有事の際の姿勢というか、立ち居地をどこに置くかって、その後にも影響する重要なことだと思うんですが・・・正直、どうすれば良いのか、何がベストか、分かりませんよね。
個人の場合、それはもう、何が良いかどうか以前に、個々人の性質の問題だったりしますよね。備える場合には幾分悲観的寄りな方がいいような気がするし、何かが起こってしまった後では多分楽観的な方がよいように思いますが・・・何が良いといわれても、個人の性格だから仕方がない部分が大きいですよね。
けれど、政府機関だとかマスコミだとかの“伝え方”に関しては・・・何が良いだろうかということは、考えなきゃいかんことなんでしょうね。
たぶん・・・政府機関は、無意識に楽観的に捉えたいという祈るような思いがあるだろうし、国民がパニックを起こさないように、自分たちが責任を追求されないように、楽観的に伝えたいという気持ちが強く働くだろう思うんですよ。けど、彼らは逆に、あえて悲観的な予測をもとに対応しなくゃいけないし、パニックを恐れず悲観的なことを伝えなきゃ駄目なんでしょうね。そして、その分、どう頑張るかも、大げさに言えばいいんじゃないでしょうか、どうでしょうか。
逆にマスコミは、ここぞとばかりに悲観的なことを伝えがちなところがありますよね。よりドラマティックを求め、誰かの責任を声高に追求したい性を持っていますものね。けど、むしろ彼らには、未来に向かう力を与えるようなことを沢山発信して欲しくはないですか、そんなことないですか。災いが現在進行形なのに、明るいことなんて伝えられないのは尤もとは思いますが。
何が発信されとき、それを受け取る人間が多ければ多いほど、何がベストなのが揺らぐと思うんです。だから、全員に好ましいと感じさせる伝え方なんてあるはずもない。それはそうですよね・・・ええ、そうだと思います。
だからこそ、多種多様ってことが活きてくるんじゃないでしょうか。政府が有事に多種多様じゃマズイですが、報道機関などは、多少批判をうけたとしても、自分たちのスタンスというのをもって、独自の視点や独自の切り口、独自の主張をもって伝えてもいいんじゃないでしょうか。自分たちは中立で公平で無色なんですって逃げ道を作るより、自分たちのかけている眼鏡の色を自覚して、それを押し付けるのではなく、受け取る側に役立ててもらえるような伝え方ができると良いんじゃないでしょうか。
何を言いたかったのか、自分でも分からなくなりました(^^;。ただ、楽観的であることも悲観的であることも、両方必要だと思うのです。それを適切に使い分けていけることこそがベストなのだと思うのです。だけど、自分一人だと、なかなかそれが出来ない。巧くできないどころか、楽観的であるべきときほど悲観的になってしまい、悲観的であるべきときに楽観的になってしまいがちな気がするのです。だから、役割分担じゃないですが・・・他者と助け合って、フォローしあわなきゃって、そんな風に思うのです。
『OBERON日記』
http://blog.goo.ne.jp/oberon-p/
『生声日記』
http://v-diary.at.webry.info/
『映画鑑賞感想文』
http://blog.goo.ne.jp/rotten-b/
『あるといいなぁ』
http://h-voice.at.webry.info/
『書くことのあれこれ』
http://oberon26.cocolog-nifty.com/etcetc/
『A SCRAP』
http://moon.ap.teacup.com/oberon/
『月下対話編』
http://oberon5.cocolog-nifty.com/etc/
『死について』
http://ameblo.jp/oberon
『個の成熟を目指して』
http://ameblo.jp/oberon-a
『民生・児童委員 日記』
http://ameblo.jp/oberon-b
個人の場合、それはもう、何が良いかどうか以前に、個々人の性質の問題だったりしますよね。備える場合には幾分悲観的寄りな方がいいような気がするし、何かが起こってしまった後では多分楽観的な方がよいように思いますが・・・何が良いといわれても、個人の性格だから仕方がない部分が大きいですよね。
けれど、政府機関だとかマスコミだとかの“伝え方”に関しては・・・何が良いだろうかということは、考えなきゃいかんことなんでしょうね。
たぶん・・・政府機関は、無意識に楽観的に捉えたいという祈るような思いがあるだろうし、国民がパニックを起こさないように、自分たちが責任を追求されないように、楽観的に伝えたいという気持ちが強く働くだろう思うんですよ。けど、彼らは逆に、あえて悲観的な予測をもとに対応しなくゃいけないし、パニックを恐れず悲観的なことを伝えなきゃ駄目なんでしょうね。そして、その分、どう頑張るかも、大げさに言えばいいんじゃないでしょうか、どうでしょうか。
逆にマスコミは、ここぞとばかりに悲観的なことを伝えがちなところがありますよね。よりドラマティックを求め、誰かの責任を声高に追求したい性を持っていますものね。けど、むしろ彼らには、未来に向かう力を与えるようなことを沢山発信して欲しくはないですか、そんなことないですか。災いが現在進行形なのに、明るいことなんて伝えられないのは尤もとは思いますが。
何が発信されとき、それを受け取る人間が多ければ多いほど、何がベストなのが揺らぐと思うんです。だから、全員に好ましいと感じさせる伝え方なんてあるはずもない。それはそうですよね・・・ええ、そうだと思います。
だからこそ、多種多様ってことが活きてくるんじゃないでしょうか。政府が有事に多種多様じゃマズイですが、報道機関などは、多少批判をうけたとしても、自分たちのスタンスというのをもって、独自の視点や独自の切り口、独自の主張をもって伝えてもいいんじゃないでしょうか。自分たちは中立で公平で無色なんですって逃げ道を作るより、自分たちのかけている眼鏡の色を自覚して、それを押し付けるのではなく、受け取る側に役立ててもらえるような伝え方ができると良いんじゃないでしょうか。
何を言いたかったのか、自分でも分からなくなりました(^^;。ただ、楽観的であることも悲観的であることも、両方必要だと思うのです。それを適切に使い分けていけることこそがベストなのだと思うのです。だけど、自分一人だと、なかなかそれが出来ない。巧くできないどころか、楽観的であるべきときほど悲観的になってしまい、悲観的であるべきときに楽観的になってしまいがちな気がするのです。だから、役割分担じゃないですが・・・他者と助け合って、フォローしあわなきゃって、そんな風に思うのです。
『OBERON日記』
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『生声日記』
http://v-diary.at.webry.info/
『映画鑑賞感想文』
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『あるといいなぁ』
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『書くことのあれこれ』
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『A SCRAP』
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『月下対話編』
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『死について』
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『個の成熟を目指して』
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