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開高健(1930-1989)「掌のなかの海」(1989年):アクアマリンは、昔から船乗りのお守りだった!「さびしいですが、私は、さびしいですが」といって先生はうなだれ肩をふるわせ声に出して泣いた!

2023-05-06 13:43:49 | 日記
※開高健(1930-1989)(カイコウタケシ)「掌(テ)のなかの海」(1989年、59歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年所収
(1)私はとらえようのない「焦燥と不安」の「青い火」にとらえられていた!
A 30年近く昔、1960年代前半、私は30代前半だった。小説家になって間もなくの頃で、妻と娘の一家3人、そして買った家の借金があった。書きたいこともみつからない。私は少年時代の後半期から持越しのとらえようのない「焦燥と不安」の「青い火」にとらえられていた。編集者に書き上げた原稿を渡すと、私は新宿、渋谷、銀座と映画館を次々と立ち見して歩いた。
(1)-2 汐留の酒場に私は30代前半の3年間ほど通った、そこで初老の高田先生と会った!  
B やがて黄昏になる。私は行きつけの汐留の酒場に寄る。バーテンダーの内村は初老で無口だ。この酒場に私は30代前半の3年間ほど通った。私は時々、船医として航海している初老の高田先生と出会った。先生は、凛(リン)、と見える端正さで酒場の椅子にすわる。
(2)高田先生の一人息子が某大学の医学部の学生だったが、スキューバダイビングで行方不明となった!
C 高田先生は若い頃には軍医をしていて北京や上海で永く暮らした。先生の現住所は九州の福岡市で、家は何代にもわたって医院でありその地方で指折りの素封家だった。そして先生の医院も繁盛していた。一人息子が某大学の医学部の学生だったが、スキューバダイビングで行方不明となった。
C-2 先生は行方不明の息子の情報を得るため、月に一度、福岡から東京に出て警視庁の本庁に出頭した。それを1年間続けても、何もわからなかった。
(2)-2 先生は医院を解散し自邸を売り払い、船医となり、この海に息子の体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすことにした!
D こうしてある日、高田先生は発心した。則天去私と思い詰めた。すでに妻は彼岸に去って久しい。今また一人息子も海で失った。もはや家、財産、地所を持っていたところでどうってこともない。先生は、医院を解散し、地所を手放し自邸を売り払い、船医となった。船医になって船に乗りこみ、この海に息子の体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすことにした。
(3)高田先生はあの船、この船と、外洋航路の貨物船に乗り込む!汐留の酒場に先生は、1か月も2カ月も音沙汰なしに、某日ふらりと現れた!
E 今や高田先生は息子の下宿だった深川のアパートを拠点にして、あの船、この船、あの航路と、外洋航路の貨物船に乗り込む。汐留の酒場に先生は、1か月も2カ月も音沙汰なしに、某日ふらりと現れる。「いそがしいんですか?」と私がたずねると、「ひま。ひまもひま。船員の怪我なんてたいていバンドエイドですみます。毎日が日曜ですわ。だからトルストイの『戦争と平和』、中里介山の『大菩薩峠』、それと『西遊記』をどこに行くにも持ち込むことにしてます」とのこと。
(3)-2 「板子一枚下は地獄」の船乗りにとって、きれいな海の水にそっくりのアクアマリンは、昔から船乗りのお守りだった!
F ある年の早春、航海を終えて、高田先生が久しぶりに汐留の酒場に顔を見せた。すると先生が「下宿へ来ませんですか」と言って、私は誘われた。先生の部屋は六畳と四畳の2室に、小さなキッチンきりだった。折り畳み式のチャブ台に、薄っぺらなざぶとん。グラスにスコッチをつぐ。みごとな切子模様のタンブラー。「マ、やりましょ」と先生。
F-2 飲みながら互いにしゃべっているうちに、先生はスウェード革の革袋をとりだし、その中身をザラザラとちゃぶ台にあけた。これが小粒、中粒、大粒のたくさんのアクアマリンだった。先生はブラジルのサントス港で、質屋のおっさんから「これは船乗りのお守りだよ」と1個売りつけられたという。ところがこれが病みつきとなり、先生は、一切捨棄と思いきめたはずなのに、港によるたびにアクアマリンを買うようになった。
(3)-3 「私はさびしいです。さびしくて、さびしくて、どうもならんです。」
F-3 「板子一枚下は地獄」の船乗りにとって、きれいな海の水にそっくりのアクアマリンは、昔から船乗りのお守りだった。「これは夜の光で見ると一層いいです。・・・・私は夜になるとルーム・ライトを消して窓ぎわで眺めとります」と先生が言った。先生は立ち上がると電灯を消し、窓をあけた。大都市の夜の光が石を海にした。掌(テ)のなかに海があらわれた。
F-4 先生が言った。「さびしいですが、私は。九州者のいっこくでこんな暮らしかたをして、石に慰められとるんですが。どうしても血が騒いでならんこともあるです。私はさびしいです。さびしくて、さびしくて、どうもならんです。」
F-5 先生が呟きながらたちあがって電灯をつけると、海が消えて、掌に青い石がのこった。先生がチャブ台のまえにすくんで正座している。しかし先生はすでに形相を変え、体のまわりにはもうもうと陰惨がたちこめている。「さびしいですが、私は、さびしいですが」といって先生はすすり泣いた。かすかな声、やがて崩壊がはじまり、先生はうなだれ肩をふるわせ声に出して泣いた、泣き続けた。手が濡れ、膝が濡れ、古畳に涙はしたたり落ちつづけた。

《感想1》妻は亡くなり、一人息子も行方不明、おそらく亡くなった。かくて高田先生は、医院を解散し自邸を売り払い、船医となった。そしてこの海に息子の体がとけているんだと思って墓守の心境で余生をすごすことにした。だが「生きる」とは「人とともに生きる」ことだ。先生は地元で医院を経営し、地元の人々のために働いていれば、さびしくなかったように思う。
《感想2》先生は「ひま。ひまもひま」な船医はやめて、再び地元に帰るか、あるいはどこでもよいので「陸」で医院を経営したほうがよいと思う。そうすれば、多くの人とともに働き、また多くの患者の役にもたち、人々との交流があってさびしくないだろう。
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