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出村和彦『アウグスティヌス』第5章(その3):『神の国』(426年)「ローマ劫掠」等災難の原因は帝国のキリスト教化だとの非難への対処!「神の国」(天的な共同体)と「地の国」(地的な共同体)!

2022-11-23 22:11:17 | 日記
※出村和彦(デムラカズヒコ)(1956-)『アウグスティヌス 「心」の哲学者』岩波新書(2017、61歳)

第5章「古代の黄昏」(その3)
(26)『神の国』(426年・72歳、全22巻完成):410年(アウグスティヌス56歳)、西ゴート族による「ローマ劫掠」(ゴウリャク)のような災難の原因は帝国のキリスト教化にあるとの非難への対処として執筆開始!
(j)400年(46歳)から、アウグスティヌスは『三位一体』の執筆に着手した。(全15巻が完成するのは419年・65歳。)ところが410年(56歳)西ゴート族による「ローマ劫掠」(ゴウリャク)が起こると、このような災難をもたらした原因は「帝国のキリスト教化」にあるとの非難の声が上がった(Cf. 392年、キリスト教の国教化)。勢いを増すローマの伝統的宗教の異教徒たちへの対処として、アウグスティヌスは『神の国』の執筆に着手した。(142頁)
(j)-2 キリスト教は果たして「尚武実直な気質」や「法と正義」を重視するローマ帝国の伝統的秩序の代案となるのか、それともそれらを変質させ、無秩序のうちに弱体化させてしまうのか?アウグスティヌスたちには、問題をローマの「伝統的秩序」や「有徳な善き生き方」の根拠までさかのぼって吟味することが求められた。(『神の国』1-3巻は413年公刊。)(143頁)

(26)-2 『神の国』(426年)(前半)(417年頃仕上がる)第1-10巻:「伝統的な多神教(異教)の神々」も必ずしもローマを災難から守ったわけではない!「繁栄に多くの神々が必要だ」という異教徒の論は誤りだ!
(j)-3 『神の国』全22巻の前半、第1-10巻では、アウグスティヌスは異教徒の思想家の主張に反論を加える。キケロ(前106-前43)、ウェルギリウス(前70-前19)、ウァロ(前116-前27)、リウィウス(前59-後17)、サルスティウス(前86-前34)などの史書に基づき、アウグスティヌスは「伝統的な多神教(異教)の神々」も必ずしもローマを災難から守ったわけではないことを示し、「繁栄に多くの神々が必要だ」という異教徒の論を反駁する。(第1-5巻)(143-144頁)
(j)-4 そしてアウグスティヌスは、「異教の祭儀は宇宙霊魂に基礎を置く」というウァロの神学(第6-7巻)やアプレイウス(127-170年)の『ソクラテスの神』を取り上げて、「ダエモン(神霊)を礼拝するのはほんとうの救いにはならない」と批判する(第8-9巻)。(144頁)
(j)-5 また第10巻では、新プラトン主義者ポルフュリオス(234-305)による「霊魂の自力救済論」を批判して、異教によって死後の霊魂も護られる必要があるとの主張を反駁する。(144頁)

(k)なおアウグスティヌスは第8巻でプラトン哲学がキリスト教に親近感を持っていると指摘する。プラトンは「神を愛する者こそが知恵を愛する者(哲学者)である」と主張した。アウグスティヌスは「プラトンは聖書を知っていたのではないか、と考えたくなる」とまで言っている。(145頁)
(k)-2 またウァロは神学を「市民国家的神学」(伝統的な公共祭儀にかかわる)、「神話的神学」(ギリシア・ローマ神話など)、「自然的神学」(「哲学者たちの神学」)の三つに分けるが、アウグスティヌスは「哲学者たちの神学」を中心的に取り上げている。(144-145頁)

(26)-3 『神の国』(426年)(後半)第11-22巻:ここで言う「国」は「市民の共同体」(シチズンによって構成されるシティ)を意味する!「国」とは「共同体」のことである!人間のこの世での歩みは、心の志向である「愛」(※共同性)のあり方に応じて集団を形成する歴史である!
(l)『神の国』(後半)第11-22巻の構成は、「天的な神の国」の起源(第11-14巻)、その経過(第15-18巻)、その終局(第19-22巻)の考察からなる。(145頁)
(m)この著作の題名は、日本では『神の国』あるいは『神国論』で定着している。しかしアウグスティヌスが考察する「神の国」とは、(ア)神が王のように支配する「王国」のようなものでないし、(イ)人々が死後に行く「天国」でもない。ここで言う「国」は(ウ)「シチズン(市民)によって構成されるシティ」、「市民の共同体」を意味する。(146頁)
(m)-2 実際、『神の国』の英語での題名は「The City of God」(神のシティ)である。(146頁)
(m)-3 アウグスティヌスによれば(天地創造以来の)人間のこの世での歩みは、一人ひとりの心の志向である「愛」(※共同性)のあり方に応じて集団を形成する歴史である。(146頁)
(m)-3-2 例えばローマ帝国の基になったローマの共和制(レス・プブリカ)は、理念的には「ローマの人民(ポプルス)と元老院」の合体した体制である。(146頁)
(m)-3-3 アウグスティヌスによれば、「国(※共同体)とは何らかの社会的な紐帯(チュウタイ)で結ばれた人間の集団」である(第15巻8章)。そして社会的紐帯とは「法的合意」と「利益の共有」である(第19巻21章)。(147頁)

(26)-4 『神の国』(426年)(後半)第11-22巻(続):「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)と「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)!
(n) アウグスティヌスから見ると、人間は「愛」(※共同性)のあり方に応じて「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)と「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)という2種類の集団を形成する。(147頁)
(n)-2 「二つの愛(※共同性)が二つの国(※共同体)を造った。すなわち、神を軽蔑するにいたる自己愛が地的な国(※共同体)を造り、他方、自分を軽蔑するにいたる神への愛が天的な国(※共同体)を造ったのである」(第14巻28章)。(147頁)
(n)-3 この「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)と「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)との対立は、「高慢」と「謙虚」との対立である。すなわち高ぶって「自分が神のように他を支配するという転倒した意志」を持ったあり方と、「正しい愛(※共同性)の秩序において神を享受し隣人を愛するあり方」との対立である。(147頁)
(n)-4 ただし二つの国は、つまり「地の国」(※地的な共同体)と「神の国」(※天的な共同体)は、この世(サエクルム)において混じり合って存在する。「神の国」が現実の「キリスト教会」そのものでないし、「地の国」が「ローマ帝国」そのものでもない。(147頁) 
(n)-5 現実の権力については、アウグスティヌスは「正義なき王国は大盗賊団以外の何者であろうか」(第4巻4章)と指摘する。だが「共通善に基づく法と正義」を尊び、これを公平に実行するような世俗の政治形態(※地の国)があるとすれば、「神の国の民」(※キリスト教会)はその福利を促進するよう協力するのにやぶさかでないと、アウグスティヌスは言う。(148頁)
《感想》「神の国」(「天的な国」)(※神の共同体)とは「キリスト教会」(キリスト教の共同体)のことである。「地の国」(「地的な国」)(※地の共同体)とは世俗的な諸権力、代表的には「国家」(Ex. 「 ローマ帝国」)である。
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