ニュース雑記帳

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「障がい者なのにスゴイ!」は差別ではなくて評価だと思う

2014-02-19 06:37:56 | Weblog
聴覚障害者なのに素晴らしい作曲をしていると評価されていた人が、実はゴーストライターに依頼して作曲させていたと暴露され、大いに話題になっていますね。

わたしは、書籍のゴーストライティングもしてきた人間なので、「音楽の世界でもしてるんだ」という程度の感覚で受け止めましたが、「それにしても、障害を売り物にする商売はアクドイな」とは思いました。ただ、知名度だとか肩書だとかを売り物にして商売するのと、障害を売り物にするのとの間に、それほど大きな差があるのかなと考えると・・・ん~、どうなんだろうなと、改めて考え込んでしまいました。

そして以前、銀行の担当さんと商談終りの雑談をしていて、わたしの仕事の話になり「金融系の書籍も何冊が書いたけど、酷い時には本人からの指示や聞き取りなんか一切なく、別人の著作を何冊か渡されて、これで上手く纏めてくれ、くれぐれも著作権侵害には気を付けてと言われたこともあったよ」と言ったら、「僕、けっこうビジネス本を買って読んでるんですけど、ショックです」と凹んでいたのを思い出しました。もちろん、ご本人の原稿を書き直すようなリライトに近いゴーストライティングもあれば、長時間のインタビューを文字化して一緒に造り上げていく感じのゴーストライティングや、ご本人の過去の著書を改定するようなタイプのゴーストライティングなど、あくまでも表に出る著者さんを補う形の、決して読者を裏切らないようなゴーストライティングも多いんですが・・・中には関わりながら「ヒドイな」と思うようなこともありましたっけ・・・

けど、まっ、今回お話ししたいのは、ゴーストの存在の是非ではなく、障害をもった人の創作物や創作活動に対する評価ということに関してです。

今回の騒動の中で、「CDを買った人に対しての詐欺行為だ」「いや、音楽への評価と作曲者の情報は切り離すべきだ」など、さまざまな意見を耳にしました。で、後者の考え方をする人たちの中には、「障がい者なのにこんな曲を作れるなんてスゴイというのは、障害者には大した曲は作れないということを前提にした考え方で、むしろ障害者に対して失礼だし、それで作品を持て囃すなら、健常者の作曲家たちに対する逆差別にもなる」という人もいるようですね。

たしかに、純粋に曲に向き合った時の個人の感想ということだけなら、作者の個性や属性は考慮されるべきものではないのかもしれないですね。背景を何も知らず出会って、それでも共感出来たり感動出来たりする曲は沢山ありますし・・・せっかく、そういう曲に出会えているのに、よけいな付加価値や、逆に水を差すようなマイナス情報を聞かされると、すごく腹立たしいかもしれません。作品を作った側の人たちも、そう思っているのかもしれない。

けれど、人の頑張りに対する評価というのもまた、同時に存在しているのは確かなんですよね。今、ちょうどオリンピックですが・・・我々は、結果だけでなく過程にも大いなる感動を与えられますからね。そして、その感覚は、決して悪いことではないと、わたしは思います。

そういう意味では「障がい者なのに」というのは差別ではなく、むしろ評価の前提なのだと思うのです。だって、走る競技をするのに足に障害があるのは、明らかに大変なことでしょ。見ることが大切な創作活動をするのに、目が見えないというのは絶対に大変ですよ。耳を使う職業につくのに耳に障害があることもまた、とても大変なことのはずだし。健常者の何倍も何十倍も努力しなければ、健常者と同じ成果が獲られない個性であるにもかかわらず、健常者同様の、時には健常者を凌ぐ成果を出したことに対して、プラスαの評価を下するのは、決して差別ではないと思うのです。

障害を特別視しないで個性と見てくださいと仰るのは、とてもよく分かるのですが・・・個性だからこそ、ちゃんと頑張ったってことは評価していいんじゃないでしょうか。だから、障害認定を受けていなくても、苦手なことを一生懸命頑張っている人も、同様に評価すべきということでもあります。

最近は、ゆとりバッシングが酷いですが、準備不足理解不足による間違った方法による実施だっただけで、"ゆとり教育"の基本的な考え方は間違っていないと信じている私は、相対評価と並行して個人の努力や成果を個別評価すべきと思っているので、そういう意味でも、障害があろうとなかろうと、努力は正当に評価されて欲しいと思うのです。そして、評価される立場の人にも、差別だなどと思わないで、その評価を受け取ってもらえたら嬉しいと思うのです。

ただ・・・そう・・・確かに、その評価が雑音となって、作品を通じた純粋な出逢いが阻害されることは、大いにあることで・・・それを嫌う障害をもった創作者はいらっしゃるだろうな・・・そこは、ふむ、難しいなぁ~。別の個性が先だって、見て欲しいモノを見てもらえないモドカシサ・・・ふむ、難しいなぁ。

ただね・・・イイものを作っても、それを発表できなければ、誰のところにも届かないという大きな問題もあって・・・嫌かもしれないけど、まず知ってもらえる機会となるなら、それを利用するというのも一つの選択肢ではある・・・だから、それを勧める人もいると思う。もちろん、単なる金勘定の場合で、利用されることになる危険性もあるけど・・・ふむ、難しいな。

結局ね・・・障害があるなしに関わらず、他人は色んな考え、色んな気持ちで、色んなことを言ってきますが、あまりそれに惑わされないことしかないと思います。悪意あるものも、好意からのメンドクサイ意見、そして無関心、嬉しくないことも多いでしょうが・・・それもまた、いろいろ在るってことの、一つの形なのかもしれません。酷いと思うような言葉だって、角度をかえれば別の意味をもっているかもしれないし・・・振り回されて、怒り疲れたり、悲しみ疲れたりしないよう、自分の気持ちをうまくなだめてあげられるといいなと思います。

なんだか支離滅裂になってしまいましたが・・・そんなことを思いました。