DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

藤枝静男(1907-1993)『空気頭』(1967、60歳):私の考案した「人工気頭装置」に改良を加え、空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります!

2023-05-22 17:41:57 | 日記
※頁は『田紳有楽/空気頭』講談社文芸文庫、1990年。
(1)妻は1938年に私(31歳)と結婚し、1941年(34歳)に結核にかかった!今、1966年(私59歳)、妻は極めて重篤な病状でM結核療養所に入院している!
A  私はこれから「自分の考えや生活を一分一厘も歪めることなく写して行って」、「完全な独言で他人の同意を期待せぬもの」として「私小説」を書く。(143頁)
B 今、1966年(59歳)、私の妻はM結核療養所に入院している。私の妻は1938年に私(31歳)と結婚し、1941年(34歳)に結核にかかった。(145頁)
B-2 戦争中(1941-45)、妻は私が軍医だったので、勤めていた海軍の病院に入院していた。妻は「気胸療法」で軽快し退院した。(146-147頁)
B-3  妻の2回目の入院はT療養所だった。人工気胸術により妻は1年足らずで退院した。(154頁)
B-4  1954年(47歳)、妻が気胸を始めて11年目、「気胸療法」は医師の判断で終了した。あとは「左肺の上空の空洞」を「手術で取り除く以外に方法はない」と宣告された。(156頁)
B-5  ストマイ等で病菌はいったん退却し、下熱とか食欲の増加とかもあったが、結局、結核は進行した。8年余りの長い間、慢性的な不安に満ちた生活が続いた。妻はしばしば「私に対する不満と怒り」を発現し、私は何度となく「爆発的な憎悪」を妻に覚えた。(156-157頁)
B-6   1962年(55歳)、妻は結核による左肺上葉の空洞のため「胸郭整形手術」を受け、肋骨5本を切り取られた。5か月後、妻は退院し家に戻った。(157頁)
B-6-2  だが結核菌の排菌が続いた。医師が時々訪問し、対症療法を続けた。「何もかも、妻の病状も、ヒステリーも、私のそれに対する憎悪も、もとのままであった。」(159-160頁)
B-6-3  私は「情味の乏しい、理屈一辺倒の押しつけがましい云い方で、妻を慰めていた。」妻は「あなたはどんな時でも御自分が正しいと思っていらっしゃるのよ」と云って涙を流した。「けど、私がこれまで生きてこられたのはそのためかもしれない」と別のとき云った。(161頁)
B-7  1963年(56歳)、妻はM療養所に入院し「肺葉切除手術」を受けた。(161頁)
B-7-2  しかし1年半後、1965年(58歳)、妻は新たに「気管支結核」であるとわかった。(165頁)
B-7-3 今、1966年(59歳)、私の妻は極めて重篤な病状でM結核療養所に入院している。ストマイ、カナマイによって妻の聴神経の一部が失われている。(168頁)

(2)1966年(私59歳):一週間に一回くらいの割りで私は妻の病床を見舞っていた!
C 1966年(私59歳)、妻がM結核療養所に極めて重篤な病状で入院している。私は、「今日は妻の死んだときのことを楽しく空想した。・・・・そしてやがて私も死んで、妻の墓へ入っていくときの光景を楽しく空想した。」(169頁)
C-2  「私は大木を眺めるのが好きなので・・・・見当をつけたあたりを尋ねることを習慣にするようになっていた。」(171頁)
C-3  「一週間に一回くらいの割りで私は妻の病床を見舞っていた。」(173頁)
C-3-2  「私は、妻の全身がゆっくりと、ボロボロに犯されて行く苦しい妄想にしばらくとらえられていた。」(174頁)

(3)33年前(1933年、26歳)私は警察に1か月留置された!妻が「わたしはこのお墓に入るのはいやです」と言った!
D ある時、散歩して飲み屋かギョーザ屋の揚げ油の臭いを嗅いだ時、33年前(1933年、26歳)、「共青」と疑われたNに家族救援のカンパの金をだし警察に1か月留置されたことを思い出した。(176-179頁)
D-2  私はまた、何か月か前、妻と私の故郷の墓参りに行ったときのことを思い出した。私が亡くなった父母兄たちの墓の掃除に没頭していると、妻が「わたしはこのお墓に入るのはいやです」と言った。「すると反射的に(裏切られた)というような、異様な不快感が私を襲った。」(180頁)

(3)-2 「上半盲」の発作:「私の考案した人工気頭装置」で完全な視野がもどる!「上半盲」の発作が起きると、同時に「性的欲望の昂進」が起きる!
D-3  この日、散歩からもどると「上半盲」の発作が起きた。「自分の視野の上半分が、ちょうど薄靄を通してみるようにかすんできた。」あ(183頁)
D-3-2  私は診察室に入り「私の考案した携帯用の人工気頭装置」とりだした。麻酔・消毒後、ゾンデ(針金状の器具)を眼球に差し込み、私の頭蓋底から浸出液を体外に排出した。そしてついで「空気」を頭蓋底に送り込む。すると「上半盲」は回復し完全な視野が戻った。(184-188頁)
D-3-3  私の「上半盲」の発作が明確に現れたのは1944年末(37歳)か1945年初め(38歳)だった。妻が1941年に結核を発病し3年経った頃だ。ただし実際は、私はもっと以前、小学生の頃から視野の異常に気づいていた。(188頁)
D-3-3-2 「上半盲」の発作が起きると、視野の「上半分」は「ただの暗黒に変わってしまう」。(193頁)
D-4  「上半盲」の発作が起きると、同時に「性的欲望の昂進」が起きる。(194頁)

(4)1944-1945年(37-38歳)、私にはAという名前の19歳の看護婦の「恋人」がいた!
E その頃、1944-1945年(37-38歳)、私には「恋人」がいた。Aという名前の19歳の看護婦だった。私は「医者」で「先生、先生」とおだてられていた。戦争末期で空襲警報がしばしば鳴り、「誰しもそうでしたでしょうが、当時の私はなりゆきにまかせてその日を過ごしておりました。」(194-195頁)
E-2  「私はA子と、夜のレントゲン室や防空壕や材木置場で快楽をともにしていました。」(196頁)
E-3  1945年(38歳)、間もなく終戦の日が来ました。(197頁)
E-3-2  A 子と私との情交はあいかわらず続いていました。しかし「戦争という緊縛が私から脱落して行けば行くほど、私の肉欲はゴム風船の空気が漏れるように衰弱しはじめていた。」(200頁)
E-3-3 「不能者的傾向が、自分の活力の消滅と自信喪失とに結びついていることを感じました。そして性欲的の妄想だけが劇しくなって行くにつれて、反対に実際の能力は上半盲の起こる時に限られはじめました。」(201頁)
E-3-4 「私は結局A子を捨てて、というよりはA子の肉体に敗退して、妻の実家のある田舎の村に引き上あげて行きました。」(202頁)

(5)1945年(38歳)私にB子という女ができた!私は好色なだけで実力を欠いた中年男だった(不能者的傾向)!
F 1945年(38歳)東海道沿いの中都市に診療所を開設。妻は療養所に入院。子供を又も妻の両親に託し、私は一人きりの生活に戻りますと、私には再びB子という女ができた。(B子は、はじめ3か月は私のところの看護婦だったが出奔し、バーで再会し私の女となった。)(202-203頁)
F-2  だが私の貧弱な肉体は、A子におけると同様に、今回もB子によって完全にうちのめされてしまった。私は毎度のように敗退し、B子の憫笑をかいながらも、彼女を離す勇気がない好色なだけで実力を欠いた中年男だった。(203頁)

(6)1947年(40歳)から私の努力は、専ら「この憎悪すべき敵、下等にして汚穢オワイな生きもの」(女)の征服にむけられることになりました!
G 翌々年(1947年、40歳)の或る春の日、私はレオナルド・ダ・ヴィンチの「人類交合断面図」を発見した。(203-204頁)
G-2  この図は男性の性感は大脳内に終わるが、女性の性感は膣子宮と乳首の間を往復するばかりで脳髄とは無関係と語っていた。(207頁)
G-2 -2 翌日からの私の努力は、専ら「この憎悪すべき敵、下等にして汚穢オワイな生きもの」(女)の征服にむけられることになりました。(208頁)
G-2-3  私はこの時、私の大学で戦争中(1942年、35歳)に行われたインドのヨガの行者のデモンストレーションを思い出した。この行者はペニスに自由自在に膨張と緊張を与えることができた。(209-210頁)

(6)-2 記憶:①1954年(47歳)「人造直立ペニス製造法」の話!②「秋石」という媚薬(男子の小便から作る)の話!③「豚の眼球」・「人糞」をもらいに行く話!
H  1954年(47歳)、母校の教授から「人造直立ペニス製造法」の話を聞いた。これは脛骨の局部移植術だった。(210-214頁)
H-2  その日、私は産婦人科の医者の友人を訪ねた。彼は自分が大学時代、教授から「秋石」という媚薬(漢方薬)を作らされたことを語った。その媚薬は男子の小便を3カ月間壺に密封しその沈殿物から作る。(214-218頁)
H-2-2  この友人と私は研究のため、1941年(34歳)頃、毎週金曜日、金町通いをした。私は「屠殺場」に実験用の「豚の眼球」をもらいに行き、友人は実験用に「屎尿シニョウ処理場」に「人糞」をもらいに行った。(219-226頁)

(6)-3  1947年(40歳)以来の強精薬に関する私の研究!「上半盲」の発作が起きると、同時に、「性的欲望の昂進」が起きる!
I  さて1947年(40歳)以来の強精薬に関する私の研究は、いっこう進捗しませんでした。それは女性の征服というより、B子に征服されまいとする、生への執着に追いつめられた消極的な要請に促されていた。(226頁)
I-2  B子は、もはや平生の私には彼女を性的に満足させる力の失せていることを知っていました。B子は私の「上半盲」発現のときだけを狙って近づくようになった。「上半盲」の発作が起きると、同時に、「性的欲望の昂進」が起きるからだ。欠落した視野をカヴァーするために伏目になって顎を突き出した私のみじめな恰好が、私の発情期を示すものとして、B子の襲撃を促す標識となっていた。(228頁)

(6)-4 私は中国「糞尿学」の文献を読み、「糞尿」から作る「金汁」が強精剤として、自分でも作れることを見出した!
I-3  1年ばかりたった夏のある夕暮れ、ある五十がらみの貧相な小男が、強精剤として「人糞の粉」をふりかけにして食べていた。「女房も喜ぶしな。仕方ないさ」と言った。(228-229頁)
I-4  私は中国「糞尿学」の文献を読み、「糞尿」から作る「金汁」が強精剤として、自分でも作れることを見出した。(233頁)
I-4-2  私は2つの小学校と1つの中学校の糞壺を利用し、竹筒を1年間沈め、その竹筒の中から透明な無臭な液体、「金汁」を得た。「金汁」は味も香もない強精剤だ。飲むとじきに「上半盲」の発作が生じ、「私の精神と陰茎は喜びの声をあげて躍り狂いました。」B子は私に征服され、ギャ、ギャという泣き声を立てました。B子を手に入れてから3年目で(1948年41歳)、やっと私は彼女と対等の位置を得ることができたのです。(235-238頁)
I-5  私とB 子との幸福なバランスは、それから約3年間(1951年44歳まで)保たれていました。(237頁)

(6)-5 「糞尿」から作る強精剤「金汁」により糞臭がB子の体臭となった!
I-5-2 ところがB子との幸福な3年間が終わりに近づいていたころ、私は妙なことに気づきはじめました。B子の皮膚からほのかな糞臭が漏れるようになってきたのです。ついには糞臭がB子の体臭となった。「糞尿」から作る強精剤「金汁」(糞汁)が私を素通りしてB子の体内に蓄積され、そこで本来の臭気を発散するのだ。(239-240頁)
I-5-3 この出来事は、私に「B子からの解放」また「性欲からの解放」をもたらした。私とB子との関係は終わった。(241頁)

(7)「精神の充足と、外界への全肯定の境地」(1951・52年頃?44・45歳頃?)!
J  その後、わたしに「上半盲」の発作が起きると今度は「幻視のB子」があらわれた。(244頁)
J-2  また或る夏の夜(1951・52年頃?44・45歳頃?)、B子の勤めるキャバレーで、友人の安富君がずれて半透明に重なり合ったもう一人の安富君として宙に脱出し、ぴたりと丸天井に貼りついた。(245頁)
J-2-2  ついで私の体が気泡のように昇りはじめ天井にはりついた。その時、「私は、自分の頭蓋が空っぽになっていることを自覚しました。全視野が健康に解き放たれ・・・・ました。・・・・満足と喜びの情が潮のように私の胸を浸しはじめました。私は、自分の精神が今、空白であると同時に残る隈なく充足していることを感じました。自分がB子からも、糞尿からも、すべてのこれまでの煩わしい苦悩から、まったく解放されているのを信ずることができました。」(245-246頁)
J-2-3 これは「禅の悟り」の瞬間における心象風景、つまり「空頭」に相当する。「精神の充足と、外界への全肯定の境地」だ。あるいは癲癇の発作のまえのドストエフスキーの「恍惚と全肯定の世界」だ。(249頁)

(7)-2 「完全な視野」を「人工的に作り出す」のだ!私の考案した「人工気頭装置」に改良を加え、「結局は空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります」!
J-2-4 私は「完全な視野」を「人工的に作り出す」のだ。(251頁)
J-2-5 私は私の発明した「気頭療法」によって「私の脳下垂体と視神経交叉部との中間に空気を導入し(視神経繊維束を侵食しているヴィールスによる腐敗組織を剥がし)その接触を『離断』しなければならない。」かくて「上半盲」は回復し完全な視野が戻る。(251頁、Cf. 187頁)
J-2-5-2 私に遺伝し過去から私につきまとって来たヴィールスの増殖は制圧される。(251頁)
J-2-6 私は努力して私の考案した「人工気頭装置」に改良を加え、「結局は空気で私の全脳髄を充満させ、完全な空気男になってフワフワと昇天してみせる決心でおります。」(252頁)
《参考》私は診察室に入り「私の考案した携帯用の人工気頭装置」とりだした。麻酔・消毒後、ゾンデ(針金状の器具)を眼球に差し込み、私の頭蓋底から浸出液を体外に排出した。そしてついで「空気」を頭蓋底に送り込む。すると「上半盲」は回復し完全な視野が戻る。(184-188頁)

(8)1967年(60歳):「人格者と云われたのが癪にさわってならない」!私は「人格者」でない!
K  1967/4/24(60歳)の私の日記:この日、私は夜、市長選挙事務所を訪れた時、知人のKが「先生のような人格者に支持してもらうと心強い」と云った。しかし「人格者と云われたのが癪にさわってならない。」私は「人格者」でない。(254-255頁)
K-2  私は「平気で弱い者に冷酷になれる人、味方に似たふるまいを見せていて裏切る人」だ。(258頁)
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春日武彦(1951-)『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』(2011、60歳)(その2):「老人」は否定的コトバだ!「年寄り」は肯定的コトバだ!「年寄り」は「浮世における配役」を「演じる」!

2023-05-19 18:52:05 | 日記
※「頁」は中央公論新社・中公文庫(2019)による。
第4章 孤島としての老い
(5)「老い」は、「弱者となること」、「隅に追いやられ、時流から取り残され、多くの可能性が狭まり、孤独感が深まっていく」ことだ!「老女の独り暮らし」はどこか安定感があり自然である!  
G 菅原克己(1911-1988)の詩「散歩」は「耳が遠く足がわるい」おばあさんが列車にはねられ死ぬ事故を描く。春日武彦氏(60)は「世の中は弱り目に祟り、弱者は・・・・追い詰められる・・・・意地の悪い仕組みになっている」と言う。老人は「弱者」である。(107-110頁)
G-2  春日武彦氏(60)は、武田花(1951-)「老女」(2008)という小品を引用しながら「老い」をマイナスの事柄と結びつける。「貧乏臭い」・「ありふれた」・「煤けた」・「黄ばんだ」・「ショボい」など。(111-114頁)
G-3  さらに吉屋信子(1896-1973)「黄梅院様」(1952)の引用では、「老い」は、「弱者となること」、「隅に追いやられ、時流から取り残され、多くの可能性が狭まり、孤独感が深まっていく」ことだとされる。(115頁)
G-3-2 「棺(ヒツギ)の定員は1名限りという意味で、老人には孤独の影が付きまとう」。(115頁)
G-4  天野忠(1909-1993)の詩「つもり」の引用で、春日武彦氏(60)は、「老女の独り暮らしのほうがどこか安定感があり自然である。男独りだと、マイペースというよりは悲哀めいたものが付きまといやすくなる」と言う。(124-127頁)

第5章 中年と老年の境目
(6)「定年10年前」、ふと「心の衰え」・「亡びの予感」にとらわれる!「60歳」が「心身の衰えや人生の区切り」といった点で特に男性にプレッシャーを与える!    
H  井上靖(1907-1991)「大洗の月」(1953)は40歳半ばの実業家が、ある日、ふと「心の衰え」・「亡びの予感」にとらわれ「月見に遠出をしてみよう」とする物語だ。(138-140頁)《感想》1950年代の話で一般に「55歳定年」の時代だから、「40歳半ば」は定年10年前に相当する。
H-2  「老いを自覚する」とは「今までの人生を振り返る」ようになることで、「人の世の不思議さや呆気なさ」、
「感慨と虚無とを覚える」ようになることだ。(142頁)
H-3  今は(定年が「60歳」なので)「60歳」が「心身の衰えや人生の区切り」といった点で特に男性にプレッシャーを与える時期だ。(149頁)
《感想》60歳を超えると「体力」が落ちたと自覚し、70歳を超えると「老人」であることをかなり感じる。(ただし相当に、個人差があるだろう。)

第6章 老いと鬱屈
(7)「老いること」は「何もかもが面倒となってしまう」ことに他ならない!    
I  「老いること、死に瀕することは、すなわち『何もかも少しだけ遅すぎる』と痛感し、何もかもが面倒となってしまうことに他ならない。この期に及んでもなお難儀なことに出会ってしまわなければならない運命に溜め息を吐きつつ、『もういい、結構だよ』と思うことである。」「力尽きた」あるいは「悟りの境地に達した」と言うべきか?(184-185頁)
I-2  「歳を取るほど裏口や楽屋が見えてしまい、なおさら難儀なものを背負い込んでいく。世間はどんどんグロテスクになっていき」、「だから老人は鬱屈していく。」(186頁)

第7章 役割としての「年寄り」
(8)「老人」は否定的コトバだ!「年寄り」が肯定的コトバだ!「年寄り」は「浮世における配役」を「演じる」(その1)[※①、①-2、①-3、②、③、③-2]!
J  「老人」は老化現象の起きた人間、老衰間近の人間をあらわす否定的コトバだ。それに対し「年寄り」は経験や年輪を重んじる肯定的コトバだ。(189頁)
J-2  「年寄り」は①喧嘩の仲裁ができるひとだ。①-2最後の最後になってやっと腰を上げるその状況判断の適切さ。①-3 人生経験を重ねてきていることに対する万人の敬意。(189-190頁)
J-3  「年寄り」は②年齢相応の自覚がある、つまり③ある種の役割意識がある。(190-191頁)すなわち③-2「年寄り」は「浮世における配役」を演じる。(200頁)「年寄り」は「パフォーマンス」ができる!(202頁)
(8)-2 「老人」は「体力や能力の劣化した『だけ』の存在」だ [※(a)(b)(c)(d)(e)(f)(g)]!
J-4  これに対し「老人」は(a)弱者or(b)厄介者にすぎない。(190頁)
J-4-2  「老人」は(c)「体力や能力の劣化した『だけ』の存在」、(d)「老人」には「居場所がない」、「役割がない」、「ポジションがない」。(210頁)
J-4-3 「老人」には(e)「年寄りであることを受け入れるにたる価値観」が世間与えられていない。 (f)老人であるという「無力感」・「孤立感」。(g)「年を重ねたと言う事実を劣化といった文脈でしか認識しない世間」に対する「恨み」。(211頁)
(8)-3 「年寄り」は「浮世における配役」を「演じる」(その2)[※④、⑤、⑥]!
J-5 「年寄り」は④「世間を生き抜く知恵」を持ち、「狡さや図々しさ」をたっぷり持ち合わせている。(199頁)
J-6  「年寄り」は⑤「人の心におおらかなものをもたらす」。Ex. 昭和30年代の「近所の煙草屋のじいさん」。通行人を眺め、道を尋ねる人に場所を教えてあげる、また「よろずや」的に色々売っていた。(202-205頁)
J-6-2  「年寄り」は⑥「おっとり」とした立場の人間として存在する。Ex. 春日武彦氏の子供時代、「祖母」は「さっさと歩け」と怒ったりせず、「ボーっとなってものを眺める私を鷹揚に「ただ見守って」くれた。(205-207頁)

第8章 老いを受け入れる
(9)「自分らしい年寄りを『演じて』みせることで配役を全うする体験」を楽しめればベストだ!
K 「アンチ・エイジング」つまり「老いがコントロール可能」と考えるのは「幻想」だ。(215頁)
K-2  「昔はあんなに輝いていた」芸能人が歳をとりすっかり老残をさらすのを見ると、「ざまあ見ろ」と「卑しい心性」を丸出しにするのは気分がよろしい。(218頁)
K-2-2  「とにかく見苦しい」年老いた芸能人の例:(ア)「かつての栄光にすがりつく」、(イ)「居直って説教じみたことを言う」、(ウ)「文化人気取り」になる。(218頁)
K-2 -3 「あるべき」年老いた芸能人の例:(A)「演技派」に移行する、(B)「素敵かつ独自な高年」になる、(C)「消息不明」になる。(218頁) 
L 春日武彦氏は「自分らしい年寄りを『演じて』みせることで配役を全うする体験」を楽しめればベストだと言う。[※第7章①、①-2、①-3、②、③、③-2、④、⑤、⑥]!(212頁)
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春日武彦(1951-)『老いへの不安 歳を取りそこねる人たち』(2011、60歳)(その1):「アンチエイジング的なもの」には苦々しい気分になる!「老い」を引き受けずに済まそうとしている!

2023-05-18 15:09:01 | 日記
※「頁」は中央公論新社・中公文庫(2019)による。
序章 初老期と不安
(1)男性の観点からすると、老人は青年や中年(※壮年)の劣化バージョンだ!本書は(※男性の)「老いのダークサイド版の見本帳」である!
A 「不老不死」のうち「不死」を望むことは出来ない。「不老」については「老いの否定」(アンチエイジング)がエスカレートしつつある。「若く見える→若々しい→エネルギッシュで充実した人生」といった「強迫的な執着」がある。(10頁)
A-2 「老いること」にはネガティブな側面がある。(※著者は男性なので、男性の観点からの指摘!)①健康弱者になる、②金銭面の弱者になりうる(※年金が少ない)、③ 世間から置き去りにされかねない不安、④必要不可欠な人物という立場からの退場の寂しさ、⑤(老人であるため)敬して遠ざけられるもどかしさ、⑥(※総体として)切実な無力感、⑦核家族化により、老人なりの役割分担がない。(14頁)
A-2-2  かくて老人は青年や中年(※壮年)の劣化バージョンとされる。(15頁)
《感想》春日武彦氏のこの著作は、「男性の観点」からの老人論である。「女性の観点」からの老人論が別に論じられる必要がある。
B  この著作は、①老人に関する「地に足のつかぬ理想論」や、「溌溂老人を目指そう」的なことは述べない。またその反対に②「脱力の勧め」を説くつもりもない。それは「小賢しげ」で嫌だ。春日武彦氏はそのように言う。(19頁)
B-2  この著作は③「老い」に関する「げんなりする」ようなことばかりに目を向ける。本書は(※男性の)「老いのダークサイド版の見本帳」である。(19-21頁)

第1章 孤独な人
(2)欲がなく廃村に独り住む老人!元噺家の菊蔵はもう友だちが要らない&世間におもねらない!   
C  春日武彦氏(60)は「孤独であっても、淡々と、あるいはふてぶてしく生きていく老人たち(※男性)」に興味をもつ。(49頁)
C-2  塩野米松(1947-)「天から石が」(1998、51歳)は廃村に独り住む老人(男)を描く。この老人が「いいな」と春日武彦氏は言う。老人は78歳。妻は4年前に癌で死んだ。娘は遠くに嫁に行った。裏庭に菜園があり、仕事は炭焼きだ。(27-36頁)《感想》何かあれば役場が様々の便宜を図ってくれるだろう。病気で寝込んだら独り死ぬだろうが、それは「意識」をもたぬ、もとの普通の自然(宇宙)へ戻ることだ。
C-2-2 この炭焼きの老人は①欲がない、②愛想は乏しいが悪意はない、③先入観にとらわれない、④裏表がない、⑤寛容さがある、⑥「自分の始末はすべて自分でつけられる」&「他人に頼らずに生きていける」(※ただし元気である間!)、⑦つまらぬ自己主張はしない、⑧誠実だ。⑨強い人だ。(37頁)
C-3  富岡多恵子(1935-2023)「立切れ」(1977、42歳)には、菊蔵という70歳過ぎの男性が描かれる。彼は生活保護を受けながら安アパートで独り暮らしをしている。元噺家で真打ちだった。いま菊蔵はもう「友だちが要らない」という。彼は「世間におもねらない」。(43-45頁)

第2章 鼻白む出来事
(3)「鷹揚で年輪に見合った知恵」とさらには「落ち着きと諦観とを兼ね備えた風格」とを「老人」に期待する!   
D 春日武彦氏(60)は「老人のあるべき姿」があり、それに反すると「鼻白む」ことなる。①「品のある老人」であるべきだ。Ex.  パン屋でトレイから自分が落としたパンを、棚に平然と戻す老人などとんでもない。(53頁)②「決めつけてくる」老人、「自分の思い込みだけを一方的に繰り返し、対話が成立しない」ような老人はだめだ。(58頁)③「怠け者のニートの若者たちが、そんな資格もないのに図々しく座席に座って、まっとうな老人の自分たちに席を譲らないのは許せない」と怒る老人も嫌なやつだ。(61頁)④「偏屈で意地悪で寂しい老人」にはなりたくない。(74-75頁)
D-2  春日武彦氏(60)は、「鷹揚で年輪に見合った知恵」と、さらには「落ち着きと諦観とを兼ね備えた風格」とを、「老人」に期待する。(73頁)
《感想》春日武彦氏が「老人」というのはだいたい70歳代後半、いわゆる「後期高齢者」だ。

第3章 老いと勘違い
(4)「老いの勘違い」!「時代が違う」し、「セクハラ」・「パワハラ」にあたる!
E 中原文夫(1949-)「本郷壱岐坂の家」(『けだもの』2009所収)を、春日武彦氏(60)は引用する。これは89歳の老人(藤堂哲太郎)が自分の会社の会長職に在り、20歳そこそこの女子社員(高田涼子)を「昔、好意を持った娘」と似ているからと会長秘書にする話だ。寄席・高級レストラン・料亭に誘う。女子社員は断れば会長の不興・不利益を被るので、断れない。(77-85頁)
E-2  女子社員は、これは会長の「セクハラ」であり、公私の区別なく「使用人」のように扱われていると思いつめ、ついに会社に放火した。ところが老人の会長は「トップが従業員をかわいがって何が悪い!」と言うだけだ。息子である社長は「もう時代が違うんだ」と言っても、89歳の会長(父親)にはわからない。(85-90頁)
《感想》これは「老いの勘違い」だ。「時代が違う」し、「セクハラ」・「パワハラ」だ。
(4)-2「アンチエイジング的なもの」には苦々しい気分になる!「老い」を引き受けずに済まそうとしている!
F  春日武彦氏(60)は「老いを受け入れよ」と主張する。「同年代の他人が若さに執着していたなら・・・・苦々しい気分になる」。また「笑顔と軽々しさと空(カラ)元気とが混ざり合った」ような「アンチエイジング的なもの」は、「人生における難儀なもの」つまり「老い」を引き受けずに済まそうとしているのだ。(97頁)
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ブレイディみかこ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』:イギリスは多人種・多民族の「社会」だ!また「カネのある者」の地区と「カネのない者」の地区への分断!

2023-05-17 12:45:19 | 日記
※ブレイディみかこ(1965-)『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(2019、54歳)
(1)
イギリスに住むブレイディみかこ氏。彼女の中学生(7年生)の息子を中心とするノンフィクション的な話。母親は日本人(イエロー)、父親は白人(ホワイト、アイルランド人)。息子の通う中学校は、「元底辺中学校」(地域にミドルクラスが流入してきて、また校長が進学校にしたいとの方針により学校のランクがあがった)で親の多くが白人だ。(ただし「貧しい白人」と「豊かな白人」に分断されている。)カトリックの進学校的小学校・中学校は多人種だ。(半分が)「イエロー」な息子は白人から差別を受ける。
(1)-2
息子はカトリックの小学校に通っていたが、カトリックの中学校に行かず、地元の「荒れた」元底辺中学校に行く。それを、息子and母親は選択した。
(2)
地区は分断されている。「カネのある者」の地区と「カネのない者」の地区。「カネのない者」の地区出身の中学生がラップで「万国の万引きたちよ、団結せよ」とラップを歌う。《感想1》「万国の労働者、団結せよ」と宣言したコミュニズムは、結局、独裁政治を生み出した。Cf. George Orwell『Animal Farm(動物農場)』(1945)!《感想2》プラトンの「哲人政治」は、「前衛」である「共産党」の独裁国家として歴史的に実現した。(Ex. 旧ソ連、現在の中華人民共和国)恐るべき「哲人政治」!
(3)
金のない家出身の同級生を「貧乏人」と差別する金持ちの中学生。他方で、その金持ちの中学生が「ファッキン・ハンキー」(※東欧の臭い移民野郎)と差別される。《感想》多人種or他民族のイギリス社会では、貧富の差別と民族差別が混在する。
(4)
「エンパシー」は、異なる意見の者の立場を理解するor理解しようとする「能力」。これに対し「シンパシー」は困った者への同情など「感情」のことだ。《感想》「エンパシー」とは、言いかえれば「異なる意見の者の立場を理解する」能力だ。つまり「寛容」であることだ。だが今の「非寛容」な日本!
(4)-2
イギリスでは「善意」が多くの人々に共有されているように思える。Ex. ホームレスへの支援。《感想》①誰でも「ホームレス」になる可能性がありうるとの認識が英国では人々に相当程度、共有されている。日本ではホームレスは「落伍者」「怠け者」「劣等者」とみなされるのが普通だ。(もちろんイギリスでもそう思う者は多い。)②日本は「慈善」(チャリティ)の伝統がない。ただし「炊き出し」の伝統はある。
(5)
イギリスは多人種・多民族の「国」or「社会」だ。《感想》①英語による相互のコミュニケーションが可能であることが「社会」(or「国」)の成立の重要な基礎だと言える。同時に②人々が相互に「人間」であると認め合えるということが「社会」(or「国」)の成立を可能とする。
(6)
イギリスは階級社会だ。カネのない者たちの「公立校」、カネ持ちの「私立校」。《感想1》日本も階級社会になりつつある。「カネ持ち」の成功者あるいはまた東大等卒業者等が、「カネのない者」を公然と「貧乏人」「怠け者」とさげすみ誹謗中傷する。《感想2》日本では「下層上等!下品上等!」と、「カネのない者」が公然と発言することはまずない。
(7)
2010年保守党政権の悪名高き「緊縮財政」政策。(サッチャーの時よりひどい!)食事を食べられない子、制服が古くなり擦り切れた子などを救うのに、教員が自分のカネをだして助ける。あるいは古い制服の修繕・再利用のため、ボランティア作業を組織する。
(7)-2
援助を受ける「貧しい子」にもプライドがあり、彼らを「貧乏」「貧しい」とみんなの前にさらしてはいけない。
(8)
民族に対する差別語:①「チンク」「チンキー」東洋人(Cf. Chinese)。②「パキ」パキスタン人、さらにインド、バングラデシュなど南アジア諸国出身の人々。彼らと外見が似ている中東の人々も指す。③「ニーハオ」中国人への侮蔑。
(9)
女性器切除(FGM)はアフリカ、中東、アジアの一部の国で行われている慣習だ。中学校に転入してきたアフリカ出身の少女は「夏休みにアフリカに帰省してFGMを受けるかもしれない」と思われている。
(10)
「日本経済をバカにしとる!いまは何でも英語と中国語。それさえ喋れたらあとはいらんと思っとう。」日本語を喋れず英語のみ喋る「息子」を育てた母親(ブレイディみかこ)に対し、飲み屋(福岡)にいた管理職の酔客が偉そうに非難する。《感想》偏狭で傲慢なナショナリズム。上から目線の説教調。救われるのは、その管理職の部下たちも、飲み屋の主人も、困った酔客だと思っていることだ。
(11)
息子は体外受精で、母親(ブレイディみかこ)が40歳代の時に生まれた。その事実を息子が小学生高学年の時に告げると、息子は「クールだ。うちの家庭も本物だ(オーセンティック)と思っちゃった」と言った。その理由は「いろいろあるのが当たり前だから」とのこと。《感想》よくできた息子だ!家庭の形態も様々、民族or人種も様々、経済状態も様々、イギリスは「多様性」の国だ。
(12)
ミドルクラスの里親(フォスター・ファミリー)に引き取ってもらい、幸せに育つ里子の女の子!彼女は「下層」階級に属し、父親はDVで母親にひどい怪我をさせる。二人目の父親もDVで母親の連れ子であるその女の子にも暴力をふるい、女の子は施設に保護された。その後、彼女は里子として引き取られた。
(13)
ポリティカル・コレクトネス(PC)の時代には、すでに古めかしくなった差別的言動:〈例1〉ダンスの得意でない黒人の女の子を「ダンスが下手なジャングルのモンキー」と嘲笑すること。〈例2〉母親が日本人で父親が白人であるブレイディみかこの息子について「スリティー・アイズ(吊り上がった目)の母親を持つ半東洋人」と呼ぶこと。
(14)
①息子が「元底辺中学校」に入学して2年目、8年生になった時、中国人が生徒会長になった。これは白人が多い「元底辺中学校」ではすごい出来事だ。②労働者(倉庫・工場・建設現場など)は黄色いベストを着るので、玄関などに黄色いベストが吊るしてあれば、それは労働者の家だ。
(15)
「カトリックの中学校」は公立校でも進学校だ。「元底辺中学校」(公立校)は地元の「荒れている」中学校だ。《感想1》進学校(カトリックの中学校)を選ばないブレイディみかこ氏の「自信」!(小学校はカトリック校だったので)息子はカトリック校に行けるのに、「勢いがある」(生きていく情熱にあふれている)からと息子(子供)を地元の「荒れている」中学校に行かせるとは、生活に苦労しているまわりの下層階級の親からは、「子供の将来を考えないとんでもない選択だ」と思われている。(※評者もそう思う。子供を世の中で成功させるには「孟母三遷」が普通だ。)ブレイディみかこ氏(&その「息子」)は自分を暗黙のうちに「優秀」と思っているのだろう。「優秀」でないor「平凡」と思っている者は、ブレイディみかこ氏のような選択はできない。《感想2》しかし人生1回限り!「やりたいことをやる」のは素晴しい!ブレイディみかこ氏&「息子」にエールを送りたいとも思う。だが「息子」は失敗を覚悟しなければならない。(老人になって、そのような類の選択をして「失敗」したと思うこともありうる。「優秀」でないor「平凡」な者はそうなる可能性が高い。)
(16)
「緑の党」の支持者は「意識高い」系だ。そして「環境問題デモ」に行ける生徒たちは「リッチ・キッズ」、「グッド・キッズ」!「プアでガラの悪いガキ」、「アホで手の付けられないガキ」はデモに参加できない。(中学校がデモ参加を禁止する。)
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清水克行『室町は今日もハードボイルド』第4部第16話「合理主義のはなし」:補陀落渡海・湯起請・鉄火起請は信仰心の退潮による!信仰と呪術の「中世」&合理主義と人間中心主義の「近世」!

2023-05-14 16:08:54 | 日記
※清水克行『室町は今日もハードボイルド、日本中世のアナーキーな世界』2021年:第4部「過激に信じる中世人」(「信仰」)
第4部第16話「合理主義のはなし、神々のたそがれ」
(1)観音菩薩の浄土である補陀落山(フダラクセン)をめざす補陀落渡海!
(a)1195年、下野国那須野で源頼朝が御家人を動員し大規模な巻狩りを挙行した。この時、鹿を射損じた下河辺行秀はそれを恥じ、人々の前から姿を消した。彼は人知れず出家遁世し熊野に籠り仏道三昧の日々を送った。約40年後、1233年、彼はかつて旧知の仲であった執権・北条泰時に手紙を送った。「私はあの日をさかいに、この世のすべてが空しく感じられるようになってしまったのです。」そして彼は今や、観音菩薩の浄土である補陀落山(フダラクセン)をめざす補陀落渡海を敢行する決意を述べた。(この出帆は事実上の自殺行為であった。)(231-234頁)
(a)-2 北条泰時を驚嘆させた下河辺行秀の生真面目な生き方は、「信仰に生きる中世人」の典型のように思える。(234頁)
(1)-2 補陀落渡海は中世末期つまり戦国時代、さらに近世初期に顕著に見られるものだった!
(b)だが中世人が補陀落渡海を年がら年中、誰もがやっていたわけでない。補陀落渡海は868年を初見として、最後は1909年、計57回だ。つまり9世紀から15世紀まで、補陀落渡海は50年に1件程度だ。(234-5頁)
(b)-2 補陀落渡海が爆発的に急増するのは16世紀前半4件、16世紀後半11件、17世紀前半15件である。だが17世紀後半には急減し、19世紀にほぼ消滅した。(235頁)
(b)-2-2 要するに補陀落渡海は中世末期つまり戦国時代(16世紀前半4件、16世紀後半11件)、さらに近世初期(17世紀前半15件)に顕著に見られるものだった。「宗教心の篤かった時代」である中世に補陀落渡海が盛んだったわけでない。(235頁)

(2)訴訟で負けそうな側に限って「湯起請」は提案された:「裁判が9分以上不利なら、湯起請に持ち込んで5分の確率で火傷しなければ、起死回生となる」という「ずる賢い」計算が働いていた!   
(c)室町時代に流行した裁判に「湯起請」(ユギショウ)(熱湯裁判)がある。これは熱湯のなかに手を入れて火傷のぐあいによって神の意志を尋ね、善悪や罪の有無を決める行為だ。(236頁)Cf.  資料の上で「湯起請」が確認されるのは1400-1570年だ。(240頁)
(c)-2 だが実は、当時の湯起請(全90例)で火傷する確率はほぼ5分5分だった。訴訟で負け(or有罪)そうな側に限って湯起請が提案された。「裁判が9分以上不利なら、湯起請に持ち込んで5分の確率で火傷しなければ、起死回生のチャンスとなる。」そこには「ずる賢い」計算が働いていた。(238頁)
(c)-3 室町時代は「迷信」が人々を支配していた時代ではなく、少しずつ人々のあいだに「合理的な思想」が拡がってゆき、人々の「信仰心」が揺らぎはじめていた時代だった。(238頁)
(c)-4 「湯起請」は原始の時代から連綿と続いてきたものではなく、室町時代(15世紀)になって、突如流行を見せた現象だった。「湯起請」が確認されるのは1400-1570年だ。(240頁)
《感想》古代日本には「盟神探湯」(クガタチ)があった。神に潔白を誓わせた後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、潔白なら火傷せず、罪があれば大火傷を負うとされた。(「湯起請」に相当する。)日本書紀によれば応神・允恭・継体天皇のとき(4-6世紀)に盟神探湯がなされた。しかしそれ以後、900年の空白期間。そして室町時代に突然、「湯起請」がなされるようになる。「湯起請」は原始の時代から連綿と続いてきたものではない。

(3)神仏への懐疑がさらに高まると「湯起請」は姿を消し、戦国~江戸初期には「鉄火起請」という裁判が姿を現す!「湯起請」「鉄火起請」「補陀落渡海」:信仰心の退潮によって生み出された反動的な現象!   
(d)人々の神仏への懐疑がさらに高まってくると、湯起請は姿を消し、かわって戦国~江戸初期(16世紀後半~17世紀前半)にはもっとエキセントリックな「鉄火起請」(テッカギショウ)という裁判が姿を現す。これは焼けた鉄の棒を握って火傷のぐあいを調べる。鉄火起請が確認されるのは1550-1660年だ。ただし江戸時代の社会が落ち着くと、鉄火起請も姿を消す。(239-240頁)
(e)中世から近世にかけて神仏への不信が拡がりを見せるなかで、それでも神仏を信じたいと願う人々が、より過激な行動に走った結果、生まれたのが「湯起請」であり「鉄火起請」だったと言える。「補陀落渡海」が中世の終わりに急激な大流行を見せるのも、これと軌を一にした現象だ。
(e)-2 一見すると信仰心の高揚を示しているかに見える過激な出来事(補陀落渡海・湯起請・鉄火起請)は、むしろ信仰心の退潮によって生み出された反動的な現象だった。(240-241頁)

(4)信仰と呪術の「中世」&合理主義と人間中心主義の「近世」!中世の「田遊び」から近世の「農書」へ!   
(f)信仰と呪術が「中世」を彩る一つの特徴だ。その後に続く「近世」は合理主義と人間中心主義が開花していく時代だ。(241頁)
(g)「中世」の村人は新年に、「田遊び」と呼ばれる豊作を祈念する芸能を村の鎮守などで行った。田起こし・田植え・刈り取りにいたる農作業が太鼓・歌に合わせ模擬的に演じられた。それは「神仏に豊作を祈る呪術的な意味」を持つとともに、歌詞のなかに稲の品種や収穫までの全工程の情報が盛り込まれ「農業技術の伝承」の役割も担っていた。(241頁)
(g)-2 ところが「近世」に入ると「田遊び」に代わって、農業技術書である「農書」が作られるようになる。識字人口の拡大や出版文化の盛行を背景に、「呪術や祭り」でなく「書物」で知識を習得する時代が到来した。もはや知識や情報の獲得に「神仏」が介在する必要がなくなった。(241-2頁)

(4)-2 中世後期、信仰への懐疑が拡がっていき、既存の宗教勢力が減退していくとともに、キリスト教や一向宗というあらたな信仰が支持を集めた!  
(h)「中世」から「近世」にかけての変化は、これまで見てきたように、「自力救済から平和へ」、「多元性から一元性へ」、さらに「呪術から合理主義へ」と特徴づけられる。(242頁)
(h)-2 ただしそれらの変化は一直線に展開したわけでない。とくに中世の「呪術」から近世の「合理主義」への変化については、中世後期(室町・戦国時代)、人々のあいだに信仰への懐疑が拡がっていくのに逆行して、一時的に強烈な信仰形態が生み出された。(Ex.  補陀落渡海・湯起請・鉄火起請!)(242頁)
(h)-3 また中世後期、信仰への懐疑が拡がっていくと、既存の宗教勢力が減退し、キリスト教や一向宗というあらたな信仰が支持を集めた。(242頁)

(4)-3 神・霊・鬼を人間が演じ、劇(「夢幻能」)として演出するのは、合理的精神によるものだ!     
(i)世阿弥(1363?-1443?)が創始したとされる「夢幻能」(ムゲンンノウ)は、旅人や僧侶のまえに、神や霊がが出現し、土地の伝説や身の上を語るという表現スタイルだ。これは「神仏ともに生きた中世人」の心性を伝えると言われるが、清水克行氏はこれに異論を唱える。(242頁)
(i)-2 古代・中世において、神・霊・鬼は俗人に見ることができないものだった。それは語ることも造形することもできなかった。ところがそれを人間が演じ、劇として演出する(「夢幻能」)というのは、呪術的精神でなく合理的精神によるものだ。(242-3頁)
(i)-2-2 そこには神はいない。神・霊すらも芸能・娯楽へと引き下ろした室町人の精神の所産が「夢幻能」だ。(243頁)

(5)中世ヨーロッパで「キリスト教への不信」が広まった一因は「ペストの大流行」だった!日本中世では「戦争」(「乱」)という「天災」が既存の宗教(神仏)への不信をもたらした!    
(k)ではなぜ室町・戦国時代の人々は「神仏への疑念」を抱いてしまったのか?(243頁)
(k)-2 中世ヨーロッパで「キリスト教への不信」が広まった一因は、ヨーロッパを何度も襲った「ペストの大流行」(※14世紀、1347年から1400年まで3回の大流行と多くの小流行)だった。非情な疫病に教会も聖書も役に立たないと知った時、人々は新たな価値観を模索していった。(243頁)
(k)-3 日本中世の場合、「ペスト」のような大規模なパンデミックはなかったが、それに代わる悲劇として、激化する「戦乱」の存在が大きかった。(Cf. 「戦国時代」:1467年応仁の乱から1590年小田原・北条氏の滅亡まで。)(243頁)
(k)-3-2 当時の庶民にとって「戦争」(合戦・紛争)の発生は「乱が行く」と表現され、不意に脈絡なく人々の生活を破壊する理不尽な「天災」と捉えられていた。(244頁)
(k)-3-3 そうした中で、「戦争」(「乱」)という「天災」から既存の宗教(神仏)が必ずしも人々を救済しないと気づく。ある者はよりエキセントリックな方向に信仰心を深めるが、ある者は信仰を疑いより合理的な思考を深めていった。これが中世の終わり(室町・戦国時代)に訪れた人々の「信仰心の退潮」の原因であろう。(245頁) 
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