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清水克行『室町は今日もハードボイルド』第4部第15話「荘園のはなし」:荘園の領域は「聖なる空間」とされた!「刑罰」の本質は「お清め」「お祓(ハラ)い」である!

2023-05-12 19:40:20 | 日記
※清水克行『室町は今日もハードボイルド、日本中世のアナーキーな世界』2021年:第4部「過激に信じる中世人」(「信仰」)
第4部第15話「荘園のはなし、ケガレ・クラスター」
(1)「荘園」とは「中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態」だ!
(a)「荘園」とは奈良時代から室町時代(つまり古代から中世)(※8-16世紀の900年間)にかけての「中央貴族や寺社による私的大土地所有の形態」のことである。(219頁)
(a)-2 現在の発展途上国などで、都会に住む一握りの大地主たちが地方の広大な農園を独占的に支配する形態に似る。(219頁)
(a)-3 「荘園」といっても「広さ」は様々だ。近衛家の南九州の「島津荘」は薩摩国・大隅国を合わせた地域だ。他方で小さなものは東寺の「拝師荘(ハイシノショウ)」(京都市)で11町(11ha、約330m四方)にすぎない。(219頁)
(a)-4 荘園から「荘園領主」への上納品である「年貢」は米、絹、鉄、など様々だった。(219-220頁)
(a)-5 荘園の管理職は「下司」(ゲシ)、「預所」(アズカリドコロ)、「公文」(クモン)など様々に呼ばれた。(220頁)

(2)荘園の領域は「境内」と呼ばれ、他とは違う「聖なる空間」とされた!
(b)日本中世の荘園は「聖なる空間」だった。元来、貴族や寺社が荘園の「私有」を許されたのは、彼らの職務である儀式(「国家鎮護」)や法会(ホウエ)(「仏法(ブッポウ)興隆」)を執り行うための経費を保障するためだった。(221頁)
(b)-2 かくて荘園領主は荘園の中心地に「鎮守」と呼ばれる守り神を祀った。Ex. 藤原氏の荘園なら氏神の春日神社。Ex. 荘園領主が武家なら武門の神の八幡神社(応神天皇)。Ex. 延暦寺の荘園なら比叡山の地主神の日吉ヒヨシ(日枝ヒエ)神社。荘園の領域は「境内」と呼ばれ、他とは違う「聖なる空間」とされた。(221頁)
(b)-3 荘園の境界には「牓示石(ボウジイシ)」が置かれることもあった。それはしばしば巨石であり「さわることや動かすことのタブー」が地元に語り伝えられることが多い。(221-2頁)

(3)荘園空間の清浄性の維持:犯罪者の荘外への「追放」と、その住宅の「焼却処分」!「刑罰」の本質は「お清め」「お祓(ハラ)い」である!
(c) 「ケガレ」は一般的に「死」や「血」に接近することで発生したが、「聖なる空間」である荘園では「犯罪」も「ケガレ」(穢れ)とされた。(222-3頁)
(c)-2 「犯罪」(Ex. 盗み・殺人)によって発生する「ケガレ」に対しては「清め」を行わねばならない。また犯罪のケガレは伝染する。かくて犯罪者の自宅、さらに盗品が置かれた別の家があればそれも「ケガレ」るので「清め」が必要となる。「ケガレ・クラスター」の発生を防がねばならない。(223-4頁)
(c)-3 「犯罪=ケガレ」に対する「罰」は荘園社会ではどのようなものだったか?①「死刑」は「死」のケガレ(死穢)が発生するので「罰」として採用されない。②「禁固刑」という刑罰も中世荘園ではダメである。犯罪者を荘内にとどめればケガレ(犯罪穢ハンザイエ)がいつまでも「聖なる空間」にととどまってしまう。(224-5頁)
(c)-4 かくて当時の荘園で最もポピュラーな刑罰は犯罪者の荘外への「追放」と、その住宅の「焼却処分」だった。こうして荘園という「聖なる空間」の清浄さが保たれた。(225頁)
(c)-5 荘園内の犯罪に対する「刑罰」は、「お清め」「お祓(ハラ)い」がその本質である。(225頁) 
(4)軽微な犯罪の場合の荘園の「刑罰」:「注連縄を張る」、「神宝を振る」、「ホラ貝を吹く」、「神灰をまく」!
(d)軽微な犯罪の場合、荘園の「刑罰」(「お清め」「お祓(ハラ)い」)として次のようなものがあった。
(ア)「注連縄(シメナワ)を張る」:犯罪者の家や田畠に注連縄を張り、その場所を封鎖し神仏のものに変貌させ、禍々しいケガレを除去する。(226頁)
(イ)犯罪者の家の前で「神宝(鎮守の神宝や神輿)を振る」という制裁を加える:荘園の鎮守神が降臨しケガレを除去する。(一種の嫌がらせ、不届き者への警告でもある。)(226-7頁)
(ウ) 犯罪者の家の前で「ホラ貝を吹く」:仏具としてのホラ貝は「諸罪障を滅する功徳」がある。(227頁)
(エ)「神灰(シンパイ)をまく」(伊勢神宮):伊勢神宮の命令を聞かない者たちの家に対して「神灰」(護摩で焼け残った灰)をまく。神灰は周囲に飛散し荘民に対する威嚇にもなる。Cf. 「護摩」は神仏のまえで木や札を焚いて祈念する宗教行為。(227-228頁)

(5)「聖なる空間」としての荘園制の終焉!
(e)「聖なる空間」としての荘園制もやがて終焉する。例えば、1503年、播磨国の鵤荘(イカルガノショウ)の殺人事件で、殺人犯の住んでいた自宅は荘園領主の処分の対象(本来ならケガレているので焼却処分される)となったが、そのケガレた家を買い取りたいという有力者が現れ、他方この荘園の現地代官は(焼却処分せずに)あっさり住宅を売り渡した。(228-9頁)
(e)-2 買い取りを名乗り出た有力者に、自分が事故物件を買って「ケガレ」が伝染するという危惧は何もない。住宅を焼き払わずに売り渡してしまう代官にも「聖なる空間」を維持しようとする意識はない。(228-9頁)
(e)-2-2 買う方は「たまたま家がほしいと思っていたところに、いい出物があった」というぐらいだし、売る方も「焼いて灰にしてしまうぐらいなら、すこしでもカネに替えよう」という感じだ。彼らに「ケガレ」に対する躊躇はない。(229頁) 
(5)-2 荘園制の下から徐々に人々の生活共同体としての「ムラ」が立ち現れてくる!   
(f)1504年、和泉国の日根荘では、犯罪者の住宅を村人たち全員が「村預かり」としてもらい受けることを、荘園領主に提案した。(229頁) 
(f)-2 この時期、荘園制の下から徐々に人々の生活共同体としての「ムラ」が立ち現れてくる。そんななかで、ムラの人たちはメンバーの家を簡単に没落させず、共同で保持していこうという姿勢を見せた。犯罪者の家でも、共同体(ムラ)の利益のために経営体を存続させようとするムラの存在!彼らに「ケガレ」に対する躊躇はない。(229頁)
(5)-3 生活者の観点からの「実利的な問題」の優先!
(g)この時期(16世紀)の社会には、従来の「聖なる空間」における「ケガレ・クラスター(穢れの伝染)」の問題よりも、生活者の観点からの「実利的な問題」を優先する動向が広がっていた。荘園制の「聖なる空間」を維持しようという意識は、そこにはもはやうかがえない。(229頁)
(g)-2 教科書は「中世の荘園制は豊臣秀吉による太閤検地によって解体された」と説明する。しかし15世紀後半には、庶民たちの実利的な行動・判断によって「聖なる空間」としての荘園を支える心性は、すでに空洞化していた。(229-230頁)

(5)-4 中世荘園の「聖なる空間」を支えた重要アイテムの零落:江戸時代!
(h)江戸時代には、中世の人々が恐れた「法螺を吹く」は、「大言壮語する」という語義に意味合いを変えた。(230頁)Cf. 中世の荘園において犯罪者の家の前で「ホラ貝を吹く」ことは「諸罪障を滅する」ための清め・御祓いであり、「刑罰」だった。(227頁)
(h)-2 また江戸時代には「護摩の灰」(神灰シンパイ)は、霊感商法でご利益を偽る「詐欺師」と同義になった。Cf. 中世の伊勢神宮の荘園において「神灰(シンパイ)をまく」ことは「刑罰」であり、荘民に対する威嚇だった。(227-228頁)
(h)-3 中世荘園の「聖なる空間」を支えた重要アイテムも、新しい時代(江戸時代)の到来とともに、意味を零落させた。

《感想1》Max Weber (1864~1920)の「魔術からの解放」(Entzauberung )という見解がここでも確認される。人類史は合理化(理性的・実利的な行動・判断)の進行である。それは魔術・呪術の否定の過程だ。
《感想2》ただし現在、政治の領域では、フェイク・ニュースや、AIにより構成されるリアルとフェイクのアマルガム的現実によって、再び「魔術化」が進行する。ただしこれは「非理性化」だが、「非実利化」ではない。
《感想2-2》なお「魔術からの解放」は「合理化」であるが、「合理化」には「理性化」と「実利化」の二面がある。
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山田詠美「ひよこの眼」(1990年、31歳):中学3年生の幹生は「自分の死を予期していた」!彼の瞳は「彼自身にしか見えないもの」、「実在するものではないもの」(死)を見ていた!

2023-05-07 16:11:29 | 日記
※山田詠美(ヤマダエイミ)(1959-)「ひよこの眼」(1990年、31歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年、所収
(1)その男子生徒の目を見た時、私はなぜか「懐かしい気持ち」に包まれた!
A  私(女・亜紀)が中学3年生の時、彼、相沢幹生(ミキオ)が転向してきた。教壇に立つその男子生徒の目を見た時、私はなぜか「懐かしい気持ち」に包まれた。だがどのような記憶に端を発しているのか、私にわからなかった。「せつない感情」が胸を覆い、私は驚き、混乱した。
(2)幹生は「妙に超然とした雰囲気」をもち、「ひょうひょうとした様子」だった!
A-2  幹生は「澄んだ瞳」で「まったく動じない様子」だった。彼の瞳は「彼自身にしか見えないものを見詰めている」ようだった。彼は「妙に超然とした雰囲気」をもち、「ひょうひょうとした様子」だった。私と仲の良い女の子たちは「結構素敵だよね、相沢くんて」、「大人っぽい気がする」と囁(ササヤ)いていた。
(3)やがて皆が、私は「相沢君のことを好きになった」とうわさするようになった!
B 私はずっと幹生の瞳のあの「懐かしい感情」について考えていたので、ほとんど一日中、幹生を盗み見るようになった。「彼の瞳は、いつも真剣に何かを見詰めている」、けれどその何かは「実在するものではない」ようだった。
B-2  やがて皆が、私は「相沢君のことを好きになった」、「いつも相沢くんのこと、ぽおっと見てる」とうわするようになった。そしてついに相沢と私(亜紀)は秋の学園祭の実行委員にされてしまった。「どうにでもなれ」という気分で私は、幹生と教室を出た。
(4)私たちは「つき合っている二人」となり、いつも、二人連れだって帰った!
C その日から、私たちは「つき合っている二人」となった。そしていつも、二人連れだって帰るのは周知のことになった。私は、次第に、彼が気を許し始めているのを感じた。彼はよく笑った。それでもやはり、幹生は、私と言葉を交わしていない時、まばたきもせずに「何かを見詰めている」のを私は知っていた。
C-2  ある日、私は、「相沢くん、ずいぶん季節はずれに転校して来たじゃない?お父さんの仕事の都合とか?」とたずねた。彼はうろたえた表情を見せたが、明るい調子で答えた。「お父ちゃん、病気で仕事できない」、「おばあちゃんに何とか面倒見てもらってる」、「借金取りから逃げて来たんだ」。
C-3  また、「お母ちゃんは、おれがちっちゃかった時に、どっか行っちゃった」、「男と逃げたらしい」、「おれって不幸だろ」と幹生が言った。
C-4  私は慌てた。すると彼が言った。「そんな顔するなよ。今のは、全部、嘘だよ。冗談。」
(5)私はあの「懐かしい瞳」を思い出した!それは死を予期している「ひよこの眼」だった!
D 私が家に帰ると、妹の真利子が「うさぎ」を買ってほしいと、母に駄々をこねていた。母が言った。「いい加減いしなさい。大分前にも、ひよこを買って来て死なせちゃったことあったじゃないの!」
D-2  私はあの「懐かしい瞳」を思い出した。私が「幹生の瞳」に出会ったとき、私の記憶を疼かせたのはあの「ひよこの眼」だったのだ。あの時、「ひよこは自分の死を予期しているかのように澄んだ瞳を見開いていた。ただ一点を見詰めながら、私の手の上で、静かに、その時を待っていた。」
(6)幹生は、父親が病気を苦に自殺を計り、その道連れにされた!
E  私は、その夜、沢山の夢を見て、そのたびに、自分の叫び声で目を覚ました。「ひよこの眼」の幻影が私を悩ませた。私は朝、疲れ果てていたが、学校に行った。だがその朝から、幹生は学校に来なかった。「幹生は、父親が病気を苦に自殺を計り、その道連れにされた」との事情が、担任の教師によって伝えられた。私たちは黙禱をするように言われた。私はその最中にこっそり目をあけていた。口惜しくて私は泣き続けた。

《感想》中学3年生の幹生は「自分の死を予期していた」。彼の瞳は「彼自身にしか見えないもの(死)を見詰めていた」。彼は「実在するものではない」もの(死)を見ていた。
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開高健(1930-1989)「掌のなかの海」(1989年):アクアマリンは、昔から船乗りのお守りだった!「さびしいですが、私は、さびしいですが」といって先生はうなだれ肩をふるわせ声に出して泣いた!

2023-05-06 13:43:49 | 日記
※開高健(1930-1989)(カイコウタケシ)「掌(テ)のなかの海」(1989年、59歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年所収
(1)私はとらえようのない「焦燥と不安」の「青い火」にとらえられていた!
A 30年近く昔、1960年代前半、私は30代前半だった。小説家になって間もなくの頃で、妻と娘の一家3人、そして買った家の借金があった。書きたいこともみつからない。私は少年時代の後半期から持越しのとらえようのない「焦燥と不安」の「青い火」にとらえられていた。編集者に書き上げた原稿を渡すと、私は新宿、渋谷、銀座と映画館を次々と立ち見して歩いた。
(1)-2 汐留の酒場に私は30代前半の3年間ほど通った、そこで初老の高田先生と会った!  
B やがて黄昏になる。私は行きつけの汐留の酒場に寄る。バーテンダーの内村は初老で無口だ。この酒場に私は30代前半の3年間ほど通った。私は時々、船医として航海している初老の高田先生と出会った。先生は、凛(リン)、と見える端正さで酒場の椅子にすわる。
(2)高田先生の一人息子が某大学の医学部の学生だったが、スキューバダイビングで行方不明となった!
C 高田先生は若い頃には軍医をしていて北京や上海で永く暮らした。先生の現住所は九州の福岡市で、家は何代にもわたって医院でありその地方で指折りの素封家だった。そして先生の医院も繁盛していた。一人息子が某大学の医学部の学生だったが、スキューバダイビングで行方不明となった。
C-2 先生は行方不明の息子の情報を得るため、月に一度、福岡から東京に出て警視庁の本庁に出頭した。それを1年間続けても、何もわからなかった。
(2)-2 先生は医院を解散し自邸を売り払い、船医となり、この海に息子の体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすことにした!
D こうしてある日、高田先生は発心した。則天去私と思い詰めた。すでに妻は彼岸に去って久しい。今また一人息子も海で失った。もはや家、財産、地所を持っていたところでどうってこともない。先生は、医院を解散し、地所を手放し自邸を売り払い、船医となった。船医になって船に乗りこみ、この海に息子の体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすことにした。
(3)高田先生はあの船、この船と、外洋航路の貨物船に乗り込む!汐留の酒場に先生は、1か月も2カ月も音沙汰なしに、某日ふらりと現れた!
E 今や高田先生は息子の下宿だった深川のアパートを拠点にして、あの船、この船、あの航路と、外洋航路の貨物船に乗り込む。汐留の酒場に先生は、1か月も2カ月も音沙汰なしに、某日ふらりと現れる。「いそがしいんですか?」と私がたずねると、「ひま。ひまもひま。船員の怪我なんてたいていバンドエイドですみます。毎日が日曜ですわ。だからトルストイの『戦争と平和』、中里介山の『大菩薩峠』、それと『西遊記』をどこに行くにも持ち込むことにしてます」とのこと。
(3)-2 「板子一枚下は地獄」の船乗りにとって、きれいな海の水にそっくりのアクアマリンは、昔から船乗りのお守りだった!
F ある年の早春、航海を終えて、高田先生が久しぶりに汐留の酒場に顔を見せた。すると先生が「下宿へ来ませんですか」と言って、私は誘われた。先生の部屋は六畳と四畳の2室に、小さなキッチンきりだった。折り畳み式のチャブ台に、薄っぺらなざぶとん。グラスにスコッチをつぐ。みごとな切子模様のタンブラー。「マ、やりましょ」と先生。
F-2 飲みながら互いにしゃべっているうちに、先生はスウェード革の革袋をとりだし、その中身をザラザラとちゃぶ台にあけた。これが小粒、中粒、大粒のたくさんのアクアマリンだった。先生はブラジルのサントス港で、質屋のおっさんから「これは船乗りのお守りだよ」と1個売りつけられたという。ところがこれが病みつきとなり、先生は、一切捨棄と思いきめたはずなのに、港によるたびにアクアマリンを買うようになった。
(3)-3 「私はさびしいです。さびしくて、さびしくて、どうもならんです。」
F-3 「板子一枚下は地獄」の船乗りにとって、きれいな海の水にそっくりのアクアマリンは、昔から船乗りのお守りだった。「これは夜の光で見ると一層いいです。・・・・私は夜になるとルーム・ライトを消して窓ぎわで眺めとります」と先生が言った。先生は立ち上がると電灯を消し、窓をあけた。大都市の夜の光が石を海にした。掌(テ)のなかに海があらわれた。
F-4 先生が言った。「さびしいですが、私は。九州者のいっこくでこんな暮らしかたをして、石に慰められとるんですが。どうしても血が騒いでならんこともあるです。私はさびしいです。さびしくて、さびしくて、どうもならんです。」
F-5 先生が呟きながらたちあがって電灯をつけると、海が消えて、掌に青い石がのこった。先生がチャブ台のまえにすくんで正座している。しかし先生はすでに形相を変え、体のまわりにはもうもうと陰惨がたちこめている。「さびしいですが、私は、さびしいですが」といって先生はすすり泣いた。かすかな声、やがて崩壊がはじまり、先生はうなだれ肩をふるわせ声に出して泣いた、泣き続けた。手が濡れ、膝が濡れ、古畳に涙はしたたり落ちつづけた。

《感想1》妻は亡くなり、一人息子も行方不明、おそらく亡くなった。かくて高田先生は、医院を解散し自邸を売り払い、船医となった。そしてこの海に息子の体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすことにした。だが「生きる」とは「人とともに生きる」ことだ。先生は地元で医院を経営し、地元の人々のために働いていれば、さびしくなかったように思う。
《感想2》先生は「ひま。ひまもひま」な船医はやめて、再び地元に帰るか、あるいはどこでもよいので「陸」で医院を経営したほうがよいと思う。そうすれば、多くの人とともに働き、また多くの患者の役にもたち、人々との交流があってさびしくないだろう。
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『椿説 三銃士』One for all, All for one?(ヒューリックホール東京)2023/05/03:ダルタニアンは田舎貴族らしく、「都」の「騎士道」と「決闘」にあこがれる陽気な若者だ!

2023-05-05 14:53:17 | 日記
「椿説(ちんせつ)」は「突飛で滑稽な説」という意味。原作はアレクサンドル・デュマの小説『三銃士』(1844)。立身出世を夢見る若者のダルタニアンを小鯛詩恩(ジャニーズJr.)、ダルタニアンの小姓ジルー役とフランス国王ルイ13世役を竹村実悟(ジャニーズJr.)が演じる。
(1)
フランスのガスコーニュの田舎貴族出身で、立身出世を夢見る若者ダルタニアンが近衛銃士になるべく、小姓ジルーとともに都会パリに出てくる。ダルタニアンは、銃士隊で名を馳せるアトス(オレノグラフィティ)、ポルトス(なだぎ武)、アラミス(平野潤也)の「三銃士」と協力しながら、国王ルイ13世の王妃のために戦う。敵は、ルイ13世の宰相リシュリュー枢機卿(陰山泰)、そして腹心のロシュフォール伯爵(木ノ本嶺浩)、美貌と知恵を兼ね備えた悪女ミレディー(しゅはまはるみ)、リシュリューの護衛士たちだ。
(2)
パリに到着したダルタニアンは、父から預かった近衛銃士隊長への手紙をロシュフォールに奪われてしまう。さらに、ダルタニアンは成り行きで、近衛銃士隊の「三銃士」として名を馳せるアトス、ポルトス、アラミスと決闘する羽目になる。だがそこに、近衛銃士と敵対する宰相リシュリューの護衛士が現れ、決闘は中断する。この時、ダルタニアンは三銃士の側について戦う成り行きとなる。かくて以後、ダルタニアンは三銃士とともに、護衛士そして宰相リシュリューと戦う。
(3)
ブルボン家のフランス国王ルイ13世(在位1610-1643)の王妃は、ハプスブルグ家スぺインの出身だ。だがリシュリューはハプスブルグ家スペインに打撃を与えるため、王妃と英国バッキンガム公が恋人関係にあることを暴露しようとする。宰相リシュリューの護衛士と敵対する「ダルタニアンと三銃士」は王妃の側に味方し、イギリスにわたって、宰相リシュリューの企てを阻止する。
(4)
宰相リシュリューは、自分に対する反感を抑えようと、近衛銃士隊の存在を容認するにいたる。かくてリシュリューは、護衛士の部隊を解散し、ルイ13世の警護を三銃士らの近衛銃士隊に任せることとする。こうして勢力を回復した近衛銃士隊において、ダルタニアンは次々期の近衛銃士隊長となる。

《感想1》リシュリュー枢機卿(1585-1642)はルイ13世のもとで、1624年宰相となり死去の年、1642年までその地位にあった。リシュリューは「私の第一の目標は国王の尊厳。第二は国家の盛大である」と述べる。リシュリューの施策は具体的には2つだ。①王権の強化。Cf. 1629年アレス和議は、1598年ナント勅令で与えられたプロテスタント(ユグノー)の信仰の自由は認めたが、政治的軍事的諸特権は廃止した。②オーストリアとスペインを領するハプスブルク家への対抗。Cf. 1635年、ブルボン家フランスはハプスブルグ家スペインに宣戦布告して三十年戦争(1618-1648)に参戦した。
《感想2》(a)宰相リシュリューは「ダルタニアンと三銃士」にとって敵であるが、極めて有能な敵である。(b)リシュリューの腹心のロシュフォールは剣術の腕が無敵だ。ロシュフォールが若者ダルタニアンより強いのは当然としても、彼はなんと「三銃士」よりもはるかに強い。(c)悪女ミレディーは美貌と(悪)知恵を兼ね備え、強烈な存在感がある。
《感想2-2》ダルタニアンはガスコーニュの田舎貴族らしく、「都」の文化としての「騎士道」と「決闘」にあこがれる陽気な若者だ。小姓ジルーは極めて有能かつ策略家で、また身体能力も高い。家康の服部半蔵、かつドン・キホーテのサンチョ・パンザのような存在だ。なお「三銃士」はこの劇内では、剣があまり強くない。
《感想3》ダルタニアンの出身地はガスコーニュだ。かの剣豪シラノ・ド・ベルジュラックが身をおいたのはガスコン青年隊であり、ガスコーニュ出身者が隊員の大半を占めた。彼らは勇猛果敢で知られた。

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尾辻克彦(1937-2014)「出口」(1989年):「肛門」という出口に殺到する「大」!日射病のようになり、猛烈な下痢を経験した後は、持ち直しても、居酒屋で生ビールを飲んだりしてはいけない!

2023-05-01 11:39:33 | 日記
※尾辻克彦(1937-2014)「出口」(1989年、52歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年所収
(1)「出口」に殺到する群衆&「肛門」という出口に殺到する「大」!
A パニックで、群衆が映画館やスタジアムの「出口」に殺到する。同じように「大」が「肛門」という出口に殺到することがある。「体内の渦巻き」が肛門に殺到する。例えば、小学校のとき、「大」を一日我慢して家に、あわてて帰ることがある。
(2)私は日射病のようになり、猛烈な下痢、しかし持ち直した!
B 私(52歳)は会社帰り、終電を降りて、家まで15分。駅で猛烈に「大」をしたくなったが、駅が閉まる時間だったので我慢した。私は二週間ほど前、急激な日焼けから日射病のようになり、猛烈な下痢で、体力が一気になくなった。それから何とか持ち直し、今日はもう大丈夫と、居酒屋で生ビールをジョッキ4杯飲んだ。それがいけなかった。腹の中の「渦巻き」が大変なことになった。
(2)-2 「群衆」(「大」)が「出口」(「肛門」)を出ていった!
B-2  駅から家までの15分、私は、ついにダメだった。家まであと5分のところで、最初の「群衆」(「大」)が「出口」(「肛門」)を出ていった。衣服の中を、群衆が駆け降りていった。そして2度目の「群衆」、3度目の「群衆」が「出口」を出ていった。
(3)路上に私の「そのモノらしきもの」があった! 
C  家に着き、私は玄関から浴室に駆け込んだ。シャワー1時間。その後、ビオフェルミンを2、3度飲んだ。それから、3日間、私は家にいて仕事をした。4日目、久しぶりに家を出ると、路上に私の「そのモノらしきもの」を発見した。かなり「形崩れ」していた。そして「犬のもの」とは違う。「馬のもの」に似ていた。

《感想》日射病のようになり、猛烈な下痢を経験した後は、持ち直しても、そして二週間たっても居酒屋で生ビールをジョッキ4杯飲んだりしてはいけない。「出口」に殺到する群衆のように、「肛門」という出口に「大」が殺到する。
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