ニュース雑記帳

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大阪市の『特別教室』について

2014-06-18 07:36:09 | Weblog
大阪市教育委員会が、重度の問題行動を繰り返す生徒を一般生徒から引き離し、別の場所に集めて専門的に指導する「特別教室」を設置しようと動いてますね。

わたしの基本的な考えからからすると、反対の立場にたたなきゃならんのかなと思います。教育に限らず、出来る限りノーマライゼーションが好ましいと思ってますから。

学校で学ぶべきは学業だけじゃない・・・むしろ集団の中で生きるすべこそ学校で学ぶべきことだと思いますし・・・学校が地域や社会の縮図だとすれば、そんな状況の中で生き抜かなければならないのが、子どもたちの現実だとも言えますから。

それに、問題児を教室から引き離して一か所に集める、そして指導する・・・それって可能なのだろうかという心配もしてしまいます。鑑別所だとか少年院だとか、犯罪を犯したと認定され、矯正施設に隔離されている少年たちに対しては、かなり厳しい指導が許されていると思うんですが、特別教室があくまでも通常の教育の範囲だとされるなら、ここで指導を担当する先生に、かなりの負担がかかるのは目に見えてます。なんだか、特別教室で学ぶ生徒のレベルとやらをみると、もはや犯罪じゃないかってレベルですし・・・彼らが集団になってるのに、それを指導できるだけの技量をお持ちの先生が、どれだけいらっしゃるんでしょうか。

でも、先生の負担とか、先生の資質とかのことを考えるなら・・・そうですね、むしろ特別教室やむなしということにもなるんですよね。若い先生になると、二十代前半・・・一般企業での勤務経験もなく、学生からいきなり先生になった人が多いでしょうし・・・大人数の未成熟な子どもたちの集団を指導していくって、本来すごく難しいことですよ。親なんて、ほんの数人しかいない我が子、この子のためなら何でもできると思うほど愛してやまない我が子の育児にさえ悩んで失敗を繰り返すんですから。

昔はまだ、親や地域がフォローしていたので、多少先生もやりやすかったでしょうね。先生は立派な人で、ちゃんと言うことを聞かなきゃダメだって、大人たちが寄ってたかって先生の権威付けを行っていましたから、子どもたちも先生には従わなくちゃいけないと刷り込まれてましたよ。

もちろん、それにも弊害があって、絶対に良いことだと思いませんが・・・今のように、学校の外の大人が先生たちにとって警戒すべき相手になってしまっていては、子どもに向き合う以前に心が擦り切れちゃいますよね。

きっと、実際、地域によっては、特別教室でも作らないとどうしようもないほど、現場の先生たちは追いつめられているのかもしれません。だとしたら、学校の現状をしらない人間が、理想論だけで特別教室案を簡単に拒否してしまうのは申し訳ないことです。

もし、特別教室を担当する先生方が、問題行動をとる生徒たちの心情を理解しようとしてくださる方たちで、愛情をもって真剣に彼らと向き合い、その上で厳しく彼らと接してくれる、情熱と経験のある先生方なのなら・・・お任せしてみるのも良いのかも・・・。

もちろん、問題行動をとる生徒を追い出した教室に問題が無くなると油断してはいけませんよ。次の特別教室行きの生徒を作り出さないよう、見直したり改善したり、すべきことはたくさんあると思います。また、特別教室を担当する先生たちのストレスをどうするのかとか、担当できる先生の数が確保できるだろうかとか、その養成育成はどうするのとか・・・解決すべき問題はたくさんあるでしょうね。

ゆとり教育もそうでしたけど、考え方の根本は悪くないんですよ、誰もが真剣に考えて出した案だと思うし。でも、それを実践して効果を得るには、それを行う人の育成が必須なんです。指導出来る人がいないのに、システムだけ作って実行してしまうから機能しないんですよね。教育って、まず教える側を育てなきゃいけない・・・だから一朝一夕でできることじゃない。でも、まずは始めなきゃいけない・・・失敗しても、とにかく始めなきゃいけない・・・う~ん。

そういう意味では、特別教室というのも、無為無策でいるよりは、提案として出てきたことは評価しなくゃいけないのだと思います。誰かが提案してくれたことは、まずその良いところを見る、そして弱点や穴を見つけ、それを補い策を共に模索する・・・その上で、問題点が改善できなければ案自体を却下する・・・いきなり欠点ばかりを突いて潰すのでは、せっかくの提案が無駄になるし、次の提案を生み出さなくなりますからね。