風に吹かれて旅ごころ

はんなり旅を楽しむはずが、気づけばいつも珍道中。

3. 2012-3 被災地視察(盛岡-宮古-大槌-釜石)

2012-03-17 | 東北
3/17(土) <一関→盛岡→宮古(田老)→山田→大槌→釜石→仙台>

 



○ 一関

朝6時にホテルを出発し、新幹線で盛岡へと向かいます。
平泉がすぐそばなのに、行けなかった~。
以前平泉を訪れた時、「カザリン台風による浸水地点」の表示を見たことがあります。
昭和22年のことで、床上3mにも及んだとか。かなりの被害だったんですね。
(と、仕事っぽいことも言ってみる)

○ 盛岡



雪がちらつく中を、震えながらバスに乗り込みました。
盛岡地方裁判所の石割桜を見ましたが、まだ蕾にもなっていませんでした。
岩手県公会堂が日比谷公会堂とそっくり同じ建物に見えて、何度もまばたきしました。
建築家が同じなんですね。まるでアムステルダム駅と東京駅のように、うり二つです。



一関も盛岡も通り過ぎるだけ。バスは昨日同様に、一路三陸を目指しましたした。
内陸の山間部を突っ切って沿岸部へ。
この辺りは民話の里、遠野地方のそばなんですね。
途中休憩した道の駅・やまびこ館から望む周囲の山々は、まだまだ一面の雪景色でした。

○ 宮古(田老)



沿岸に着き、まずは田老へと向かいます。小学生の頃、龍泉洞に行く途中で通った場所ですが、大防波堤のことは全く覚えていません。
見ていたとしても、その意味はよくわからなかったのでしょう。
日本が誇るスーパー堤防に上がりました。海面から10メートルの高さがある2.4キロの大防波堤です。



堤防の上は、軽自動車が走れるくらいの幅があり、こんなにぶ厚いものとは思いませんでした。
しかも堤防は二重になっているという、念の入れよう。



万里の長城やベルリンの壁以上に頑丈でびくともしない堤防。内側からは、まったく海が見えません。
これだけすごい日本一の大堤防なのだから、津波もぜったいに防げるはず、と住民が安心して頼みにするのも、わかります。

ここは、第一波の津波が片側の山に当たり、跳ね返ったところに後から来た波とぶつかって、倍の高さになって町を襲ったんだそう。
堤防の内側にも、もう町はなく、人の気配もありません。私たちのバスがぽつんと停まっているだけです。



地震の第一報を受けた地元消防団が、すぐにパトロールに動いたため、津波の襲来から逃げ遅れたそうです。
防波堤にはトラックが通れる大きさの鉄の扉があり、非常時には手動で閉めて波をブロックするようになっていましたが、なかなか閉められなかったのだそう。



それは、まだ湾の方から仲間が戻れていないためで、扉を閉めて仲間を見捨てることはどうしてもできなかっただからだそうです。
今回の津波では、そういった自警団や町内消防団の人々が多く被害に遭い、命を落としています。
みんなボランティアベースで、公務員として任務に当たる消防隊員や自衛官に比べるとはるかに装備が行き渡らず、被害保障もきちんと整っていないそうです。

 



田老町は、2005年に宮古市に合併されました。元役場には、その時に埋めたタイムカプセルが埋められていました。
「2015年 未来へのプレゼント」と銘打たれた、明日への希望に満ちたメッセージを読み、目の前に広がる荒野と化した町を見渡して、涙が止まりませんでした。



○ 山田町(陸中山田駅跡)

長く続く田老防波堤に沿って移動しました。
母親が「あの美しい砂浜は震災後にはどうなったのかしら」と気にしていた浄土ヶ浜の辺りも通りましたが、道路からは離れており、見られませんでした。
浜辺で有名な観光地ということは、居住地区ではなく、人的被害という点ではさほど大きくないということから、今回の視察地には入っていなかったのです。

陸中山田駅があった場所へと向かいました。
鉄道が通っていたという雰囲気は、すでにありません。
かろうじて、駅のホームらしいコンクリが残っているだけです。
線路も除去されており、発掘された遺構のようになっていました。
ある意味、遺構ですね。



山田線は私鉄で、社長は復旧を宣言していますが、今のところその具体的な見通しは立っていないとのこと。
JRと違って私鉄は国の保証が下りるのか微妙なため、再開までに時間がかかりそうです。



山田湾から見える大島と小島は、津波が来る前に潮がいったんザーッと引いたため、二つの島が繋がって見えたといいます。
そこまで潮が引くなんて、完全に異常事態ですね。
ここは高台移転候補地。町長の家も流されてしまったそうです。



○ 山田町(船越地区)

滅入ってくる気持ちとクロスするかのように、だんだん雨がひどくなってきました。

船越湾ぞいの集落へと向かいました。船越小学校は、一段高台にあり、さらに底上げして建てられていますが、そこにも波が来たそうです。
ほとんどの家が流され、破壊されてしまい、今は土台しか残っていませんが、時々ポツンと立っている建物があります。
建物の外枠だけしか残っていないようなものは、鉄筋でなく鉄骨だとのことです。



防潮堤が流されてしまったため、代わりに土嚢を積んでいる様子が、なんとも心もとなく映りました。
また津波が来たら、どうなってしまうのでしょうか。

遠くから見渡すと、山の一定の高さ以上にしか家はなく、麓近くの森の木々は茶色に変色しているため、津波が押し寄せたラインが一目瞭然。
昭和三陸津波の時に高台に移り住んだ人は、今回助かりました。
津波の被害を受け続けるこの地域の人々は、昔から高台に家を建ててきたそうですが、戦後になって人が増え続けたため、下にも住むようになったとのこと。
津波の記憶が薄れたり、土地の事情が分からずに外からやってきた人も多かったのでしょう。



バスががれきの山の横を通ると、本当にぐったりします。
はじめは真っ黒な固まりのように思えていましたが、よく見るといろいろなものが見えてきて、単なるゴミではないのだとわかります。
それどころか、どれももともとは人々が生活する上で使っていたものばかりなんですよね。
思い出の品々は住民やボランティアがもう取り出しているとは思いますが、生活感が漂う風呂釜やバギーカーの一部、色褪せたさまざまな破片や欠片が積み上げられており、確かに誰かの所有物だったとダイレクトに伝わってくるため、とても直視できません。
現実の重さに、どんどん心が壊れていきそうです。

普段の生活では、がれきを見ることはめったにありません。
あったとしても、工業地帯などでの産業廃棄物の山などです。
人々の生活用具の変わり果てた姿である、被災地のがれきの山々は、悲しみの負の存在。
それがあるだけで、人の活力をそぎ、否応なく無気力にさせるものだと、実感しました。



あまりにもすさまじい自然の猛威の跡を目にして、もう悲しさしか自分には残っていない感じ。
絶望感で、生命力さえ弱まっていく気がします。
観光とは美しいものを観に行くものですが、視察は、そうとは限りません。
でも、ありのままを見届けなくては、今回の旅の目的は果たせないのです。

すっかりアンニュイになりましたが、それでもNボスお勧めの四十八坂の磯ラーメンはとてもおいしく、冷えた心身が温まりました。
海の幸の具だくさん。自然のうまみがしみわたるようで、少し元気が出ました。
丸い星座占いが置いてあるのが昭和っぽくて、(まだあるんだ~)となごみました。



○ 大槌町

昼食後に訪れたのは、大槌町。
先日、静岡の島田市ががれきの受け入れを決めた地域です。

約1万6000人の人口の1割近くが死亡・行方不明となり、6割の家屋が被災しました。
町役場そのものが津波の直撃を受け、町長を含む職員の約4分の1の命が失われました。
すっかり廃墟と化した大槌町役場。あまりの惨状に、打ちのめされる思いです。
教えてもらうまで、ここが町の行政の中心地だったとは気がつかないほどでした。
壁の時計は、おそらく津波の来た時間に止まったのでしょう。

雨が降っており、地面は水たまりだらけでした。
下水道が破壊されてしまったため、水はけが悪くなっているのです。



ここにもたくさんの献花があり、尊い命のご冥福をお祈りしました。

地図を見ると、大槌町に吉里吉里地区があります。
井上ひさしの『吉里吉里人』は、ここが舞台だったんですね。
さらに彼が脚本を手掛けた『ひょっこりひょうたん島』の舞台である蓬莱島も、湾にあります。
ただ、雨が強くなってきて、車窓からはよくわかりませんでした。

○ 釜石

釜石に着きました。この町は、被害を受けた沿岸地域と全く受けなかった山裾地域とで、はっきりと分かれています。
道路の片側は、普通に機能している町なのに、反対側は、一面がれきの世界。

大川小の悲劇とは対照的に、校舎の3階部分まで津波にのまれ、全壊した釜石東中学校と鵜住居小学校の生徒の避難率がほぼ100%だったため「釜石の奇跡」と呼ばれています。
「津波てんでんこ」という三陸の言い伝えを、小中学生にも教えこんだ成果です。
地震が起こった直後に、災害情報を待たずに避難したのが何よりの成果。
上履きのまま、振り返って津波を見ることもなく、中学生は小学生の手を引いて、とにかく高台へと逃げたということが、冷静な避難につながりました。

実際に生徒たちが避難したデイサービスセンターまで行ってみました。
登り坂で、1キロほどの距離がありました。
無我夢中で必死に走り続けたのでしょう。
ここまで一目散に逃げた彼らの姿を見て、大人も一緒に避難したそうです。
今後、三陸地域の模範例となることでしょう。
小学校と中学校が隣接しているという連携の地の利も頷けました。

こちらが中学校


こちらが小学校



しかしここも、がれきの山だらけ。
『未来少年コナン』の核戦争後の世界を連想しました。
建物は骨組みだけ残っていても、中がなく、がらんどう。
津波が浸食していった抜け殻のようで、自分までがらんどうになったように思えてきます。



雨は窓を打ち付けるほど強くなっていました。
視界がどんどん悪くなってきた中で、突然白い大きな銅像が見えました。
釜石大観音です。湾岸に立ちながらも今回の地震にも津波にも倒れることが無かった、真っ白な観音像は、どれだけ住民の心の支えになったことでしょう。

湾内にある巨大堤防も見えるはずでしたが、あいにくの霧と雲で、目を凝らしてもよくわかりませんでした。
釜石港湾口防波堤は、水深63mの海底から立ち上げたもので、2010年に「世界最大水深の防波堤」としてギネスブックで世界記録認定されています。

今回は、市街地区域への津波浸水を6分遅らせ、津波高を4割・最大遡上高を5割減らしたとのこと。
莫大な予算を投じて作られた防波堤なので、費用対効果が気になりますが、たかが6分、されど6分。
6分あれば、避難途中で助かる命の数がぐんと上がるのです。

○ 仙台

それから大船渡や陸前高田、気仙沼を通りましたが、暴風雨となったため、車窓からではよく景色はわかりませんでした。
夜が近づいてきたので、視察はここまでとなり、一路仙台へと向かいます。

ホテルにチェックイン後、みんなは連れだって牛タンを食べに行きましたが、私は部屋で中学時代の友人たちと会いました。
今回来てくれたのは、いっくとお子さん、かじ、かもかも。
かじとかもかもは、中学以来ですが、一目見たらすぐにわかりました。
人って変わらないものねー。
前回訪れた時よりも、懐かしい顔にいろいろ再会できて、嬉しいです。
がらんとした被災地ばかり見てきて、すっかり人恋しくなっていたため、みんなとハグしまくります。



木曜に続き、この日もプチ同窓会といった感じに盛り上がりました。
空白を埋めるために「まずはみんな、中学を出てから今までの話をしよう」ということになりましたが、3人とも中学に続き高校・大学も一緒だったとのこと。
ずっと学校が一緒なんて、転勤族にとってはうらやましい関係です。

それから「3.11はどう過ごしたか」という話になりました。
今では3人とも仙台在住ですが、実家は多賀城。
仙台は、数日後にはライフラインも復旧したそうですが、多賀城は、隣の市でありながら仙台よりもはるかに復旧が遅かったそうです。
電気は早かったけれど、水はひと月後まで来なかったと聞いて、驚きました。
時折まわってくる給水車が頼みの綱だったとのこと。
また、いっくの住む岩切は、2週間電気ナシの生活を強いられたそうです。

都市ガスも途絶えたきりだったけれど、全国のガス関係者が被災地に集結して「開栓隊」という車で一戸一戸の家を周り、ガスを復旧してくれたそうです。
一軒ずつなので、時間はかかったそうですが、町で開栓隊の車を見ると、明るい気持ちになったとのこと。

一番きつかったのは、石油や灯油が無いことだったとか。
タンクローリーが来たガソリンスタンドに長い列を作って、時には8H並ぶこともあったそうです。
聞いているだけで、具合が悪くなりそう。
車社会だし、寒い時期だったので、暖を取るにも石油は欠かせなかったのでしょう。

共通の友人が、地元の蔵元「一ノ蔵」に就職したそうですが、津波の被害を受けて工場が止まったと聞きました。
杜氏になったのかなと思いきや、パッケージデザインを担当していたそうです。
そういえば彼女は、中学の時も美術部でした。

かもかもは、震災当日、ちょうど息子さんが腹痛で学校を休んで一緒にいたそうです。
いっくちゃんも、たまたま学校のイベントで、娘さんと調理室でホットケーキを作っていたそうです。
だから地震後、すぐに一緒に避難できたとか。

いっくちゃんはそのまま、上着も着ずにスリッパで体育館に避難して、寒さに震えていたら、見かねた男の先生が、倒壊被害の危険を冒して校舎に入り、生徒と保護者の服を取ってきてくれたそうです。
地域の避難場所になっている小学校だけれど、見るからに出張途中のスーツ姿のビジネスマンまで続々やってくると思ったら、どうやら駅が、閉鎖するにあたって、人々にその学校に行くよう、指示していたんだとか。
そのため、予想外の人が押し寄せてしまい、校長も対処しきれずに目を白黒させていたとのこと。
最後には、やってきた人々が座りきれずに、体育館で立ちっぱなしになったのどだったとか。
「あれは連携がうまく取れていなかった。二次災害も起こりかねないほど、収容人数のキャパを超えていた」と言っていました。

そのまま体育館が避難所となったそうですが、いっくちゃんは、お子さんが手が離せないため、家具が全て倒れてしまった家に戻って、子供のスペースだけ確保し、余震が起こるたびに、娘におおいかぶさって耐えていたそうです。
「あの地震は、子供には耐えきれないほどのパニックと不安を引き起こしたから、ちょうど子供と一緒にいた時で、本当に良かった」と言います。
一人きりだったら、恐怖のあまり子供の発達心理に影響があっただろうとのこと。
あの震災を今でも引きずって心を閉ざしてしまった人は、被災地に限らず、日本中に大勢います。
特に子供は、健やかに育ってもらいたいもの。心的被害が癒されることを祈るばかりです。

かもかもは、旦那様の職場が無くなったため、今は東京で働いており、実質いつまで続くか分からない単身赴任状態だとか。
家族が震災のせいで離れ離れになって、かわいそうです。

中でも一番驚いたのは、かじの話でした。
彼女は仙台の職場に泊まったそうですが、しばらくは多賀城の実家と連絡が取れず、うちの親よりも年上のご両親だけに、不安がつのったと言っていました。

あの時、国道45号線沿いの彼女の実家に津波が押し寄せて、家は濁流の中で孤立したそうです。
ご両親が、家の中でなすすべもなく震えていたところに、ドイツ人家族3人と30代の男性が津波に流されるように逃げ込んできたそうです。

ご両親もドイツ人家族も、パニックでフリーズ状態だったところを、男性がてきぱきと上へみんなを誘導し、毛布を取ってきて励まし続け、みんなで暖をとり合いながら不安な一夜を明かしたんだとか。
「その人のおかげで、孤立した家でもうちの親は生存できたのよ」

そのドイツ人一家は、後日救助されて行った避難所で、帰国する外国人対象の東京行きバスが出ると知り、仙台まで行きたがったそうです。
ただ、仙台までの主要道路は津波にやられ、交通機関は全て不通になっていました。
彼らのために、ガソリンが貴重な時なのに、仙台まで車を動かしてくれた徳の篤い人がいたそうです。
しかし、主要幹線はどこも津波の漂流物や渋滞で動けず、迂回に迂回を重ねてようやく仙台までたどり着いた時には、もうバスは出てしまっていたとのこと。
肩を落とす彼らに「新潟まで出たら東京へ行く電車がある」と教えて、連れて行ってあげた人がおり、数々の人の好意に支えられ、ようやくのことで、彼らは無事に帰国できたそうです。

「すごい話ね」と言ったら、「ニュースになったよ」とのこと。
帰宅後に検索したら、ネットでも出ていました。
「津波にのまれたドイツ人一家、日本人の親切に感謝」

「シュピールベルクさんの被災体験」

かじに「記事を読んだよ」と連絡したら、
「あの後、ドイツからもTVクルーが来たりと何だか大騒ぎだったけど、親にあまり思い出させたくないから、気が重かったなぁ。
ただ、とてもきちんとした方々で、ドイツに帰ってから色々募金活動とかして下さってるようです」
という返事が来ました。
私たちには美談に思えることでも、当事者にとってはつらい記憶でしかないものですね。
そうした気持ちを、いつでも気付けるようにならなくては、いけませんね。

去年のクリスマスには、巨大なシュトーレンが届き、ご両親はびっくりして彼女に手紙の翻訳を頼んだそうです。
地震も津波も縁遠い海外の人にとっては、想像を絶する大変な体験で、彼らもできれば思い出したくないことでしょうけれど、帰国してもなおその体験を伝えてくれているのは、とてもありがたいことだと思います。

そういえば、YouTubeに、東北放送のカメラマンが、多賀城で津波警報を聞いて、すぐにタクシーから降り、近くのビルの上階に逃げて、命拾いした動画が載っていました。
私が住んだ町が・・・。

津波の時には、とにかく車から降りて逃げること。
波がくるぶしの位置まできたら、簡単に足をさらわれます。
遠くの高台を目指そうとせず、近くの丈夫で高いところに逃げること。
これが大事です。

この日も、3人とも口をそろえて「被害状況は、見ちゃいけない、行っちゃいけないと思っていたし、余震が怖かったので、しばらく屋内にこもっていた」と言いました。
すぐそこに遺体があるという、異常な事態。
それを避けるのは、人間の本能だと思います。

お喋りをしている最中、夜11時前に地震が来て、みんなハッと口をつぐみました。
縦揺れが長く続いたので、(震源地が近いんだ)と緊張します。
でも震度3程度だったそうです。
関東でも結構揺れたと、後になって聞きました。

みんながそれぞれに大変な体験をしており、聞くだけでハードな話に赤くなったり青くなったりしましたが、最後には「でもあの時は、東京もひどかったよね」と心配してもらったので、(直接の被災地の人にねぎらわれるなんて!)と申し訳ない気持ちになりました。
東京が大変だったのは、地盤沈下した箇所もあったものの、ほぼ帰宅困難者問題で、行動意識で改善されることだと思います。

でも、自分の大変さよりも相手を思いやる心の深さが、日本人、そして東北人の優しさなんですよね。
なんだか今回は、再会した友人に逆に癒されているような気がしてなりません。
ここ二日間、友達とのメールについ「視察はつらい」とこぼしてしまい、「そうだよね、わかるよ」と心配され通しでした。
被災地のみんなの心の支えになりたいとつねづね願っていたのに、実際には全く逆で、私の方が優しさに甘えてすがってしまっています。
だめですね。



みんなのおかげで、楽しい夜を過ごせました。
ホテルの部屋はコージーで落ち着きますが、今日も簡単には消化できないことばかり見聞きしたため、横になってもやっぱりなかなか寝付けませんでした。



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