風に吹かれて旅ごころ

はんなり旅を楽しむはずが、気づけばいつも珍道中。

4. 2012-3 被災地視察(名取-東松島-塩竈-多賀城)

2012-03-18 | 東北
3/18(日)  <仙台→名取市閖上地区→東松島・野蒜(大高森)→塩竈→多賀城→仙台>



○ 仙台

視察の最終日。青葉城を見る時間もなく、朝からバスに乗り込みます。
まずは南下し、名取市へと向かいました。

○ 閖上地区

ここ閖上(ゆりあげ)の被害は甚大だと聞いており、仙台の友人も「あそこはひどいよ」と言っていました。
頭でわかってはいましたが、予想をはるかに超える状態に言葉を失いました。
これまでは、内陸から遠い三陸海岸沿いの町を周ってきましたが、ここは仙台の中心からほど近い場所。
地区全体がごっそりと消滅していました。

バスのドライバーさんが「ここは混むので、初めに行った方が予定を組みやすい」と言った理由がわかりました。
使える主要道路が一本きりなのです。
津波警報が出された時、住民たちがこぞって車で逃げようとしたため、道路は渋滞し、動けずにいるところを波にさらわれて惨事が広がったそうです。
かといって、見渡す限り平地のこの地区では、近くの高台に逃げることもできません。
三陸沿いの町は、山が近いため、すぐに高台に避難した人は助かりましたが、ここではとっさの避難もままならず、最悪の事態が起こったのでしょう。



神社の鳥居がある日和山に上りました。
石段の両側には「震災復興祈願」と書かれた旗がたなびいていました。



上まで上がり、眼下に広がる景色を見て、絶句しました。
周囲360度をぐるりと見渡しても、家の土台だけが残った、砂色の世界が広がるばかり。
沈痛な気持ちになります。
一周忌に建てられた木の慰霊碑があり、犠牲となった方々の鎮魂をただ祈りました。



小山の上に、神の依り代である木の幣(ぬさ)が2本、立っていました。
両方に神社の名前が書いてあり、(神社さえも、流されてしまったんだ)とはっとしました。
つまり、この山も津波に水没したことになります。
津波でこの場所にあった社を流され、喪失してしまった富主姫神社と、同地区でやはり社殿を流された閖上湊神社を祀っているそうです。
慰霊碑のところには、献花や千羽鶴とともに兵庫県立高校音楽部のメッセージが残されていました。
「東北が甦るその日まで神戸は皆さんと共に歩みます」
まっすぐな気持ちが伝わってきて、勇気づけられました。



山の隣には石砂利を高く積み上げてならしたピラミッドのようなものがありました。(下の画像)
いまの地面から7~8mほどの高さになります。
この地区は現地再建して高台移転を行わない方針で、地域一帯にその高さまで砂利を敷き詰めて、再び人の住める場所にするという構想があるそうです。



でも、そのためには途方もない時間と手間とお金がかかります。
本当に実現させるのでしょうか。
かなり非現実的に思えますが、そのくらいの思い切った対策を取らないと、被災地復興はいつまでたっても進まないのかもしれません。

ただ、行政がそうした決定を下しても、そして慣れ親しんだ家とはいえ、つらすぎる体験をした悲しい場所に、はたして住民は戻ってくるものでしょうか。
答えは見つけられないままです。

突然、緊急地震速報が鳴って、みんなビクッとしました。
この、すべて津波にさらわれた地区の真ん中で地震に遭うのは、えもいえぬ恐ろしさです。
震源地は岩手県。急いで石段を下りたため、揺れには気が付きませんでしたが、運転席にいたドライバーはぐらっと揺れを感じたそうです。
仙台へ戻る道路はやっぱり渋滞していました。今でも慢性的に混雑しているそうです。

○ 東松島

ここからのプランは私プリゼンツです。
これまでの視察で訪れていなかったという東松島に向かいました。
震災時、仙石線が行方不明になった東松島の野蒜(のびる)海岸。
中2の夏休みに、学校のサマーキャンプで行った場所で、その後の状況がとても気になっていました。
バスはまっすぐ東松島へと向かい、松島を過ぎると、とたんに道が悪くなりました。

○ 野蒜(大高森)



まだ仙石線はここまで復旧していません。
かろうじてボロボロの駅のホームが残っているだけです。
ここも全壊・半壊の家が立ち並び、満身創痍の地域となっていました。
海岸でバスから降り、見まわして、呆然とするばかりでした。

核戦争後のように荒涼としています。林の向こうの海辺が見えないくらいにびっしりと生えていた美しい防波林が、無残な様子でなぎたおされています。





全てが失われてしまうという事態は、世界核戦争でも起こらない限り、現在の日本では起こりえないだろうと思っていました。
身近な自然はつねに穏やかで美しく、国土を潤してくれるものだと思っていました。
まさかこのような荒廃した光景を実際に目にすることになろうとは。







YouTube「2011/4/4 宮城県野蒜海岸」

かつてのサマーキャンプ場所、青少年自然の家も、あとかたもなく破壊されており、自分の思い出の場所が失われてしまったことに、想像以上の衝撃と打撃を感じました。

それから宮戸島の大高森展望台へ。
昨日の雨でぬかるんだ山道をゼイゼイいいながら登って、上から松島全景をぐるりと眺めました。 
松島が一望できます。展望台のまっすぐ先にある松島の内海は、緑豊かで風光明媚な場所のままですが、角度を変えて、私たちが通ってきた外洋に面した東松島地区をのぞむと、その辺りだけ砂色の土肌の、緑も家もない不毛地帯となっています。
そのコントラストがとても際立っていました。
YouTube「東北関東大震災その後 東松島市大高森」
東松島

松島


バスに戻り、松島を通ると、ちょうど昼時ということもあって、港の辺りは観光客で大賑わいしており、明るい雰囲気が漂っていました。
地理的に東松島に盾になってもらい、津波の被害が最小限ですんだため、観光客を呼べるのです。
観光産業が落ち込むという状態も、被災地の復興を阻む壁となります。
宮城は仙台と松島という観光拠点がそれほど被害を受けずに済んだため、観光アピールができるのは、不幸中の幸いです。



○ 塩竈

観光地として楽しそうな松島を横目で見ながら、塩釜に向かいました。
ここの港湾の被害状況を調べましたが、思ったよりも復興が進んでおり、見るも無残な状態ではなくなっていました。
ただ、駅前の店はほとんど閉店中で、シャッター通りのようになっています。
少し港から離れると、家を取り壊し中の光景をよく見かけました。
湾岸には仮設のしおがま・みなと復興市場ができて、にぎわっていました。

最近では塩の本場として、はやりの塩スイーツをどんどん発信していましたが、まだ再開できていないお店も数多くあります。
ここで昼食にしました。
塩釜は日本一の寿司処と言われているそうで、たしかに寿司屋がたくさんありました。



本塩釜の「鮨はま勢」で握りを食べました。
塩釜の寿司は、たしかにとてもおいしかったです。
貝のお吸い物は、香りも味も文句なしでした。
被災地の食べ物は、どれも海の幸で恵まれたものばかり。
海と共存して暮らしている人々の土地なのだと改めて考えて、切なくなります。

○ 多賀城へ

それから、私の住んでいた隣町の多賀城へ。
1日目に事前チェックしておいた、多賀城中学校校庭内の仮設住宅を見学します。
休日だったため、子供たちが遊んでいました。
住居者は中学生と一緒に校門から出入りしているのかな?と思いましたが、学校の塀を壊して、専用の入口を作っていました。



それから、末の松山へ向かいます。
住宅地の細道の奥にあり、道に詳しいドライバーも知らないとのことで、下見をしておいてよかったと思いました。

まずは沖の石へ。

「わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」 二条院讃岐(92番)
(私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のよう。
 他人は知らないでしょうが、[涙に濡れて]乾く間もない)

と百人一首に読まれたように、「沖の石」は歌碑として平安時代以前よりありました。
末の松山の道の向かい側にある小さな池に、大きな奇岩がゴロゴロ置かれて岩場となっています。
その石の分析より、昔はここが海岸だったことの証明とされています。
「沖の石」という名前の意味もわかります。





そこから60mほど、ゆったりとした坂を上がったところの、末の松山まで一行を案内しました。
小さな丘に2本の松が植えられています。二代目となる、樹齢740年を越える黒松だそうです。

「契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは」(42番)
(約束しましたよね、涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように2人の愛も変わらないと。それなのに)

こちらも百人一首で、清少納言の父、清原元輔の歌です。
「末の松山浪こさじ」とは、「地球が壊れることがないように」「太陽が西から上ることがないように」のような、「心変わりは絶対にあり得ない」ことを指すロマンチックな表現だと覚えていましたが、町内に住むゴエちゃんが「末の松山浪こさじ」の言い伝えを信じて、津波の時に末の松山まで逃げ、津波に巻き込まれずに済んだ(彼女の家は浸水)と聞いたため、はっとして調べたところ、この浪は津波を指すという研究報告がなされていることを知りました。

「1000年に1度の揺れ」とされる今回の東日本大震災で比較され、改めて注目されているのが、平安時代の869年(貞観11年)に起こった貞観(じょうがん)地震・津波。
今から約1100年前になります。震源地は、今回と同じ三陸沖。
その時に押し寄せた津波が末の松山を超えなかったため、その名前は遠く京都まで届き、歌人が歌に取り入れたのだろうと言われています。



末の松山を題材にした和歌が20首ほどあることも知りました。

「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ」(古今和歌集・東歌)
(あなたをさしおいてわたしがほかの人を思う心をもったら、あり得ないことだが、末の松山に波が越えてしまうだろう)

松尾芭蕉もこの地を訪れ、『おくのほそ道』に記しています。



地元では、貞観津波で波が来なかった場所として知られており、今回の津波でも、ゴエちゃんのように100人ほどの人が避難しました。
今回の震災は、貞観地震よりも大規模だったといわれますが、今回の津波もまた、末の松山は越えませんでした。
1100年後の今、伝説がまた一つ増えたわけです。



それから多賀城政庁跡へと行きました。
多賀城は陸奥の国府として724年に創建され、平安時代の東北地方の政治・軍事基地として栄えました。
つまり貞観地震時に国府だった場所です。







中学生の頃、親に連れられて訪れた時には、柱の跡に石が埋め込まれているだけの光景に全く心惹かれず、すぐに飽きてしまいましたが、今回訪れたら、礎を通してかつての華やかな城の様子が想像できて、しばらく歴史ロマンに浸りました。
私も少しは成長したというわけです。



かつて仙台に赴任していたTボスは「多賀城が貞観地震で大被害を受けたのは知っていたけれど、訪れなかった」と興味深げでした。
「大宰府跡よりもいい」とのことです。
政庁跡に至るまでの道は、ゆったりとした坂になっており、人は一段一段石段を踏みしめながら、登庁していくようになっています。
津波も来ない内陸の高台にある政庁からは、多賀城の町がパノラミックに広く見渡せ、当時ここを拠点地としたのもうなずけます。

隣の丘にある「壺礎(つぼのいしぶみ)」も訪れました。日本三古碑の一つです。
大きな石に、724年に多賀城が大野東人によって創建され、762年に藤原朝狩によって修造されたことが刻まれています。

多賀城 京を去ること一千五百里
     蝦夷国の界を去ること一百二十里
     常陸国の界を去ること四百十二里
     下野国の界を去ること二百七十四里
     靺鞨国の界を去ること三千里
此の城は神亀元年(七二四年)歳は甲子に次る、按察使兼鎮守将軍・従四位上・勲四等・大野朝臣東人の置く所也。
天平寶字六年(七六二年)歳は壬寅に次る、参議東海東山節度使・従四位上・仁部省卿・兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝、修造する也。
     天平寶字六年十二月一日

(多賀城は、京を去ること1500里、蝦夷国の境を去ること120里、常陸国の境を去ること412里、下野国の境を去ること274里、靺鞨国の境を去ること3,000里にある。
 この城は、神亀元年(724)、按察使・兼鎮守将軍・従四位下大野朝臣東人の造ったもので、参議・東海東山節度使・従四位上・按察使・鎮守将軍藤原恵美朝臣朝狩が修理した。)

長い年月を経て、歴史を正確に伝えてくれているロマン。
歌の世界では有名な歌枕で、芭蕉も訪れ、いたく感激しています。



視察隊で一人だけ文系の私がガイドをしたため、最終日は歴史・文学っぽい視察地プレゼンとなりました。
前日までの「被災地」ではなく「被災を小さくした場所」という視点で巡りました。
理系のみんなが飽きなかったかと反応が気になりましたが、「まさか和歌を引っ張ってくるとは」「初めて訪れる場所ばかりだった」「新鮮だった」とおおむね好評でほっとしました。
多賀城跡の端から端まで歩いて足で確かめてみたら、600mもあったと教えてくれたメンバーもいました。

宮城の旅行プランを見ても、多賀城が組み込まれているものはほとんどありません。
市はもっと観光に力を入れて、宣伝すべきだと思うんですが。こういった史跡が好きな人は大勢いるでしょうから、もったいないです。

○ 仙台

夕方にバスは仙台に着きました。
私は新幹線を遅くにずらし、帰京するメンバーを見送って、帰る前にまた友人と会いました。

駅ビルのエスパル地下は、東京のデパちかと変わらない感じ。
お洒落なカフェ、レ・フィーユで宮城いちごパフェを頼みました。





「宮城いちごってなんですか?」とウェイトレスさんに聞いたら、「いつもは仙台いちごパフェを出すんですが、震災の影響で入荷が難しくなったため、宮城いちごとなっているんです」と少し残念そうに教えてくれました。
気になって後で調べてみたら、仙台イチゴは東北一の生産量で、亘理町・山元町でその約8割を生産していましたが、いちご農家は沿岸部に集中していたため、収穫最盛期の3月に発生した震災と津波によって約95%のハウスが被害に遭い、つまりほぼ全滅してしまったとのことです。

亘理町と山元町といえば、被害が大きかった地域。
これまで仙台イチゴを意識したことはありませんでしたが、食べられないとなるとむしょうに食べてみたくなるのが人の常。
1年たった今年も食べられないなんて、残念で仕方がありません。



そこで、かもかもと少し会ってから、クミちゃんと比内地鶏の店で食事をしました。
みんなで一度に会うのも楽しいですが、一対一で会うと、サシでじっくりと話ができます。
楽しい話や同窓会の話などをしていたところで、「そういえば、キジマ先生って覚えてる?」と彼女が言いました。
覚えています。家庭科の先生で、部活の副顧問でした。
「あの先生、小学校の校長先生になっていたんだよ」
驚きました。女性ながら、そして家庭科ご専門から校長先生になられたとは、なんて立派なんでしょう。
教育への努力が評価されてのことだろうと思います。
すごいすごいとはしゃぐ私の横で、クミちゃんは複雑な表情をしていました。
「でさ、先生、野蒜小学校の校長だったのよね」
はっとしました。この日訪れたばかりの、被災地・東松島にある小学校だったとは。
「だから地震が起こった時、全校生徒を体育館に避難させていたら、津波がやってきて、ステージ上にみんなで逃げたんだって。ただその程度の高さではどうにもならず、濁流に呑まれてぐるぐる回っていたら、水面上に出た腕をだれかが引っ張って、体育館の上にある格子のところに引き上げてもらって、奇跡的に助かったんだって。
ただ、水が引いた後の惨事はとてもひどかったとか・・・」

血の気が引きました。先生が助かったのは、教え子として本当に嬉しいことです。心から安心します。
ただ、先生は学校の責任を負うべき校長職。犠牲者も出て、その心労はいかばかりだったことでしょう。

あとで調べてみたら、記事がありました。
「迫る津波…心支えた「ファイト!」 宮城・野蒜小」

YouTubeには、野蒜上空からの動画があり、がらんどうの小学校も映し出されていました。
外は吹雪だったとのこと。暗闇の中、救助されてもずぶぬれで低体温症になった人もいたそうです。
防災マップの浸水域からも外れていたという小学校。次の災害に備えて、指定避難所の再検討・調査が必須です。

つらい体験をされたキジマ先生。
仕事は関係なく、かつての教え子として、いつかお会いできる時が来ますように。

新幹線の時間が近づき、クミちゃんに見送ってもらいました。
とにかく今回、旧友たちと再会できてよかった。
別れがつらくなり、最後にまたハグしたら、彼女が笑いながら「うわあ、変わってないねー。覚えてる?初めて会った時もハグしてきたんだよ」と言いました。

・・・覚えてません!しかし言われてみると、当時ハグ番長だった記憶もうっすらとよみがえってきます。
ああ、昔の友達って、本当に忘れ去った過去をもちだして不意打ちしてくるからたまらないわ!(おたがいさま)

しかも、彼女からのその後のメールには
「中学卒業時のサイン帳の話が気になって、家でサイン帳を探して見ていたら懐かしかった~。
もちろん、リカのもあったよ。
『クリスマスにはパオパオって騒いだりお家の方にも迷惑をお掛けしました』だって~」
と書いてあって、見事に撃沈しました。パオパオってなんじゃい、私!

まあでも本当に、懐かしい友人たちと再会できたことが、何より心強かったです。

今回の視察で感じたことは、震災から1年たった今でも、まだまだ復興は進んでいないということです。
危険な建物や倒木が取り壊されて、土台のみのなにもない土地になりつつありますが、今後津波被害を受けた土地をどうやっていくのか、決めなくてはいけないことが山積みです。
がれき処理問題もいつ片がつくか分からない状態。
被災地はもう限界ですし、放射能問題も絡むため、ほかの自治体も受け入れは難しいところ。
国がもっとテコ入れしないと、長期化してしまう話だと思います。

現地では、住民の姿は一切なくても、ショベルカーがいたるところで作業をしており、被災地は決して打ち棄てられているわけではなく、少しずつ復旧し続けているんだという印象を受けました。
私たちが個人レベルでできることは、ボランティアか観光。
ボランティアも、時間が取れない社会人にはなかなか難しいものですから、やはり観光で復興協力するのがよさそうです。
そして何より、忘れないことが一番大切でしょう。
日本にいる限り、自然災害に被災する可能性はあります。
人ごとと思わずに協力することが「情けは人のためならず」となるのでしょう。

かといって、いつも災害のことばかり考えて暗い気持ちでいるのがいいこととは思えません。
私は視察から帰ってから一週間は、衝撃が強すぎてまったく使いものになりませんでしたが、むしろ日本の各地で明るく元気に日々を過ごしていくことが、日本を活気づける道だと思います。
現地の近しい人たちと、心は寄り添っていたいですが、被災地と一緒に嘆くよりも、被災地を勇気づけ、励まし続ける力を身につけたいです。

今回のブログは、かなりきつい内容だったと思います。
掲載写真はもっとソフトなものにしようかとも考えましたが、1年たった被災地の現状を記録しておきたいと思い、ショッキングなものも載せました。
ここまで読んで下さった方は、被災地のことを忘れずに気にかけて下さっている方々でしょう。
長々と最後までお付き合い頂いて、どうもありがとうございました。


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