大阪龍馬会

1987年に創立して2017年は創立30周年。龍馬好きの集まった大阪龍馬会が龍馬会の活動をお知らせします。

いろは丸事件

2010-10-17 18:00:00 | 講座関係
 ドラマでは大洲藩所有のいろは丸を岩崎弥太郎が借りに行った設定でしたが、実際は龍馬のあっせんで大洲藩がいろは丸を購入した。

 伊予国大洲藩所有の蒸気船。長さ30間、幅3間、深さ2間、160トン、45馬力の二本マストの鉄製内輪船。1862年イギリスで建造、原名サラー号、文久3年、薩摩藩が購入して安行丸と命名した。

 その後、薩摩は胡蝶丸はじめ10隻を買い入れたため、慶応元年、安行丸をオランダ商人ボードインに売却、そのときアビソ号と改名された。

 慶応2年、大洲藩の国島六左衛門が、龍馬、五代才助の周旋で長崎において42500両で購入し、龍馬が、いろは丸と名づけた。

 慶応3年4月、土佐海援隊長となった龍馬は、海運業のため、大洲藩といろは丸の賃貸借契約を結び、一航海15日につき500両とし、事故のときの補償契約証書も取りかわした。その前3月6日、龍馬が印藤肇に送った手紙によれば北海道開拓のため、いろは丸で蝦夷行も考えていたようである。

 4月19日、龍馬以下海援隊士が乗り組み、諸藩に売り捌く小銃400挺のほか砂糖などの貨物を積み、紅白紅の海援隊旗をひるがえして長崎を出港した。

 4月23日午後11時ごろ、長崎に向けて航海中の明光丸と、讃岐の箱の岬沖で濃霧のために衝突した。満載量160トンのいろは丸は、880トンの明光丸の船首を右舷に受け浸水し、船首から沈みそうになる。当番士官の佐柳高次が甲板に出て明光丸によびかけたが返答はなく、佐柳らが明光丸に乗り移ったところ、同船は90mほど後退したのち、再び前進していろは丸の船腹に衝突した。

 上京のために乗船していた龍馬は、沈没の危機を感じて乗員を明光丸に移乗させる。龍馬は明光丸船長の高柳楠之助と面会し、貨物の保全のためいろは丸を曳航して備後鞆ノ津へ向かった。24日早朝、備中宇治島沖で、風波が激しく曳航に耐えられなくなって、いろは丸は積荷もろとも波間に消えた。

 龍馬と高柳の合議のうえで明光丸は備後の鞆に入港し、長岡謙吉とともに今後の交渉に臨んだ。

 事件の解決まで出港を見合わせるようにとの依頼を、高柳は藩命を理由に拒絶する。代案として龍馬はとりあえず1万両の用立てを求めたが、後日の交渉で、これが賠償金の一部であることを知った紀州側が拒否したため、交渉は難航した。

 このうえは長崎で正式の談判を行い、公論によって決着をつける以外にないということになったが、27日には佐柳と腰越次郎が明光丸に斬り込みをかけるため、海援隊からの離脱を求める一幕もあった。龍馬は翌日付で菅野覚兵衛と高松太郎にあてて事件の発生を連絡すると、隊士とともに鞆を出立し、29日には下関、5月13日に長崎に到着している。長崎での交渉は15日から始められた。

 海援隊からは龍馬のほか、長岡謙吉、小谷耕蔵、渡辺剛八、佐柳高次、腰越次郎、土佐藩士の森田晋三、橋本麒之助、紀州藩からは高柳楠之助、岡本覚十郎、成瀬国助、福田熊楠、岡崎桂助、中谷光助、上田米蔵、尾崎十兵衛、中崎市右衛門が出席した。交渉は互いの航海日誌を提出し、海路図によって衝突の原因と責任について議論されたが、決着はつかなかった。

 龍馬が「船を沈めたそのつぐないは金を取らずに国を取る」という歌を作って、市中に流したのは、このころのことだった。

 当初、海援隊と紀州藩の問題だった事件に、5月22日の交渉で後藤象二郎が加わったことによって、事は紀州藩対土佐藩の交渉事となる。

 後藤は、こうした事件の判例がないことから、イギリス海軍の提督に外国の事例から裁定を求めるよう提案し、その場を設けたものの、当日になって紀州藩は、これを避けて薩摩の五代才助に調停を依頼している。

 その結果、非は明光丸にありとして、29日には10月中に長崎で83526両198文を支払うよう裁定が下された。

 交渉に臨むにあたって龍馬は生命の危機さえ感じて遺言状を三吉慎蔵に書いている。

慶応三年五月八日 三吉慎蔵あて
此度出崎仕候上ハ、御存知の事件ニ候間、万一の御報知仕候時ハ、愚妻儀本国ニ送り返し可申然レバ国本より家僕及老婆壱人御家まで参上仕候。其間愚妻おして尊家に御養置可被遣候よふ、万々御頼申上候。拝稽首。
五月八日  龍馬 慎蔵様 左右


この度の長崎行きは、御存じの事件(いろは丸事件)についてで、万一の知らせが届いた時は、妻のお龍を土佐に送り返したいので、土佐の坂本家より使いの者と老婆一人が三吉家まで参ります。その間お龍をあなたの家で養っていただきますようどうかよろしくお頼み申し上げます。拝稽首。
五月八日 龍馬  慎蔵様 左右


 6月24日付で兄権平にあてた手紙では「龍馬が船の論夕るや、日本の海路定則を定メたりとて、海船乗らハ聞に参り申候」と誇らしげに報じている。

 賠償金は再交渉ののちに減額されたが、いろは丸を所有していた大洲藩に42500両が返還され、海援隊も年末には15345両が賠償されるとの内示があった。



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