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出村和彦『アウグスティヌス』第4章(その1):『告白』は懺悔録ではなく、神に対する賛美録である!「永遠なる神へと向かう道」は「自力」で達成されない、「神から賜る恩恵」である!

2022-11-17 12:15:40 | 日記
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第4章「一致を求めて」(その1)
(20)「愛の教師」アウグスティヌス:「神」への愛と「隣人」への愛!
(a)396年(42歳)、司教となったアウグスティヌスは『キリスト教の教え』全4巻を執筆し始める。(3巻の途中で中断し完成は426年・72歳。)(90頁)
(a)-2 この中でアウグスティヌスは「愛の掟」について述べる。聖書では「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第1の掟である。「隣人を自分のように愛しなさい」。これが第2の掟である。(92頁)
(a)-3 「神と隣人に対するふたつの愛をたてるところまでいかないとしたら、その人はまだ聖書を理解したとは言えない」とアウグスティヌスは述べる。彼は「愛の教師」である。(93頁)

(21)アウグスティヌス『告白』全13巻(400年・46歳):懺悔録ではなく、神に対する賛美録である!
(b)司教として説教を始めた43歳(397年)、アウグスティヌスは『告白』の執筆に着手する。(93頁)
(b)-2 『告白』は懺悔録ではなく、神に対する賛美録である。アウグスティヌスにとって「告白」とは、弱い自分に示された神からの無償のあわれみとゆるしに感謝し、そのような恵みをもたらす神の偉大さを賛美することである。『告白』第1巻は「偉大なるかな、あなたは、主よ、ほんとうに賛(ホ)むべきお方です」と始められている。(94頁)
(b)-3 アウグスティヌスは、自分の心の出来事が決して単なる個人的で特異なエピソードにとどまるものでなく、ほんとうの幸福の源泉を求める人間に対して普遍的に通じるものだと考えている。(94-95頁)

(21)-2 『告白』の構成:第1部は「過去」、第2部は司教としての「現在」、第3部は人類の一員としての「未来」(将来)の安息という結末が描かれる!
(c) 『告白』は、第1部(第1巻から第9巻)、第2部(第10巻)、第3部(第11巻から第13巻)という明確な3部構成を持っている。(95頁)
(c)-2 第1部は自分の誕生から母モニカの死までの「過去」の出来事を描く。第2部は司教としての「現在」の心のありようを描く。第3部は『創世記』第1章の解釈・人類の一員としての「未来」(将来)の安息という結末が描かれる。(95-96頁)

(21)-3 『告白』(第2部)第10巻:「疑うことなく確信をもって神を愛している」!
(d) アウグスティヌスは、『告白』(第2部)第10巻では、かつての彷徨から脱して、行きつくべき終着点を彼方にしっかりと信じ、「疑うことなく確信をもって神を愛している」姿を読者の前に差し出している。(97頁)
(d)-2 そして心と身体の不調和(Ex. 「目の欲、肉の欲、世間的野心」)という思い通りにならない弱さに直面しても、絶望や迷いに身を任すことなく、私たちを「心」に立ち戻らせてくれる神の計らいに信頼を置けば立ち直れると述べる。(97-98頁)

(21)-4 『告白』(第2部)第10巻(続):「私」(エゴ)とは「考える」(コギト)ことであり、それは「ちぢに乱れる私の思い」という形でしか現れない!「慎み」(コンティネンティア)によって中心としての「心」へ立ち戻っていく!これが「永遠なる神へと向かう道」である!
(e)このように神を愛している自分はいったい何者であるか。『告白』(第2部)第10巻では、記憶と意識と意志からなる人間の精神(アニムス)の構造に光が当てられる。(98頁)
(e)-2 アウグスティヌスにおいて、「私」(エゴ)とは、「精神の働き」であり、「考える」(コギト)ことである。そして個々の行動をする際の自分の意識や意志は、記憶(メモリア)にとどめられる。(98頁)
(e)-3 デカルト(1596-1650)は思考をする私(自我)の精神の存在の確実性から「考えるもの」という実体を打ち立てた。(98-99頁)
(e)-4 これに対してアウグスティヌスは、「考える」(コギト)というラテン語を「集める」という原義から解釈して、「思考」を「集中と分散との対の動きのなかにあるもの」と位置づける。それゆえアウグスティヌスにおいては自我や自己意識は「確固とした実体」というより「ちぢに乱れる私の思い」(Ex. 目の欲、肉の欲、世間的野心を身に帯びている自我 )という形でしか現れない。(99頁)
(e)-5 『告白』を書くアウグスティヌスは、「慎み」(コンティネンティア)によって自己の内奥に存在する中心としての「心」へ立ち戻っていく。これが「永遠なる神へと向かう道」である。だがそれは「自力」で達成されるのでなく、「神から賜る恩恵」として切に祈り求められるものであった。(99頁)
(e)-5-2 「あなた(※神)は慎みをお命じになる。もし神がその賜物をくださらないなら誰も慎みを保ちえない・・・・・・私たちが《そこから他へと分散していたもとの一なるもの》へ集められ引きもどされるのは慎みによるのです。」(『告白』第10巻29章)
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