐川の銘酒「司牡丹」も彼の命名によるものだ。

 名門ゴルフ場に隣接する松林の中に立つ「幕末と明治の博物館」。長嶺家光館長(大洗町副町長兼務)は、「土佐と常州の奇縁をぜひ知り、幕末、明治の偉人の痕跡をたどって頂きたい」と熱く話す。HPは、http://www.bakumatsu-meiji.com/。電話での問い合わせは、029‐267-2276。休館日は毎週水曜日。都内や北関東各地からは高速道が便利。14日の講演会は人数限定、早めの申し込みがよいそうだ。

11/9 PJニュース

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