ニュース雑記帳

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服装や態度の乱れを理由に合格圏内の22人を不合格にした校長更迭

2008-10-30 14:32:02 | Weblog
神奈川県の県立高校の入試で、服装や態度の乱れを生徒にも保護者にも内緒でチェックして、筆記テストだけなら合格圏内にあった22人を不合格にしていたことが発覚。県の教育委員会が、指示を出した校長を更迭したそうですね。

校長に処分を下した県教委は、「服装の乱れなどを選考基準にしていた」ことを問題にしているのじゃなく、それを「選考基準にすると公表していなかった」ことを問題視ししているわけで・・・まぁ、そういう処分もありえるのかなと思いました。

が・・・報道などを見た印象では、世間では、服装の乱れを選考基準にしたことを問題視しているように、あるいは「そのどこがイカンのだ」と校長を擁護しているように思います。つまり、服装の乱れ等を選考の基準にすることの是非が議論されているように見えますね。

なので、とりあえずは、まず「服装の乱れを選考基準にする」ということの是非について考えましょうか。そうですねぇ・・・わたし個人は、「服装の乱れを選考基準にする」というのが悪いことだとは思いませんね。県立高校という点に、若干ひっかかるのですが、公立高校といえど、もう義務教育ではないわけですし、入学試験なんてものも実施しているわけですから、「我が校の校風」というものを提示して、それから逸脱する生徒は入学に及ばずっていうスタンスをとっても、それは批難できないように思います。

だから、校則で、化粧を禁止したり、シャツのボタンを外すのを禁止していたり、腰パン(?)を禁止している場合、そういう服装で試験に臨んだ生徒を不合格にするのも、それはそれで良いんじゃないかと思います。

ただ、髪に染めたあとがあるとか、眉を整えていた気配があるとか、そういうので不合格にするのは、わたしは違うと思います。つまり、入学前に校則に合わないことをしていても、入試に際して、その校則に添おうと努力しているわけですから、そんな生徒まで門前払いにするのは、公立高校としては度量が狭すぎると思いますね。

でも、まっ・・・わたしも、教育委員会と同じ意見で・・・やっぱり、問題なのは、校長が服装チェックすることを公表させなかった点だと思います。

きっと、校長としては、服装をチェックすると公表したら、受験者たちが、その場しのぎで服装を整えてしまうから、篩い分けが出来ないと思ったんでしょうね。気持ちは分かりますが、それならそれで、やりようもあったと思いますよ。たとえば、具体的に何をチェックするとは言わす、受験の案内を渡す際に予め校則も渡しておいて、入試の時から、あるいは入試の申し込みの時から、この校則は活きていますよと言っておくとか、そういう曖昧な公表の仕方でもいいんで、「点数だけで判断しません」というのだけは、シカッリと伝えておくべきだったんじゃないかと思いますね。

たとえば、入社試験なんかだったら、そういうチェックは当たり前だと思うし・・・

っていうか、学校サイドだけじゃなく、子どもたちの為にも、考え方やスタンスが大きくズレている学校に行くのは好ましいことだと思えないので・・・学力だけじゃなく、校風との相性を、お互いがもっと重視していいと思いますよ。そういう意味じゃ、点数以外の選考基準を設けて、それを公表するのは、むしろ良いことかもしれません。

ちなみに・・・わたしが通った中学&高校は、制服もなかったし、校則も超ユルユルでしたけど・・・そういう校風が嫌な人は来ないだろうし、そういう校風が好きな人が集まるわけで・・・それでいいのじゃないかと思います。

そして、そんな緩々な学校に十年も通って好かったと思っているワタシは、校則ガチガチの学校に、我が子を通わせたいと思いませんから・・・「服装チェックなどは厳しくします」とか「そういうことには拘りません」といった学校のスタンスは、ハッキリと公表してもらうと嬉しいと思います。

もちろん、その反対の考えの方もいるでしょ。勉強も大切だけど、服装なども含め、厳しい生活指導をしてくれる学校が好いと思う方も。で、そういう方だって、学校が、どういう方針で生徒を指導するか、それは知りたいですよね。

だから、どんなものでも良いので、学校が自分たちのスタンスをシッカリと定めて、それをハッキリと公にする。その上で、募集をかけるのが筋ってことなんだと思います。

けど・・・この学校は、そういうことも出来難い環境だったんでしょうね。だから、こっそり、手間のかかりそうな生徒を入学前に排除しておきたかったんでしょうね。なんとなく、校長の苦労が垣間見える気はしますが・・・やはり、教育者としては、良い選択ではなかったと言わざるを得ませんよね。

と・・・かなり、だらだらした話になってしまいましたが・・・教育に関して色んな考えがあっていいわけで・・・っていうか、あって当然で・・・そのうちのどれが正解かって、正直、なかなか分からないわけで・・・だから、どんな方針をとってもいいけど・・・やっぱり、それは公表してやらなきゃ、卑怯と言われても仕方ないなってことですかね。ご苦労も多いとは思いますが、校長先生が逃げちゃ、他の先生にも生徒にも示しがつきませんから、こそっと対策しないで、摩擦が多くても正々堂々と頑張ってくださいとしか言い様がないかもしれませんね。

全国学力テストのデータ公表の是非

2008-10-03 15:14:38 | Weblog
大阪府橋本知事の強行姿勢で話題になっている『全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)』の市町村別データの公表問題についてなんですが・・・先日、裕太が「なんで公表したら、子どもらが傷つくのん?」と質問してきました。ほぉ~、裕太くん、そうきましたか(^^;。

裕太の質問の根底にあるのは「俺なら自分の成績を公表されても傷つかん」ということだと思います。もちろん、なぜ彼が傷つかないかその理由が、「公表されても恥ずかしくない立派な成績だから」ではないことは、母であるワタシが一番よく知っていますが(爆)。

まっ、そもそも、この問題において、子どもたち個人の成績が公表されると思っている裕太の認識は間違っているのですが・・・一応、裕太の質問に添って、話を続けていきたいと思います。

まず、成績を公開すると傷つく子がいるかいないかということですが・・・それは、きっと居るでしょう。誰だって、よく出来ることに関しては自慢したい気持ちになるでしょうから、その反対の事柄に関しては「恥ずかしい」「隠しておきたい」という思いが生じて当然じゃないですか。

でも、恥ずかしい事、隠しておきたいことを、全て隠してしまうことが、その子の為になるかといえば、決してそうじゃない。恥ずかしさを、どんな風に克服するかも、子どもたちにとって、とても大切な「学ぶべきこと」ですからね。

たとえば、運動が苦手な子にとって、運動会は、成績の公表と同じ意味合いをもつと思うんですよ。大勢の人に、走るのが遅いことが、あるいはリズム感がないことが、分かってしまうわけですからね。運動の得意な子が大きな声援や拍手を浴びているのを横目に見ながら、惨めな気持ちになっていると思います。

でも、その子は、音楽会ではスターかもしれない。あるいは、図画や工作の作品展では賞賛の嵐を浴びているかもしれない。あるいは、先生のモノマネが得意で休み時間にはクラスの人気者かもしれない。もしかしたら、勉強が得意で一目置かれているかもしれない。

つまり、運動が苦手で、運動会ではお荷物君になるかもしれないけど、他に自分をアピールできるところがあれば、きっと、その子は、運動会のツラさを乗り越えられると思うんですよね。

裕太だって、勉強の成績が全てじゃないと思うから、十分に恥ずかしい成績のくせして、それを公表されても「俺は傷つかない」と言えるわけじゃないですか。

だから・・・まず、その部分ですよね。「勉強の成績が全てじゃない」と、その部分を、子どもたちも、親たちも、先生たちも、世間も、みんなが承知しているなら、成績の公表なんか、してもいいし、しなくてもいいし、どっちでもいいようなことになると思うんです。

ただ・・・今、大阪の知事さんや鳥取の知事さんたちが主張している「全国学力テストの市町村別データ公表」に関しては・・・ちょっと別の問題も含んでいますよね。それは、子どもたちというより、先生たちに向けた圧力なんですよね。ぬるま湯に浸かってないで、しっかり子どもたちの成績を上げろよって、そうプレッシャーをかけたいと・・・そういう意図で主張されている情報公開なんですよね。

となると・・・どうなんでしょうね。たしかに、しっかりと基礎学力を身につけさせるのも、教師の大切な仕事の一つですから、そのプレッシャーを全否定は出来ないと思うのですが・・・教師の仕事は、それだけでもないですからね・・・そのあたりのバランスをどうとるかですよね。

やっぱり、子どもたちに対するのと同じように、先生に対しても、評価項目を「学力向上技術」一つに絞らないってことが肝心なのかもしれませんね。

もちろん、子どもたちの場合は、個々人の資質の事柄なのに対して、教師の場合は、本人が選択した仕事に関する職能の事柄ですから、「不得意なことがあっても、得意なことがあるからいいよね」なんてことも言ってはいられませんけど・・・。

でも、なんだか、今、「データ公開しろ!」っている人たちには「成績至上主義」の臭いがプンプン漂っていると、それを拒否している側には「自分たちのテリトリー死守」の胡散臭い匂いがして・・・双方共に、よりよい教育を論じているように見えないのが、一番の問題ですよね。