わたしは、よく知らなかったのだが、被爆者手帳を持っている人が病気になっても、なかなかその病気が原爆によるもの(原爆症)だとは認めてもらえないらしい。どうしてなんだろう・・・。
もちろん、国としても、国民から預かった税金を使う話だから、慎重にならざるを得ないのは分かるが、先日のような米軍への大盤振る舞い(に見える)行為の後では、どうしたって「なんで?!」と言いたくなる。慎重になるべきところと、審査を甘くすべきところを間違ってるんじゃないのかと言いたくなるでしょ。
原爆症は、生活保護や介護保険認定などの不正受給者の問題とは、基本的に違うと思うんだけど、違うだろうか。あの時、広島や長崎に居た人が後々病気になったなら、審査なんかなくても原爆症と認めてもいいくらいだと思うんだけど、変だろうか。米軍に、あんなにお金を払えるのなら、出来るんじゃないのと思うのだけど、間違っているだろうか。無駄に遊ばせている国の施設の一つか二つを売り払えば済む話じゃないのかと思うけど・・・さすがに、それは無理なのかな。
年金などと違って、毎年未来の受給者が生まれているわけじゃない。ゼロ歳で被爆した人だって、今ではもう六十歳なんだ。冷淡な言い方をすれば、あと数十年で、対象者は皆亡くなってしまう。もちろん、被爆者のお子さんの問題もあるけど、少なくともあの時、あの場所で被爆した人たちに対しては、手厚く支援してもいいじゃないかと思うよ。
というわけで・・・資料として『日本被団協』のホームページの掲載されていた訴訟情報を添付しておきます。よかったらご覧になってください。
1【東京原爆裁判】
1955年(昭和30年)4月、広島の下田隆一さんら3人が、国を相手に東京地裁に損害賠償とアメリカの原爆投下を国際法違反とすることを求めて訴訟を提起した。被爆者に対して国が何らの援護も行わずに放置していた時期のことである。
東京地裁は、1963年(昭和38年)12月判決を言い渡した。
判決は、原告の損害賠償請求を棄却したが、「アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する」とし、「被爆者は損害賠償請求権を持たない」が、「国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般戦災者の比ではない。被告がこれに鑑み十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。それは立法府及び内閣の責務である。本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない」と述べている。
裁判は、「原爆投下は国際法違反」といわせたことをよしとして、1審で確定した。この裁判は、その後、被爆者援護施策や原水爆禁止運動が前進するための大きな役割を担った。訴訟提起後の1957年原爆医療法が制定され、裁判中の世論の高まりもあり、1968年5月には原爆特別措置法が施行された。
2【桑原原爆訴訟】
1969年3月広島の被爆者桑原忠男さんが、原爆症認定却下処分の取消を求めて提訴した裁判。1.3キロで被爆した桑原さんは脊椎円錐上部症候群で認定申請をしたが、1973年広島地裁は、疾病と被爆との因果関係を「合理的に推論しうる事実ならびに医学上の鑑定があらわれない以上、原告の現疾病は被爆外の原因に基づく蓋然性が高いものと認めざるをえない」として敗訴。1979年の広島高裁判決は、「現在の医学水準に照らし、現疾病が原爆の傷害作用に起因する旨の相当程度の蓋然性の立証があれば足りるものと解すべきである」とのべたが、起因性の要件を否定して原告敗訴となった。
3【孫振斗訴訟】
1972年3月韓国人被爆者孫振斗さんが、被爆者健康手帳の交付を求めて福岡県知事に提訴した行政訴訟で、1、2審とも勝訴し、1978年3月最高裁は福岡県の上告を棄却。
判決は「原爆医療法は、特殊の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根幹にあることは、これを否定することができないのである」と、孫さんの主張を認め、被爆者健康手帳を交付すべきであるとした。以降外国に居住している外国人被爆者でも、来日すれば被爆者健康手帳が交付されることになった。
4【石田原爆訴訟】
1973年7月広島の被爆者石田明さんが、原爆白内障の認定却下処分の取消を求めて、広島地裁に提訴した裁判。
国は爆心地から0.7キロで被爆Lた石田さんが原爆による白内障であることは認めたが、原爆白内障の治療法は水晶体摘出の手術しかないと主張。1976年5月判決では、白内障の治療は手術だけでなく、点眼薬治療でも有効とし、石田さんの勝訴となる。この訴訟は「要医療性」が争われた裁判であった。
5【原爆松谷裁判】
長崎の爆心地から2.45キロで被爆し、右半身不自由になった松谷英子さんが、原爆症認定申請を却下した厚生省を被告に却下処分の取消を求めて1988年9月に長崎地裁に提訴した裁判。
1993年5月長崎地裁は、「現在の疾病は、原子爆弾の障害作用によるものであり、かつ、原告の疾病は、原子爆弾の障害作用によるものであり、かつ、原告の治癒能力が原子爆弾の放射能の影響を受けているために現に医療を要する状態にあることを認めることができるから、請求は理由がある」、また「DS86としきい値理論だけで、放射能の影響を否定することは科学的でない」として、国に却下処分取消を求める判決を言い渡した。
さらに福岡高裁も、1987年11月「起因性を否定できるとした原子爆弾医療審議会の調査審議及び判断の過程には看過しがたい欠落がある」として、国の控訴を棄却した。原爆松谷裁判は国が上告して最高裁で審理が行なわれた。
2000年7月18日、上告を棄却する判決が言い渡された。
これにより松谷さんの疾病は「原爆症」と認定された。 裁判経過
6【京都原爆訴訟】
1987年広島の爆心地から1.8キロで被爆した高安九郎(仮名)さんが、京都地裁に提訴した裁判。
高安さんは被爆直後から原爆ブラブラ病に苦しみ、白血球減少症と肝機能障害で認定申請をしたが、疾病は放射能との因果関係がないとして却下となる。1998年12月にだされた京都地裁判決は、「原爆放射能起因性の証明は他の可能性より相対的に高ければよく、却下する場合には明確に他の可能性を示さなければならない」としている。この判決に対し国が控訴したため大阪高裁で審理が続いた。2000年11月7日、大阪高裁は控訴を棄却。厚生省(現厚生労働省)は上告期限ぎりぎりまで検討したものの上告できず、判決が確定した。
判決は、白血球減少症について「高度の蓋然性をもって放射線起因性が認められる」として原爆症と認定。肝機能障害については、ウィルスによるものだから、というだけで原爆症と認めず。一審判決にあった損害賠償についても却下した。 勝利確定
7【在韓被爆者手当訴訟-大阪-】
韓国入被爆者の郭貴勲(カク キフン、被爆時21歳、現在75歳)さんが、来日中に受給していた健康管理手当を、韓国に帰国後同手当の支給を打ち切った処分の取消と、精神的苦痛を与えたことに対する損害賠償200万円を求めて、1998年10月国と大阪府知事を被告として大阪地裁に提訴した裁判。
厚生省は、「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は社会保障法だから、居住も、現住もしておらず、税金も納めていないものには適用できないと主張。郭さん側は、現行法には国籍も、居住条件もない、旧被爆者2法当時から国家補償的配慮を根底にしていたが、現行法で「国家補償的性格が明らかにされ」た、それにもかかわらず「20年以上前の特別手当についての公衆衛生局長通達(74年7月22日付け)に漫然と依拠して、手当の不支給を行なったことは法律の解釈、運用の過誤に基づく不法行為であるから損害賠償の責任を免れない」と主張。 結審 特別決議(判決を受けて)2001.6.5 控訴にたいする声明2001.6.15 記事
02年12月5日、大阪高裁で全面勝訴確定。
8【在韓被爆者手当訴訟-長崎-】
在韓被爆者の李康寧(イ カンニョン、被爆時18歳、現在72歳)さんが、来日中の1994年7月から3カ月間受給していた健康管理手当を、韓国に帰国後に支給を打ち切った厚生省と県の処分の取消と損害賠償100万円の支払を求めて、1999年5月、国と長崎市長を相手に長崎地裁に提訴した裁判。地裁判決、国の控訴への声明 2002.1
2003年2月7日、福岡高裁で全面勝訴。厚生労働省は17日、国側の責任を問われた部分を不服として上告。李さん側も長崎市の責任が問われなかった部分を不服として上告しました。
9【三菱広島徴用工訴訟】
第2次大戦中、日本に強制連行され、三菱重工業広島造船所および広島機械製作所で被爆した韓国人46人が、強制徴用による労働および広島に投下された原爆による被害を受けた後放置されたことで精神的肉体的苦痛を受けたとして、未払い賃金および損害賠償の支払いを求めて、1995年12月に提起した訴訟。
99年3月25日に広島地裁で判決、原告側敗訴。広島高裁に控訴。
判決の骨子(原爆関係分)
・外国人が税金による国の給付を請求するためには法的に明確な根拠が必要。
・原爆2法が国家補償立法だとしても法律の規定で適用対象者はきまる。
・法は国家主権がおよぶ人的場所的範囲において効力を有する。
・原爆2法には国外に居住する被爆者に対する各種規定、手続きを設けていない。
・国家賠償法上違法とはいえない。
・戦争儀牲に対する補償の要否、あり方は立法府の裁量にゆだねられている。
10【東数男原爆症裁判】
東京・町田に住んでいる被爆者、東数男さんが、肝機能障害による原爆症の認定を求めている裁判。
東さんは1928年(昭和3年)10月10日生まれ。本籍高知県。長崎県立工業3年生(16歳)当時、学徒動員で三菱兵器製作所で魚雷のパッキング部品を製造中のところ被爆した。爆心地から1.3キロ。背中一面、後頭部にケガ、左手肘から下に火傷。大村海軍病院に入院。急性放射線障害で死線をさまよう。ABCC(原爆傷害調査委員会)から継続調査を受ける。その記録では81年(昭和56年)には、本人には自覚がなかったが、肝機能に異常数値が出て、要精密検査の指示を受けている。84年ごろから足がだるいなどの症状が出て、92年9月から10月まで立川第一相互病院に入院。その後も治療を受け、2週に一度の割で通院している。
94年(平成6年)2月18日、肝機能障害で原爆症認定を申請。95年11月9日付で却下。96年1月22日に異議申し立て。97年6月口頭審査。99年3月9日付で却下。本人への通達は、1999年4月14日。
却下理由は、「肝機能障害の原因は、C型肝炎ウイルスであり、被曝線量は、C型肝炎ウイルスに対する免疫力の低下や感染の成立に影響を及ぼすほどのものとは考えられない」
6月29日東京地裁に提訴。2004年3月31日勝訴しましたが、国が判決を不服として東京高裁に控訴。
11【安井晃一原爆症裁判】
日本被団協代表理事で、北海道被爆者協会理事の安井晃一さん(75歳)が、99年10月1日、札幌地裁に提出した原爆症認定却下の取り消しを求める裁判。
広島の爆心地がら1.8キロの陸軍部隊で被爆。96年に前立腺がんに冒され、原爆症認定を申請したが、97年4月却下、異議申し立ても99年5月棄却された。
12【広瀬方人さん提訴】
長崎の被爆者で、日本語を教えるために中国の大学へ渡っていた広瀬方人さん(71歳)は、日本を離れていた期間に長崎市が健康管理手当の支給を停止したのは違法と、その支給などを求めて2001年9月11日、長崎地裁に提訴しました。
元高校教師の広瀬さんは、1973年から健康管理手当てを受給していましたが、定年退職後の1994年8月、日本語教師としてハルピンの大学に赴任するため日本をを離れました。その後95年に帰国するまでの間、手当の支給が打ち切られたもの。
広瀬さんは、「どこに住んでいても被爆者は被爆者。法律上は特に規定がないのに、厚生省の局長通達で在外被爆者を排除するのは許せない」と話しています。
13【在韓被爆者手帳訴訟】
2001年10月3日、李在錫さんが大阪地裁に提訴。 03年3月20日勝訴確定。 詳細は在外被爆者にも被爆者援護法の適用を! のページへ
14【在ブラジル被爆者裁判】
「軍人として広島で被爆し、その後ブラジルに移住し、現在も日本国籍を保持している森田隆(78歳)さんは、被爆者健康手帳を持ちながらも、旧厚生省(現厚生労働省)の一片の通達のために、今日まで被爆者として旧原爆二法及び被爆者援護法による援護を受けていない。他の在ブラジル被爆者も同様である。
被爆者はどこにいても被爆者であり、ひとしく法による援護が受けられなければならない。広島県と国が、森田さんの出国を理由に、被爆者健康手帳を無効とし、健康管理手当の支給を打ち切ったことは違法であり、このような不当な措置の是正を求める森田さんの提訴はまことに道理がある。厚生労働省は、これまでの経緯にとらわれず、一刻も早くすべての在外被爆者に被爆者援護法を適用すべきである」(裁判支援の呼びかけより)
森田さんは2002年3月1日広島地裁に提訴しました。 詳細は在外被爆者にも被爆者援護法の適用を! のページへ
15【原爆症認定集団訴訟】
2003年4月17日、札幌、長崎、名古屋の各地裁へ第1次提訴。 詳細は集団訴訟運動へ
16【在アメリカ被爆者裁判】
2003年12月17日、在アメリカの二人が健康管理手当などの支給を求めて広島地裁に提訴しました。 詳細は在外被爆者にも被爆者援護法の適用を! のページへ
17【在韓被爆者健康管理手当訴訟】
2004年2月22日、崔季さんは韓国からの健康管理手当の申請却下に対し、処分の取り消しを求めて長崎地裁に提訴。 04年9月28日に勝訴しましたが、長崎市が控訴。崔さんは判決の2ヶ月前に亡くなりました。