風に吹かれて旅ごころ

はんなり旅を楽しむはずが、気づけばいつも珍道中。

東日本大震災一年後被災地視察 index

2012-03-19 | 東北


             1st day 多賀城

             2nd day 仙台-女川-南三陸
 
             3rd day 盛岡-宮古-大槌-釜石

             4th day 名取-東松島-塩竈-多賀城


4. 2012-3 被災地視察(名取-東松島-塩竈-多賀城)

2012-03-18 | 東北
3/18(日)  <仙台→名取市閖上地区→東松島・野蒜(大高森)→塩竈→多賀城→仙台>



○ 仙台

視察の最終日。青葉城を見る時間もなく、朝からバスに乗り込みます。
まずは南下し、名取市へと向かいました。

○ 閖上地区

ここ閖上(ゆりあげ)の被害は甚大だと聞いており、仙台の友人も「あそこはひどいよ」と言っていました。
頭でわかってはいましたが、予想をはるかに超える状態に言葉を失いました。
これまでは、内陸から遠い三陸海岸沿いの町を周ってきましたが、ここは仙台の中心からほど近い場所。
地区全体がごっそりと消滅していました。

バスのドライバーさんが「ここは混むので、初めに行った方が予定を組みやすい」と言った理由がわかりました。
使える主要道路が一本きりなのです。
津波警報が出された時、住民たちがこぞって車で逃げようとしたため、道路は渋滞し、動けずにいるところを波にさらわれて惨事が広がったそうです。
かといって、見渡す限り平地のこの地区では、近くの高台に逃げることもできません。
三陸沿いの町は、山が近いため、すぐに高台に避難した人は助かりましたが、ここではとっさの避難もままならず、最悪の事態が起こったのでしょう。



神社の鳥居がある日和山に上りました。
石段の両側には「震災復興祈願」と書かれた旗がたなびいていました。



上まで上がり、眼下に広がる景色を見て、絶句しました。
周囲360度をぐるりと見渡しても、家の土台だけが残った、砂色の世界が広がるばかり。
沈痛な気持ちになります。
一周忌に建てられた木の慰霊碑があり、犠牲となった方々の鎮魂をただ祈りました。



小山の上に、神の依り代である木の幣(ぬさ)が2本、立っていました。
両方に神社の名前が書いてあり、(神社さえも、流されてしまったんだ)とはっとしました。
つまり、この山も津波に水没したことになります。
津波でこの場所にあった社を流され、喪失してしまった富主姫神社と、同地区でやはり社殿を流された閖上湊神社を祀っているそうです。
慰霊碑のところには、献花や千羽鶴とともに兵庫県立高校音楽部のメッセージが残されていました。
「東北が甦るその日まで神戸は皆さんと共に歩みます」
まっすぐな気持ちが伝わってきて、勇気づけられました。



山の隣には石砂利を高く積み上げてならしたピラミッドのようなものがありました。(下の画像)
いまの地面から7~8mほどの高さになります。
この地区は現地再建して高台移転を行わない方針で、地域一帯にその高さまで砂利を敷き詰めて、再び人の住める場所にするという構想があるそうです。



でも、そのためには途方もない時間と手間とお金がかかります。
本当に実現させるのでしょうか。
かなり非現実的に思えますが、そのくらいの思い切った対策を取らないと、被災地復興はいつまでたっても進まないのかもしれません。

ただ、行政がそうした決定を下しても、そして慣れ親しんだ家とはいえ、つらすぎる体験をした悲しい場所に、はたして住民は戻ってくるものでしょうか。
答えは見つけられないままです。

突然、緊急地震速報が鳴って、みんなビクッとしました。
この、すべて津波にさらわれた地区の真ん中で地震に遭うのは、えもいえぬ恐ろしさです。
震源地は岩手県。急いで石段を下りたため、揺れには気が付きませんでしたが、運転席にいたドライバーはぐらっと揺れを感じたそうです。
仙台へ戻る道路はやっぱり渋滞していました。今でも慢性的に混雑しているそうです。

○ 東松島

ここからのプランは私プリゼンツです。
これまでの視察で訪れていなかったという東松島に向かいました。
震災時、仙石線が行方不明になった東松島の野蒜(のびる)海岸。
中2の夏休みに、学校のサマーキャンプで行った場所で、その後の状況がとても気になっていました。
バスはまっすぐ東松島へと向かい、松島を過ぎると、とたんに道が悪くなりました。

○ 野蒜(大高森)



まだ仙石線はここまで復旧していません。
かろうじてボロボロの駅のホームが残っているだけです。
ここも全壊・半壊の家が立ち並び、満身創痍の地域となっていました。
海岸でバスから降り、見まわして、呆然とするばかりでした。

核戦争後のように荒涼としています。林の向こうの海辺が見えないくらいにびっしりと生えていた美しい防波林が、無残な様子でなぎたおされています。





全てが失われてしまうという事態は、世界核戦争でも起こらない限り、現在の日本では起こりえないだろうと思っていました。
身近な自然はつねに穏やかで美しく、国土を潤してくれるものだと思っていました。
まさかこのような荒廃した光景を実際に目にすることになろうとは。







YouTube「2011/4/4 宮城県野蒜海岸」

かつてのサマーキャンプ場所、青少年自然の家も、あとかたもなく破壊されており、自分の思い出の場所が失われてしまったことに、想像以上の衝撃と打撃を感じました。

それから宮戸島の大高森展望台へ。
昨日の雨でぬかるんだ山道をゼイゼイいいながら登って、上から松島全景をぐるりと眺めました。 
松島が一望できます。展望台のまっすぐ先にある松島の内海は、緑豊かで風光明媚な場所のままですが、角度を変えて、私たちが通ってきた外洋に面した東松島地区をのぞむと、その辺りだけ砂色の土肌の、緑も家もない不毛地帯となっています。
そのコントラストがとても際立っていました。
YouTube「東北関東大震災その後 東松島市大高森」
東松島

松島


バスに戻り、松島を通ると、ちょうど昼時ということもあって、港の辺りは観光客で大賑わいしており、明るい雰囲気が漂っていました。
地理的に東松島に盾になってもらい、津波の被害が最小限ですんだため、観光客を呼べるのです。
観光産業が落ち込むという状態も、被災地の復興を阻む壁となります。
宮城は仙台と松島という観光拠点がそれほど被害を受けずに済んだため、観光アピールができるのは、不幸中の幸いです。



○ 塩竈

観光地として楽しそうな松島を横目で見ながら、塩釜に向かいました。
ここの港湾の被害状況を調べましたが、思ったよりも復興が進んでおり、見るも無残な状態ではなくなっていました。
ただ、駅前の店はほとんど閉店中で、シャッター通りのようになっています。
少し港から離れると、家を取り壊し中の光景をよく見かけました。
湾岸には仮設のしおがま・みなと復興市場ができて、にぎわっていました。

最近では塩の本場として、はやりの塩スイーツをどんどん発信していましたが、まだ再開できていないお店も数多くあります。
ここで昼食にしました。
塩釜は日本一の寿司処と言われているそうで、たしかに寿司屋がたくさんありました。



本塩釜の「鮨はま勢」で握りを食べました。
塩釜の寿司は、たしかにとてもおいしかったです。
貝のお吸い物は、香りも味も文句なしでした。
被災地の食べ物は、どれも海の幸で恵まれたものばかり。
海と共存して暮らしている人々の土地なのだと改めて考えて、切なくなります。

○ 多賀城へ

それから、私の住んでいた隣町の多賀城へ。
1日目に事前チェックしておいた、多賀城中学校校庭内の仮設住宅を見学します。
休日だったため、子供たちが遊んでいました。
住居者は中学生と一緒に校門から出入りしているのかな?と思いましたが、学校の塀を壊して、専用の入口を作っていました。



それから、末の松山へ向かいます。
住宅地の細道の奥にあり、道に詳しいドライバーも知らないとのことで、下見をしておいてよかったと思いました。

まずは沖の石へ。

「わが袖は 潮干(しほひ)に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」 二条院讃岐(92番)
(私の袖は、引き潮の時でさえ海中に隠れて見えない沖の石のよう。
 他人は知らないでしょうが、[涙に濡れて]乾く間もない)

と百人一首に読まれたように、「沖の石」は歌碑として平安時代以前よりありました。
末の松山の道の向かい側にある小さな池に、大きな奇岩がゴロゴロ置かれて岩場となっています。
その石の分析より、昔はここが海岸だったことの証明とされています。
「沖の石」という名前の意味もわかります。





そこから60mほど、ゆったりとした坂を上がったところの、末の松山まで一行を案内しました。
小さな丘に2本の松が植えられています。二代目となる、樹齢740年を越える黒松だそうです。

「契りきな かたみに袖を 絞りつつ 末の松山 浪こさじとは」(42番)
(約束しましたよね、涙を流しながら。末の松山が浪を決してかぶることがないように2人の愛も変わらないと。それなのに)

こちらも百人一首で、清少納言の父、清原元輔の歌です。
「末の松山浪こさじ」とは、「地球が壊れることがないように」「太陽が西から上ることがないように」のような、「心変わりは絶対にあり得ない」ことを指すロマンチックな表現だと覚えていましたが、町内に住むゴエちゃんが「末の松山浪こさじ」の言い伝えを信じて、津波の時に末の松山まで逃げ、津波に巻き込まれずに済んだ(彼女の家は浸水)と聞いたため、はっとして調べたところ、この浪は津波を指すという研究報告がなされていることを知りました。

「1000年に1度の揺れ」とされる今回の東日本大震災で比較され、改めて注目されているのが、平安時代の869年(貞観11年)に起こった貞観(じょうがん)地震・津波。
今から約1100年前になります。震源地は、今回と同じ三陸沖。
その時に押し寄せた津波が末の松山を超えなかったため、その名前は遠く京都まで届き、歌人が歌に取り入れたのだろうと言われています。



末の松山を題材にした和歌が20首ほどあることも知りました。

「君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ」(古今和歌集・東歌)
(あなたをさしおいてわたしがほかの人を思う心をもったら、あり得ないことだが、末の松山に波が越えてしまうだろう)

松尾芭蕉もこの地を訪れ、『おくのほそ道』に記しています。



地元では、貞観津波で波が来なかった場所として知られており、今回の津波でも、ゴエちゃんのように100人ほどの人が避難しました。
今回の震災は、貞観地震よりも大規模だったといわれますが、今回の津波もまた、末の松山は越えませんでした。
1100年後の今、伝説がまた一つ増えたわけです。



それから多賀城政庁跡へと行きました。
多賀城は陸奥の国府として724年に創建され、平安時代の東北地方の政治・軍事基地として栄えました。
つまり貞観地震時に国府だった場所です。







中学生の頃、親に連れられて訪れた時には、柱の跡に石が埋め込まれているだけの光景に全く心惹かれず、すぐに飽きてしまいましたが、今回訪れたら、礎を通してかつての華やかな城の様子が想像できて、しばらく歴史ロマンに浸りました。
私も少しは成長したというわけです。



かつて仙台に赴任していたTボスは「多賀城が貞観地震で大被害を受けたのは知っていたけれど、訪れなかった」と興味深げでした。
「大宰府跡よりもいい」とのことです。
政庁跡に至るまでの道は、ゆったりとした坂になっており、人は一段一段石段を踏みしめながら、登庁していくようになっています。
津波も来ない内陸の高台にある政庁からは、多賀城の町がパノラミックに広く見渡せ、当時ここを拠点地としたのもうなずけます。

隣の丘にある「壺礎(つぼのいしぶみ)」も訪れました。日本三古碑の一つです。
大きな石に、724年に多賀城が大野東人によって創建され、762年に藤原朝狩によって修造されたことが刻まれています。

多賀城 京を去ること一千五百里
     蝦夷国の界を去ること一百二十里
     常陸国の界を去ること四百十二里
     下野国の界を去ること二百七十四里
     靺鞨国の界を去ること三千里
此の城は神亀元年(七二四年)歳は甲子に次る、按察使兼鎮守将軍・従四位上・勲四等・大野朝臣東人の置く所也。
天平寶字六年(七六二年)歳は壬寅に次る、参議東海東山節度使・従四位上・仁部省卿・兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝、修造する也。
     天平寶字六年十二月一日

(多賀城は、京を去ること1500里、蝦夷国の境を去ること120里、常陸国の境を去ること412里、下野国の境を去ること274里、靺鞨国の境を去ること3,000里にある。
 この城は、神亀元年(724)、按察使・兼鎮守将軍・従四位下大野朝臣東人の造ったもので、参議・東海東山節度使・従四位上・按察使・鎮守将軍藤原恵美朝臣朝狩が修理した。)

長い年月を経て、歴史を正確に伝えてくれているロマン。
歌の世界では有名な歌枕で、芭蕉も訪れ、いたく感激しています。



視察隊で一人だけ文系の私がガイドをしたため、最終日は歴史・文学っぽい視察地プレゼンとなりました。
前日までの「被災地」ではなく「被災を小さくした場所」という視点で巡りました。
理系のみんなが飽きなかったかと反応が気になりましたが、「まさか和歌を引っ張ってくるとは」「初めて訪れる場所ばかりだった」「新鮮だった」とおおむね好評でほっとしました。
多賀城跡の端から端まで歩いて足で確かめてみたら、600mもあったと教えてくれたメンバーもいました。

宮城の旅行プランを見ても、多賀城が組み込まれているものはほとんどありません。
市はもっと観光に力を入れて、宣伝すべきだと思うんですが。こういった史跡が好きな人は大勢いるでしょうから、もったいないです。

○ 仙台

夕方にバスは仙台に着きました。
私は新幹線を遅くにずらし、帰京するメンバーを見送って、帰る前にまた友人と会いました。

駅ビルのエスパル地下は、東京のデパちかと変わらない感じ。
お洒落なカフェ、レ・フィーユで宮城いちごパフェを頼みました。





「宮城いちごってなんですか?」とウェイトレスさんに聞いたら、「いつもは仙台いちごパフェを出すんですが、震災の影響で入荷が難しくなったため、宮城いちごとなっているんです」と少し残念そうに教えてくれました。
気になって後で調べてみたら、仙台イチゴは東北一の生産量で、亘理町・山元町でその約8割を生産していましたが、いちご農家は沿岸部に集中していたため、収穫最盛期の3月に発生した震災と津波によって約95%のハウスが被害に遭い、つまりほぼ全滅してしまったとのことです。

亘理町と山元町といえば、被害が大きかった地域。
これまで仙台イチゴを意識したことはありませんでしたが、食べられないとなるとむしょうに食べてみたくなるのが人の常。
1年たった今年も食べられないなんて、残念で仕方がありません。



そこで、かもかもと少し会ってから、クミちゃんと比内地鶏の店で食事をしました。
みんなで一度に会うのも楽しいですが、一対一で会うと、サシでじっくりと話ができます。
楽しい話や同窓会の話などをしていたところで、「そういえば、キジマ先生って覚えてる?」と彼女が言いました。
覚えています。家庭科の先生で、部活の副顧問でした。
「あの先生、小学校の校長先生になっていたんだよ」
驚きました。女性ながら、そして家庭科ご専門から校長先生になられたとは、なんて立派なんでしょう。
教育への努力が評価されてのことだろうと思います。
すごいすごいとはしゃぐ私の横で、クミちゃんは複雑な表情をしていました。
「でさ、先生、野蒜小学校の校長だったのよね」
はっとしました。この日訪れたばかりの、被災地・東松島にある小学校だったとは。
「だから地震が起こった時、全校生徒を体育館に避難させていたら、津波がやってきて、ステージ上にみんなで逃げたんだって。ただその程度の高さではどうにもならず、濁流に呑まれてぐるぐる回っていたら、水面上に出た腕をだれかが引っ張って、体育館の上にある格子のところに引き上げてもらって、奇跡的に助かったんだって。
ただ、水が引いた後の惨事はとてもひどかったとか・・・」

血の気が引きました。先生が助かったのは、教え子として本当に嬉しいことです。心から安心します。
ただ、先生は学校の責任を負うべき校長職。犠牲者も出て、その心労はいかばかりだったことでしょう。

あとで調べてみたら、記事がありました。
「迫る津波…心支えた「ファイト!」 宮城・野蒜小」

YouTubeには、野蒜上空からの動画があり、がらんどうの小学校も映し出されていました。
外は吹雪だったとのこと。暗闇の中、救助されてもずぶぬれで低体温症になった人もいたそうです。
防災マップの浸水域からも外れていたという小学校。次の災害に備えて、指定避難所の再検討・調査が必須です。

つらい体験をされたキジマ先生。
仕事は関係なく、かつての教え子として、いつかお会いできる時が来ますように。

新幹線の時間が近づき、クミちゃんに見送ってもらいました。
とにかく今回、旧友たちと再会できてよかった。
別れがつらくなり、最後にまたハグしたら、彼女が笑いながら「うわあ、変わってないねー。覚えてる?初めて会った時もハグしてきたんだよ」と言いました。

・・・覚えてません!しかし言われてみると、当時ハグ番長だった記憶もうっすらとよみがえってきます。
ああ、昔の友達って、本当に忘れ去った過去をもちだして不意打ちしてくるからたまらないわ!(おたがいさま)

しかも、彼女からのその後のメールには
「中学卒業時のサイン帳の話が気になって、家でサイン帳を探して見ていたら懐かしかった~。
もちろん、リカのもあったよ。
『クリスマスにはパオパオって騒いだりお家の方にも迷惑をお掛けしました』だって~」
と書いてあって、見事に撃沈しました。パオパオってなんじゃい、私!

まあでも本当に、懐かしい友人たちと再会できたことが、何より心強かったです。

今回の視察で感じたことは、震災から1年たった今でも、まだまだ復興は進んでいないということです。
危険な建物や倒木が取り壊されて、土台のみのなにもない土地になりつつありますが、今後津波被害を受けた土地をどうやっていくのか、決めなくてはいけないことが山積みです。
がれき処理問題もいつ片がつくか分からない状態。
被災地はもう限界ですし、放射能問題も絡むため、ほかの自治体も受け入れは難しいところ。
国がもっとテコ入れしないと、長期化してしまう話だと思います。

現地では、住民の姿は一切なくても、ショベルカーがいたるところで作業をしており、被災地は決して打ち棄てられているわけではなく、少しずつ復旧し続けているんだという印象を受けました。
私たちが個人レベルでできることは、ボランティアか観光。
ボランティアも、時間が取れない社会人にはなかなか難しいものですから、やはり観光で復興協力するのがよさそうです。
そして何より、忘れないことが一番大切でしょう。
日本にいる限り、自然災害に被災する可能性はあります。
人ごとと思わずに協力することが「情けは人のためならず」となるのでしょう。

かといって、いつも災害のことばかり考えて暗い気持ちでいるのがいいこととは思えません。
私は視察から帰ってから一週間は、衝撃が強すぎてまったく使いものになりませんでしたが、むしろ日本の各地で明るく元気に日々を過ごしていくことが、日本を活気づける道だと思います。
現地の近しい人たちと、心は寄り添っていたいですが、被災地と一緒に嘆くよりも、被災地を勇気づけ、励まし続ける力を身につけたいです。

今回のブログは、かなりきつい内容だったと思います。
掲載写真はもっとソフトなものにしようかとも考えましたが、1年たった被災地の現状を記録しておきたいと思い、ショッキングなものも載せました。
ここまで読んで下さった方は、被災地のことを忘れずに気にかけて下さっている方々でしょう。
長々と最後までお付き合い頂いて、どうもありがとうございました。

3. 2012-3 被災地視察(盛岡-宮古-大槌-釜石)

2012-03-17 | 東北
3/17(土) <一関→盛岡→宮古(田老)→山田→大槌→釜石→仙台>

 



○ 一関

朝6時にホテルを出発し、新幹線で盛岡へと向かいます。
平泉がすぐそばなのに、行けなかった~。
以前平泉を訪れた時、「カザリン台風による浸水地点」の表示を見たことがあります。
昭和22年のことで、床上3mにも及んだとか。かなりの被害だったんですね。
(と、仕事っぽいことも言ってみる)

○ 盛岡



雪がちらつく中を、震えながらバスに乗り込みました。
盛岡地方裁判所の石割桜を見ましたが、まだ蕾にもなっていませんでした。
岩手県公会堂が日比谷公会堂とそっくり同じ建物に見えて、何度もまばたきしました。
建築家が同じなんですね。まるでアムステルダム駅と東京駅のように、うり二つです。



一関も盛岡も通り過ぎるだけ。バスは昨日同様に、一路三陸を目指しましたした。
内陸の山間部を突っ切って沿岸部へ。
この辺りは民話の里、遠野地方のそばなんですね。
途中休憩した道の駅・やまびこ館から望む周囲の山々は、まだまだ一面の雪景色でした。

○ 宮古(田老)



沿岸に着き、まずは田老へと向かいます。小学生の頃、龍泉洞に行く途中で通った場所ですが、大防波堤のことは全く覚えていません。
見ていたとしても、その意味はよくわからなかったのでしょう。
日本が誇るスーパー堤防に上がりました。海面から10メートルの高さがある2.4キロの大防波堤です。



堤防の上は、軽自動車が走れるくらいの幅があり、こんなにぶ厚いものとは思いませんでした。
しかも堤防は二重になっているという、念の入れよう。



万里の長城やベルリンの壁以上に頑丈でびくともしない堤防。内側からは、まったく海が見えません。
これだけすごい日本一の大堤防なのだから、津波もぜったいに防げるはず、と住民が安心して頼みにするのも、わかります。

ここは、第一波の津波が片側の山に当たり、跳ね返ったところに後から来た波とぶつかって、倍の高さになって町を襲ったんだそう。
堤防の内側にも、もう町はなく、人の気配もありません。私たちのバスがぽつんと停まっているだけです。



地震の第一報を受けた地元消防団が、すぐにパトロールに動いたため、津波の襲来から逃げ遅れたそうです。
防波堤にはトラックが通れる大きさの鉄の扉があり、非常時には手動で閉めて波をブロックするようになっていましたが、なかなか閉められなかったのだそう。



それは、まだ湾の方から仲間が戻れていないためで、扉を閉めて仲間を見捨てることはどうしてもできなかっただからだそうです。
今回の津波では、そういった自警団や町内消防団の人々が多く被害に遭い、命を落としています。
みんなボランティアベースで、公務員として任務に当たる消防隊員や自衛官に比べるとはるかに装備が行き渡らず、被害保障もきちんと整っていないそうです。

 



田老町は、2005年に宮古市に合併されました。元役場には、その時に埋めたタイムカプセルが埋められていました。
「2015年 未来へのプレゼント」と銘打たれた、明日への希望に満ちたメッセージを読み、目の前に広がる荒野と化した町を見渡して、涙が止まりませんでした。



○ 山田町(陸中山田駅跡)

長く続く田老防波堤に沿って移動しました。
母親が「あの美しい砂浜は震災後にはどうなったのかしら」と気にしていた浄土ヶ浜の辺りも通りましたが、道路からは離れており、見られませんでした。
浜辺で有名な観光地ということは、居住地区ではなく、人的被害という点ではさほど大きくないということから、今回の視察地には入っていなかったのです。

陸中山田駅があった場所へと向かいました。
鉄道が通っていたという雰囲気は、すでにありません。
かろうじて、駅のホームらしいコンクリが残っているだけです。
線路も除去されており、発掘された遺構のようになっていました。
ある意味、遺構ですね。



山田線は私鉄で、社長は復旧を宣言していますが、今のところその具体的な見通しは立っていないとのこと。
JRと違って私鉄は国の保証が下りるのか微妙なため、再開までに時間がかかりそうです。



山田湾から見える大島と小島は、津波が来る前に潮がいったんザーッと引いたため、二つの島が繋がって見えたといいます。
そこまで潮が引くなんて、完全に異常事態ですね。
ここは高台移転候補地。町長の家も流されてしまったそうです。



○ 山田町(船越地区)

滅入ってくる気持ちとクロスするかのように、だんだん雨がひどくなってきました。

船越湾ぞいの集落へと向かいました。船越小学校は、一段高台にあり、さらに底上げして建てられていますが、そこにも波が来たそうです。
ほとんどの家が流され、破壊されてしまい、今は土台しか残っていませんが、時々ポツンと立っている建物があります。
建物の外枠だけしか残っていないようなものは、鉄筋でなく鉄骨だとのことです。



防潮堤が流されてしまったため、代わりに土嚢を積んでいる様子が、なんとも心もとなく映りました。
また津波が来たら、どうなってしまうのでしょうか。

遠くから見渡すと、山の一定の高さ以上にしか家はなく、麓近くの森の木々は茶色に変色しているため、津波が押し寄せたラインが一目瞭然。
昭和三陸津波の時に高台に移り住んだ人は、今回助かりました。
津波の被害を受け続けるこの地域の人々は、昔から高台に家を建ててきたそうですが、戦後になって人が増え続けたため、下にも住むようになったとのこと。
津波の記憶が薄れたり、土地の事情が分からずに外からやってきた人も多かったのでしょう。



バスががれきの山の横を通ると、本当にぐったりします。
はじめは真っ黒な固まりのように思えていましたが、よく見るといろいろなものが見えてきて、単なるゴミではないのだとわかります。
それどころか、どれももともとは人々が生活する上で使っていたものばかりなんですよね。
思い出の品々は住民やボランティアがもう取り出しているとは思いますが、生活感が漂う風呂釜やバギーカーの一部、色褪せたさまざまな破片や欠片が積み上げられており、確かに誰かの所有物だったとダイレクトに伝わってくるため、とても直視できません。
現実の重さに、どんどん心が壊れていきそうです。

普段の生活では、がれきを見ることはめったにありません。
あったとしても、工業地帯などでの産業廃棄物の山などです。
人々の生活用具の変わり果てた姿である、被災地のがれきの山々は、悲しみの負の存在。
それがあるだけで、人の活力をそぎ、否応なく無気力にさせるものだと、実感しました。



あまりにもすさまじい自然の猛威の跡を目にして、もう悲しさしか自分には残っていない感じ。
絶望感で、生命力さえ弱まっていく気がします。
観光とは美しいものを観に行くものですが、視察は、そうとは限りません。
でも、ありのままを見届けなくては、今回の旅の目的は果たせないのです。

すっかりアンニュイになりましたが、それでもNボスお勧めの四十八坂の磯ラーメンはとてもおいしく、冷えた心身が温まりました。
海の幸の具だくさん。自然のうまみがしみわたるようで、少し元気が出ました。
丸い星座占いが置いてあるのが昭和っぽくて、(まだあるんだ~)となごみました。



○ 大槌町

昼食後に訪れたのは、大槌町。
先日、静岡の島田市ががれきの受け入れを決めた地域です。

約1万6000人の人口の1割近くが死亡・行方不明となり、6割の家屋が被災しました。
町役場そのものが津波の直撃を受け、町長を含む職員の約4分の1の命が失われました。
すっかり廃墟と化した大槌町役場。あまりの惨状に、打ちのめされる思いです。
教えてもらうまで、ここが町の行政の中心地だったとは気がつかないほどでした。
壁の時計は、おそらく津波の来た時間に止まったのでしょう。

雨が降っており、地面は水たまりだらけでした。
下水道が破壊されてしまったため、水はけが悪くなっているのです。



ここにもたくさんの献花があり、尊い命のご冥福をお祈りしました。

地図を見ると、大槌町に吉里吉里地区があります。
井上ひさしの『吉里吉里人』は、ここが舞台だったんですね。
さらに彼が脚本を手掛けた『ひょっこりひょうたん島』の舞台である蓬莱島も、湾にあります。
ただ、雨が強くなってきて、車窓からはよくわかりませんでした。

○ 釜石

釜石に着きました。この町は、被害を受けた沿岸地域と全く受けなかった山裾地域とで、はっきりと分かれています。
道路の片側は、普通に機能している町なのに、反対側は、一面がれきの世界。

大川小の悲劇とは対照的に、校舎の3階部分まで津波にのまれ、全壊した釜石東中学校と鵜住居小学校の生徒の避難率がほぼ100%だったため「釜石の奇跡」と呼ばれています。
「津波てんでんこ」という三陸の言い伝えを、小中学生にも教えこんだ成果です。
地震が起こった直後に、災害情報を待たずに避難したのが何よりの成果。
上履きのまま、振り返って津波を見ることもなく、中学生は小学生の手を引いて、とにかく高台へと逃げたということが、冷静な避難につながりました。

実際に生徒たちが避難したデイサービスセンターまで行ってみました。
登り坂で、1キロほどの距離がありました。
無我夢中で必死に走り続けたのでしょう。
ここまで一目散に逃げた彼らの姿を見て、大人も一緒に避難したそうです。
今後、三陸地域の模範例となることでしょう。
小学校と中学校が隣接しているという連携の地の利も頷けました。

こちらが中学校


こちらが小学校



しかしここも、がれきの山だらけ。
『未来少年コナン』の核戦争後の世界を連想しました。
建物は骨組みだけ残っていても、中がなく、がらんどう。
津波が浸食していった抜け殻のようで、自分までがらんどうになったように思えてきます。



雨は窓を打ち付けるほど強くなっていました。
視界がどんどん悪くなってきた中で、突然白い大きな銅像が見えました。
釜石大観音です。湾岸に立ちながらも今回の地震にも津波にも倒れることが無かった、真っ白な観音像は、どれだけ住民の心の支えになったことでしょう。

湾内にある巨大堤防も見えるはずでしたが、あいにくの霧と雲で、目を凝らしてもよくわかりませんでした。
釜石港湾口防波堤は、水深63mの海底から立ち上げたもので、2010年に「世界最大水深の防波堤」としてギネスブックで世界記録認定されています。

今回は、市街地区域への津波浸水を6分遅らせ、津波高を4割・最大遡上高を5割減らしたとのこと。
莫大な予算を投じて作られた防波堤なので、費用対効果が気になりますが、たかが6分、されど6分。
6分あれば、避難途中で助かる命の数がぐんと上がるのです。

○ 仙台

それから大船渡や陸前高田、気仙沼を通りましたが、暴風雨となったため、車窓からではよく景色はわかりませんでした。
夜が近づいてきたので、視察はここまでとなり、一路仙台へと向かいます。

ホテルにチェックイン後、みんなは連れだって牛タンを食べに行きましたが、私は部屋で中学時代の友人たちと会いました。
今回来てくれたのは、いっくとお子さん、かじ、かもかも。
かじとかもかもは、中学以来ですが、一目見たらすぐにわかりました。
人って変わらないものねー。
前回訪れた時よりも、懐かしい顔にいろいろ再会できて、嬉しいです。
がらんとした被災地ばかり見てきて、すっかり人恋しくなっていたため、みんなとハグしまくります。



木曜に続き、この日もプチ同窓会といった感じに盛り上がりました。
空白を埋めるために「まずはみんな、中学を出てから今までの話をしよう」ということになりましたが、3人とも中学に続き高校・大学も一緒だったとのこと。
ずっと学校が一緒なんて、転勤族にとってはうらやましい関係です。

それから「3.11はどう過ごしたか」という話になりました。
今では3人とも仙台在住ですが、実家は多賀城。
仙台は、数日後にはライフラインも復旧したそうですが、多賀城は、隣の市でありながら仙台よりもはるかに復旧が遅かったそうです。
電気は早かったけれど、水はひと月後まで来なかったと聞いて、驚きました。
時折まわってくる給水車が頼みの綱だったとのこと。
また、いっくの住む岩切は、2週間電気ナシの生活を強いられたそうです。

都市ガスも途絶えたきりだったけれど、全国のガス関係者が被災地に集結して「開栓隊」という車で一戸一戸の家を周り、ガスを復旧してくれたそうです。
一軒ずつなので、時間はかかったそうですが、町で開栓隊の車を見ると、明るい気持ちになったとのこと。

一番きつかったのは、石油や灯油が無いことだったとか。
タンクローリーが来たガソリンスタンドに長い列を作って、時には8H並ぶこともあったそうです。
聞いているだけで、具合が悪くなりそう。
車社会だし、寒い時期だったので、暖を取るにも石油は欠かせなかったのでしょう。

共通の友人が、地元の蔵元「一ノ蔵」に就職したそうですが、津波の被害を受けて工場が止まったと聞きました。
杜氏になったのかなと思いきや、パッケージデザインを担当していたそうです。
そういえば彼女は、中学の時も美術部でした。

かもかもは、震災当日、ちょうど息子さんが腹痛で学校を休んで一緒にいたそうです。
いっくちゃんも、たまたま学校のイベントで、娘さんと調理室でホットケーキを作っていたそうです。
だから地震後、すぐに一緒に避難できたとか。

いっくちゃんはそのまま、上着も着ずにスリッパで体育館に避難して、寒さに震えていたら、見かねた男の先生が、倒壊被害の危険を冒して校舎に入り、生徒と保護者の服を取ってきてくれたそうです。
地域の避難場所になっている小学校だけれど、見るからに出張途中のスーツ姿のビジネスマンまで続々やってくると思ったら、どうやら駅が、閉鎖するにあたって、人々にその学校に行くよう、指示していたんだとか。
そのため、予想外の人が押し寄せてしまい、校長も対処しきれずに目を白黒させていたとのこと。
最後には、やってきた人々が座りきれずに、体育館で立ちっぱなしになったのどだったとか。
「あれは連携がうまく取れていなかった。二次災害も起こりかねないほど、収容人数のキャパを超えていた」と言っていました。

そのまま体育館が避難所となったそうですが、いっくちゃんは、お子さんが手が離せないため、家具が全て倒れてしまった家に戻って、子供のスペースだけ確保し、余震が起こるたびに、娘におおいかぶさって耐えていたそうです。
「あの地震は、子供には耐えきれないほどのパニックと不安を引き起こしたから、ちょうど子供と一緒にいた時で、本当に良かった」と言います。
一人きりだったら、恐怖のあまり子供の発達心理に影響があっただろうとのこと。
あの震災を今でも引きずって心を閉ざしてしまった人は、被災地に限らず、日本中に大勢います。
特に子供は、健やかに育ってもらいたいもの。心的被害が癒されることを祈るばかりです。

かもかもは、旦那様の職場が無くなったため、今は東京で働いており、実質いつまで続くか分からない単身赴任状態だとか。
家族が震災のせいで離れ離れになって、かわいそうです。

中でも一番驚いたのは、かじの話でした。
彼女は仙台の職場に泊まったそうですが、しばらくは多賀城の実家と連絡が取れず、うちの親よりも年上のご両親だけに、不安がつのったと言っていました。

あの時、国道45号線沿いの彼女の実家に津波が押し寄せて、家は濁流の中で孤立したそうです。
ご両親が、家の中でなすすべもなく震えていたところに、ドイツ人家族3人と30代の男性が津波に流されるように逃げ込んできたそうです。

ご両親もドイツ人家族も、パニックでフリーズ状態だったところを、男性がてきぱきと上へみんなを誘導し、毛布を取ってきて励まし続け、みんなで暖をとり合いながら不安な一夜を明かしたんだとか。
「その人のおかげで、孤立した家でもうちの親は生存できたのよ」

そのドイツ人一家は、後日救助されて行った避難所で、帰国する外国人対象の東京行きバスが出ると知り、仙台まで行きたがったそうです。
ただ、仙台までの主要道路は津波にやられ、交通機関は全て不通になっていました。
彼らのために、ガソリンが貴重な時なのに、仙台まで車を動かしてくれた徳の篤い人がいたそうです。
しかし、主要幹線はどこも津波の漂流物や渋滞で動けず、迂回に迂回を重ねてようやく仙台までたどり着いた時には、もうバスは出てしまっていたとのこと。
肩を落とす彼らに「新潟まで出たら東京へ行く電車がある」と教えて、連れて行ってあげた人がおり、数々の人の好意に支えられ、ようやくのことで、彼らは無事に帰国できたそうです。

「すごい話ね」と言ったら、「ニュースになったよ」とのこと。
帰宅後に検索したら、ネットでも出ていました。
「津波にのまれたドイツ人一家、日本人の親切に感謝」

「シュピールベルクさんの被災体験」

かじに「記事を読んだよ」と連絡したら、
「あの後、ドイツからもTVクルーが来たりと何だか大騒ぎだったけど、親にあまり思い出させたくないから、気が重かったなぁ。
ただ、とてもきちんとした方々で、ドイツに帰ってから色々募金活動とかして下さってるようです」
という返事が来ました。
私たちには美談に思えることでも、当事者にとってはつらい記憶でしかないものですね。
そうした気持ちを、いつでも気付けるようにならなくては、いけませんね。

去年のクリスマスには、巨大なシュトーレンが届き、ご両親はびっくりして彼女に手紙の翻訳を頼んだそうです。
地震も津波も縁遠い海外の人にとっては、想像を絶する大変な体験で、彼らもできれば思い出したくないことでしょうけれど、帰国してもなおその体験を伝えてくれているのは、とてもありがたいことだと思います。

そういえば、YouTubeに、東北放送のカメラマンが、多賀城で津波警報を聞いて、すぐにタクシーから降り、近くのビルの上階に逃げて、命拾いした動画が載っていました。
私が住んだ町が・・・。

津波の時には、とにかく車から降りて逃げること。
波がくるぶしの位置まできたら、簡単に足をさらわれます。
遠くの高台を目指そうとせず、近くの丈夫で高いところに逃げること。
これが大事です。

この日も、3人とも口をそろえて「被害状況は、見ちゃいけない、行っちゃいけないと思っていたし、余震が怖かったので、しばらく屋内にこもっていた」と言いました。
すぐそこに遺体があるという、異常な事態。
それを避けるのは、人間の本能だと思います。

お喋りをしている最中、夜11時前に地震が来て、みんなハッと口をつぐみました。
縦揺れが長く続いたので、(震源地が近いんだ)と緊張します。
でも震度3程度だったそうです。
関東でも結構揺れたと、後になって聞きました。

みんながそれぞれに大変な体験をしており、聞くだけでハードな話に赤くなったり青くなったりしましたが、最後には「でもあの時は、東京もひどかったよね」と心配してもらったので、(直接の被災地の人にねぎらわれるなんて!)と申し訳ない気持ちになりました。
東京が大変だったのは、地盤沈下した箇所もあったものの、ほぼ帰宅困難者問題で、行動意識で改善されることだと思います。

でも、自分の大変さよりも相手を思いやる心の深さが、日本人、そして東北人の優しさなんですよね。
なんだか今回は、再会した友人に逆に癒されているような気がしてなりません。
ここ二日間、友達とのメールについ「視察はつらい」とこぼしてしまい、「そうだよね、わかるよ」と心配され通しでした。
被災地のみんなの心の支えになりたいとつねづね願っていたのに、実際には全く逆で、私の方が優しさに甘えてすがってしまっています。
だめですね。



みんなのおかげで、楽しい夜を過ごせました。
ホテルの部屋はコージーで落ち着きますが、今日も簡単には消化できないことばかり見聞きしたため、横になってもやっぱりなかなか寝付けませんでした。


2. 2012-3 被災地視察(仙台-女川-南三陸)

2012-03-16 | 東北
<仙台→石巻→女川→雄勝→南三陸→一関>



3月16日(金)
朝、視察メンバー7人が勢ぞろいしました。
今回は、災害復興・防災都市計画専門のNボスと、自治省、消防庁出身で危機管理専門のTボスに引率していただきます。
その道の第一人者で、今やあちこちに引っ張りだこの多忙な方々に解説してもらえるという、ありがたい機会。
理系グループに混ざって、私だけが被災地初視察メンバーなので、緊張しながらチャーターバスに乗り込みました。

○ 仙台市内急斜面住宅地(緑が丘、旭が丘、南光台、東黒松)



斜面災害研究センターの資料「仙台市における宅地谷埋め盛土の地すべり」を読みこんで、まずは仙台市内急斜面住宅地へ。
バスのドライバーさんも、この辺りに家があり、被災したため、建て替えを検討中だとのこと。
住宅地なので、車が入って行けず、歩いて視察しました。
斜面に地滑りが発生したブルーシートが敷いてあります。
舗装道がボコボコで、穴を埋めた跡がわかります。
家のポーチがずれていたり、バルコニーが落ちていたり、ありえない角度にゆがんだ家々が見るからに危険でした。





斜面沿いの家に住む女性と話をしました。
「余震も続き、これ以上このままにしては危険なので、すぐに修繕補強したけれど、まだ仙台市が保障条件を決めていない時だったから、保障対象に入らなかったのよ」とのこと。
市の対応不備のように思えます。宅地は私有財産のため、個人負担が原則ではありますが、今回は行政も協力をしてくれないと、とても個人では対応しきれません。
ただ、仙台市としての被害推計額は、去年11月時点で約1兆2823億円だとのことです。大変ですね。。。

○ 石巻

バスは仙台を出て、石巻で高速を降りました。
日本製紙の工場がもくもくと煙を出しています。
ここも津波で大きな被害を受けましたが、撤退はせず、社運をかけて復興に取り組んだとのこと。
そのがんばりあって、今では通常再開していました。
威容を誇る大迫力で、ジブリの世界に登場するような、近未来の工業世界を連想しました。



しかし、もっと港の近くへ行くと、ほとんど建物らしいものは残っていません。
骨組しか残っていない鉄骨にへばりつくがれき。
ありえない世界が広がります。
見ていると、次第に心がすさみ、空虚になっていくのがわかります。
きれい好きの日本人には特に耐えられない光景なのではないかと思います。

石巻市民病院の横も通りました。取り壊しが決まったそうです。
ほとんどがコンクリの土台だけになっている町。
2階は辛うじて被害が無くても、1階が壊滅的な被害を受け、とても住める状況ではなかったりします。

気持ちが沈むような景色の中で、唯一元気なのは、ボランティアの人たち。
みんなで力を合わせて、道の整備をしており、そこだけ活気がありました。
親しい人や住む家、財産を無くし、何も気力がわかない被災者の方々にとって、全国から集まって手を差し伸べてくれるボランティアの人たちの存在はどれだけありがたいものか、わかるようです。



バスは、巨大な缶の横を通り過ぎました。
(あれは何!?)とギョッとしました。世界一大きな超巨大缶詰だそうです。
津波で破壊されてしまったのです。
この缶詰を作った「木の屋」店舗と工場も流されてしまったとのこと。
未来への期待を込めて作った缶だったんだろうと考えて、胸が痛みます。

甲子園に出場が決まった石巻工業高校の前も通りました。
のびのびと頑張ってほしいものです。
遠くに石ノ森ミュージアムの白い建物も見えましたが、石巻は一通が多いそうで、前までは行けませんでした。
海は穏やかで凪いでいます。日光を受けてキラキラと光り、まるで湘南のようです。

○ 女川

女川に着いたところで、メンバーの担当者が解説をしてくれました。
女川町は、津波で町の6割近い約5700人が避難所暮らしを強いられているとのこと。
リアス式海岸沿いの町に平地は少なく、今後、自治体や住民たちがどのような決断をしていくのか、問題は積載されているようです。

昼食は、女川コンテナ村で。
ボランティアの人たちが食事をしており、活気がありました。



あまりに凄惨な光景を前にして、なかなかカメラを向けられなくなってきます。
報告資料として必要だとはわかっていても、撮りたいという気持ちが全く起こらないのです。
ほかのメンバーに任せようと思ったけれど、みんなもさほど撮影していないため、きっと同じ気持ちなのでしょう。
デジカメではなく、iPodに切り替えると、少しは撮れるようになったため、画質は落ちるものの、今回はiPod撮影のものが多いです。
スタッフの一人が、女川の写真集を購入していました。

TVニュースでは、女川の島で42mの津波が記録されたと発表されていました。今回の最高位です。
ペンキで塗られたコンテナ村の標識は明るく元気ですが、その下には、お寺の標識がぐにゃりと曲がり、石碑も横になぎ倒されている光景が、悲しく心塞ぎました。



○ 雄勝

走り出したバスが止まったのは、荒涼とした砂利の中。
ここは雄勝地区で、大型観光バスが2階建て、高さ約12mの公民館の屋上に乗っかっていた場所です。→記事「公民館屋上にバス 信じられない光景」



先ほどのコンテナ村で見たTVニュースで、1年を機にバスを下ろしたと報道されていました。
変な意味、観光スポット的な存在となっており、震災の威力を伝えるために防災モニュメントとして残すべきだという声もあったそうですが、地元の住民嘆願により決定したそうです。
建物からせり出したバスを見て暮らす人の気持ちを考えると、それがある限り復興に近づいているとは考えられなさそうです。



めちゃめちゃになったバス。運転手さんもそばまで見に来ました。同業者はいっそう胸が痛むことでしょう。



目の前に見る巨大ながれきの山々に圧倒されます。
ショベルカーが忙しく動き回っていますが、これはそう簡単にはなくせそうにありません。



道端の「全国の皆様 ありがとうございます」「おかつ ふっかつ ぜったい勝つ!」と書かれた表示を見て、泣けてきました。



その力強さに励まされますが、辺り一面は荒涼とした、すべて何もなくなってしまった大地。
ここから立ちあがり、復活することがいかに大変か、わかります。
これほどの災害の爪痕を前に、一人の人間のなんと非力なこと。
圧倒的絶望感に襲われ、無力な自分が悔しくなって涙が出ますが、泣くことしかできない自分がますます嫌になるばかり。

被災地視察のきつさを実感しました。

砂埃が立ち上る荒涼とした大地。
ブルドーザーを動かす作業員以外、ひとけがありません。
ゴーストタウンとなった集落。
ガンマンが果たし合いをした「後にはただ砂塵が吹き荒れるのみ」という表現は、こういった殺伐とした光景をいうのだろうと、ぼんやり考えました。

ここは室町時代から全国的に硯で有名な場所だとのこと。
町がまた、以前の活気を取り戻してくれることを祈るばかりです。

まったく気づいていませんでしたが、このあたりは三陸リアス式海岸のため、山の高低差があるくねくね道が延々と続き、すっかり酔ってしまいました。
つらさと悲しさと気持ち悪さで、もう最悪。
外の様子を見ていられず、ぐったりしていました。

○ 大川小

バスは海沿いの道を走り、石巻市立大川小学校へと着きました。
全校児童108人のうち74人、教員13人のうち10人が死亡または行方不明になった大川小学校の悲劇。

よくTVに映し出される正門跡地の校門の上には、墓石が置かれ、横には被災学堂慰霊碑が立ち、何体ものお地蔵さんが祀られています。
1年忌が済んだばかりの、おびただしい献花。
鎮魂の梵鐘もありました。
お参りに来る地元の人たちが途切れることはありません。
命を落とした子供たち、そして我が子を失った親たちのことを考えると、涙しか出ません。
犠牲者たちの魂が、安らかに眠りにつきますように。
もう、このような悲劇が繰り返されませんように。



背後には、がらんどうの廃墟となった学校がありました。
それにしても、なぜにこんな海に近い河口沿いに小学校を建てたのでしょう。
これでは津波が来たら逃げようがありません。
それでも、津波が来ない場所として津波の際の市の避難場所に指定されていたそうです。

再建のタンクローリーが列をなし、埃を上げて、学校横の一本道を通っていきました。
被災地で目に付くのは、鳥。
地上には、ほかに何もないから、ふだんよりも目に入るのでしょう。
命あるものはこの地を去り、鳥だけがゆっくりと空を飛んでいる、静かで悲しい光景が続きます。

○ 南三陸

1年たっても今だなくならないがれきの山々。
不法投棄のゴミが堆積し、そこから火が出て煙が絶えないというマニラのスモーキーマウンテンを連想しました。



鉄骨骨組みだけになった南三陸町防災対策庁舎にも行きました。
まったく海の見える場所ではなく、ここの屋上にいる人をさらうまでに強い津波が押し寄せてくるとはとても考えられません。
ここも、取り壊しが決まったそうです。



この町の復興計画策定会議委員であるNボスは、会議出席のため、東京から日帰りでこの町を訪れたりもするそうです。
すごすぎるわ~。復興のプロは、自分もよっぽどタフでないといけませんね。



休憩がてら寄ったお店では、海の幸が充実していました。
志津川は「西の明石、東の志津川」と言われたほど、タコの名産地なんだそうです。
知りませんでした。たしかに結構なお値段でした。

○ 被災地の夜道

夕方になり、本日の視察は終了。一路一関に向かいます。
陸前高田と気仙沼を通ったはずですが、車窓からは見えず、停車しての視察もありませんでした。
なぜかというと、被災地の夜道は電気が灯らず、真っ暗になるからです。
車のライトしかありません。
人が住まない場所は、これほどまでに真っ暗になるものなんだなあと不安になりました。
カンボジアの夜明け前のドライブも、こんな風に車のライトが届く範囲しか見えず、なにかにぶつからないかと非常にひやひやしたことを思い出しました。

○ 一関

真っ暗の中をバスに揺られて、この日の宿に到着。
ホテルサンルート一関は、昨日とはうって変わって古い昭和タイプ。
部屋にスプリングのきかないソファがあるのが、今どきむしろ新鮮でした。



明日も一日バスに揺られて、長い距離を移動するため、早めに寝ておこうと、予習もそこそこに横になりますが、なかなか寝つけません。
日中に見た、想像を絶する光景が、脳裏から離れません。
もはや、友人との再会が、折れそうな心の寄り処となっています。

1. 2012-3 被災地視察(多賀城)

2012-03-15 | 東北
今回は、観光旅行ではなく被災地視察です。
ブログのタイトルとは、甚だしく温度差があり、自分でも違和感を感じます。
これも、旅の一種ではあるため、日記ブログではなく、こちらに載せることにしました。
これまでにない、非常にきつく、つらい旅となりました。
それだけに、記録し、伝えるべきことだと思っています。

<prologue>
東日本大震災から1年。
以前から志願していた職場の被災地視察に、加わることとなりました。
14・15歳の時に多賀城で暮らしていた私は、震災後、向こうの友人のことが気がかりでたまりませんでしたが、職場からは「女性はまだ行かない方がいい」と言われ続け、かといって個人で向かっても、みんなの足手まといになるのではないかと思って動きだせず、ずっと気を揉むばかりでした。
視察隊に加われたことは嬉しいですが、ヘビーな視察となることは想像に難くありません。
何も知らない状態で行ってショックを受けることがないよう、ギリギリまで事前下調べをして行きました。

3/15(木)
1日目。実際の視察は翌日からですが、私は現地の友人に会おうと、ひと足先に仙台経由で多賀城へと向かい出発しました。
防災記念館に行くという視察隊メンバーと仙台まで同行し、そこから一人、仙石線に乗り換えて多賀城まで。
途中、東北学院の中高が車窓から見えました。
多賀城はとても遠く感じますが、歩数的には家から2000歩足らずで着けてしまうことに気がつきました。



仙台から仙石線で20分の多賀城駅。7年ぶりです。
ゴエちゃんが駅に迎えに来てくれていました。
今朝、息子さんが発熱し、彼女のケータイが原因不明でひび割れて使えなくなったという大変な中、息子さんを親御さんに預けて私と会う時間を作ってくれたようです。
レオちゃん(息子)、ごめんね!

「津波に呑まれたオンボロ車だけど、どうぞ」と言われて、ビックリ。
「近所の車は全部ダメになったけれど、うちのだけエンジンがかかったんだ。軽だから浮いたんだと思うよ」
そういえば、彼女の家は津波が浸水して、避難所暮らしをしていたんだっけ、と改めて現実の重みを感じます。
そんなミラクルカーに乗せてもらい、珈琲館でおしゃべりしました。

カフェは通常営業で、フレンチトーストと苺ジュースをおいしくいただきましたが、「1年前は、この辺りはもうぐちゃぐちゃだった」とのこと。
大変だった話と「くんたん(友人)が、ここのお店のくじに当たって、ハワイに行ったんだよ~」「すごいね~」みたいなのどかな話題が入り混じりながら、近況報告をし合います。
彼女は今、被災犬を引き取って飼っているんだとか。
情の深いところは変わらないなと思います。



そのうちにカフェにレーちゃんが来てくれて、ゴエとバトンタッチします。
レーちゃん!会いたかった!
小さいお子さんたちを抱えて、それはそれは大変で不安な思いをしているだろう、再会してハグしたらきっと私は泣く!いや、ハグするまで私の3.11は終わらない!と1年間ずっと思っていましたが、実際には会えた嬉しさの方が強くて、ニコニコが止まりませんでした。
今度はレーの車に乗ります。寝たきりの家族がいるからと、ノアサイズの大きな車を、華奢な彼女が乗りこなしていることにビックリ。
15歳の頃の互いの手は楽器を弾くためにあったようなもので、安定したハンドルさばきを見せてもらうとは想像していませんでした。

今回、私が多賀城に行くと伝えたため、いろいろな友人と連絡を取って、予定を調整してくれた彼女にはとても感謝しています。
なのに、震災の爪痕が色濃く残っている場所がないかと聞いて、迷惑をかけてしまいました。
職場から「視察中に関係職種に携わる人の話は聞いていても、一般人の話は聞いていないから、ぜひヒアリングしてきて」と言われていたためです。
ただ、実際に住む人にとっては、震災のことは、できればまだ思い出したくないというのが本当のところ。
こちらの質問は、友人としてあまりに心が遠いものだったと、深く反省しました。

家のすぐ目の前まで津波が押し寄せてきたけれど、子供たちを連れては逃げられないと、覚悟を決めて2階に避難したという彼女。
「津波が引いた後、この惨状を現実として見ておくべきかとは思ったけれど、どうしても見られなかった」と言います。
家の前の国道45号線は、流れてきた車が重なってつぶれて、本当にひどかったとのこと。
さらに悲惨なのは、その車の中に人影があるということで、「自衛隊や消防隊の人が来て安置所へと連れて行ってくれるまで、とても目を向けられなかった」という彼女の気持ちは、よくわかります。

妹さん(私のブログをよく読んでてくれてるとのこと、ありがとうジュンちゃん)の職場のビルの上には、船が乗ったそうです。

ぽつぽつと話す当時のことを聞けば聞くほど、こちらがグイグイ質問をすることはできなくなりました。
ただ、今回は個人旅行ではなく職場の視察だと理解してくれている彼女は「じゃあ、イオンに行ってみようか」と連れて行ってくれました。
YouTubeにたくさん津波動画が載っていた、多賀城イオン。
駅から仙台港へ向かう途中にあります。
駐車場に入り「ここからの動画だったよねえ」と言いながらぐるりと周ってくれます。
港の方には、まだがれきの山がありました。







「町の中のがれきは結構減ったけれど、まだあるんだなあ。残っている家も、1階はもう住めないね」という彼女。
いつも変わらない、のんびりした優しい口調ですが、その彼女が体験したつらさを思い、目の前のがれきを見て、津波の動画を思い出したら、涙があふれてきました。



それから、私たちが通った母校、多賀城中学校の前を通ります。
当時は市に中学校は2つしかなく、13クラスもあるマンモス校でしたが、今では4つに増えたんだとか。
校庭に仮設住宅ができていて、驚きました。



「多賀城公園には野球場ができて、そこも今仮設になってるよ」
私の部屋から見えていた多賀城公園のバラ園。
春には、窓を開けるとかぐわしい香りが部屋まで届いたものですが、今では駐車場に変わっていました。
航空写真を見ると、かつて秘密基地だったバードサンクチュアリが野球場になったようです。
(画像緑の○が仮設住宅。中学校と公園の二か所)

以前住んでいた家にも行ってみました。ここまでは津波は来なかったようですが、被災地図を見ると、家の前の県道58号線の前まで、浸水したようです。
決壊した砂押川もすぐそばだし、ギリギリ危ないところでした。
(画像ピンクの○が元我が家、黄色の斜線が津波で浸水した地域)



涙も一段落したところで車から見上げた夕方の雲がきれいだったので、そう口にしたら、
「リカ、前から雲が好きだったよね。そういう人、意外にいないけど、うちの息子もなんだよ」と。
ブランクを超える優しい友情にまた、涙腺が緩みます。

出発前の電話でゴエちゃんが「うちは、前から津波がやって来るわ、後ろの川は氾濫するわで逃げ場がなくて、子供の手を引いて末の松山に必死に逃げたんだ。いつも散歩している場所だから"末の松山波超さじ"だって知っていたし」と言うのを聞いて、ハッと思い当たりました。

調べてみると、末の松山を波が越えることがないと、たしかに昔から言い伝えられてきています。
私が職場でタガジョータガジョー言っていたためか、視察の最終日は私プレゼンの場所を周ることになったため、下調べのために末の松山に連れて行ってもらいました。
細道で、ノアが通るのがやっと。近くにはやはり歌碑となっている、奇岩の沖の石もありました。



砂押川は、私が住んでいた2年間も、そしてこの日もとても穏やかで、白鳥がゆったりとくつろいでいます。
この川が決壊して、牙をむき、人々に襲いかかったなんて、とても信じられません。



それから、レーちゃん宅に行き、ご家族に会えました。
お子さんたちはまだ小さく、かよわく、確かにレーの細腕では、とても津波から逃げ切れなかっただろうと思います。
子供たちが波にのまれないで、本当に良かった。

いっくちゃんとクミちゃんも来てくれました。
クミちゃんは中学の時以来。見た目もしゃべり方も性格も、変わらないものだな~となんか安心します。
旦那様が自衛官で、大忙しのようです。
「リカの家に行ったことある。部屋中パンダだらけだった」とクミちゃんに言われ、笑っちゃいました。
「そうだね、パンダといったらリカを思い出すよ」とみんな頷きます。
そう、ブログではあまり書いていませんが、私、すごーくパンダ好きだったんです。
昔の友達に会うたびに、その話をしてもらい「ああ、覚えててもらえてるんだ」と嬉しくなります。

ただ「忘れて下さい!私忘れたの!」的な恥ずかしすぎるメモリーも掘り起こし合って、満身創痍になったりもしました。

みんなが、普通に車で集合したことが、感覚が違ってビックリ。
みんな大人になったのね。そしてこっちはやっぱり車社会なのね。
車が津波にのまれたということは、こちらでは東京の人よりも生活必需品を失ったことになり、衝撃がいっそう大きかったことでしょう。



お寿司でもてなしてくれましたが、量の多さに仰天。
すごすぎる~。みんなでがんばりましたが、もちろん食べきれずに、レーはご近所さんにおすそ分けしていました。
これはいっくちゃん宅そばの和菓子屋さん。果物や野菜の形をした手作りスイーツで、とってもかわいらしかったです。



時間を忘れて、夢中で楽しくおしゃべりしました。
ただ、どうしても話の端々に、震災のことが入ってきます。
帰り際、玄関で「ここ、ひびが入っちゃたのよ」「ああ、うちもですよ」と、レーのお母さんとクミちゃんが普通に会話していることに動揺しました。
「こっちの家は、どこもだいたいひびが入っちゃっているからね」

みんな、「地震は怖いけれど、もうがんばるしかない」と決心しています。
震災後は、必ず風呂に水を貯めるようになったそうです。
あと、どうしてもおむつは買いだめしてしまうとのこと。
東京でも、おむつがしばらく品不足で、みんな困っていましたからね。

帰りは仙台まで、レーちゃんが送ってくれました。
久しぶりに懐かしいみんなに会えた嬉しさと、みんなの経験したつらさを思って、一人になってからも落ち着かない心をもてあましていました。
でも、みんなを抱きしめられて、暖かい体温を感じられて、本当に良かった。



ホテルモントレ泊。欧風のかわいらしい室内に心がなごみます。
明日は朝から集合なので、ほかのメンバーたちも、部屋にチェックインしているのかしらと思いながら、寝につきました。