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金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その5):①「客観的な即自的な無限性」(「生命」or「生きもの」)と②「対自的自覚的な無限性」!

2024-05-26 12:42:33 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
Ⅱ本論(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」(その5)(132-134頁)
(25)-12 ①「客観的な即自的な無限性」(「生命」or「生きもの」)と②「対自的自覚的な無限性」!すなわち①「無限性であるにとどまる」場合と、②「無限性であることを自覚している」場合!
★「生命」の世界はたしかに「無限性」を実現しているが、しかし「ただ無限性である」ことにとどまって、「無限性であることを自覚する」までに至っていない。(132頁)
☆そこに「生命」の立場の限界がある。(132頁)
★かくて「無限性」は、「対象的」には実現されず、「主体的」にのみ実現される。(132頁)

《参考》へーゲルは「無限性」について2通りのもの区別する。すなわち①「無限性であるにとどまる」場合と、②「無限性であることを自覚している」場合だ。即ち①「客観的な即自的な無限性」(普通に「生命」とか「生きもの」とかいわれるもの)と②「対自的自覚的な無限性」だ。(129-130頁)

(25)-12-2 一つの「主体」(「自己意識」)と他の「主体」(「自己意識」)との関係においてのみ、「無限性」は真に成りたちうる!
★かくて問題を「主体」(Cf. 「対象」)の方向に転じて、「『主体』において『無限性』はどうして実現するか」を考える。(133頁)
★ヘーゲルは「一つの『主体』と他の『主体』との関係においてのみ、いいかえると一つの『自己意識』と他の『自己意識』との関係においてのみ、『無限性』は真に成りたちうる」ことを証明しようとする。(133頁)

★まず「欲望」から考えると、「対象」は「無力」のものであるから、「自我」は「対象」を取って食う。だから「自己確信」は「主観的」ではなく「客観的な真理」だ。(133頁)

《参考1 》 (B)「自己意識」の段階でも、「自己」は「他者」(対象)を意識しているが、それは「他者」(対象)にとどまらず、根柢においては「自己」と同じだという確信を持つ。これがヘーゲル『精神現象学』の目次で、(B)「自己意識」:Ⅳ「自己確信の真理性」とあるゆえんだ。(128-129頁)
《参考2 》(B)「自己意識」は、「対象」が単なる「他者」ではなく、「自分自身」(「自己」)であるという「確信」を持つが、この「確信」が単なる「主観的確信」ではなく、「客観的真理性」をそなえることができるようにするのが (B)「自己意識」の段階の目的である。(129頁)

(25)-12-3 「単なる欲望」では「無限性」は本当の意味では実現しない!しかし「自分に対立しているもの」があっても、「相手がほんとうに自分自身から自分を否定してくる」ときには、もはや「自分に対する他者」はないから、「無限性」(「真無限」)が実現される!
★「『欲望』は人間のもつ『無限性』を実現するもの」といいうるが、「単なる欲望」では「無限性」は本当の意味では実現しない。(133頁)
☆なぜかというと、「欲望」はいつも「否定すべき相手」をもち、「一つの欲望が満足すると次の欲望が起こる」というように「欲望はかぎりのないもの」であり、「満足」にはつねに「否定すべき他者(※対象)」が必要だからだ。(133頁)
☆したがって「単なる欲望」の立場には、「悪無限」はあっても、「真無限」は実現されない。(133頁)

《参考》☆ヘーゲルは「無限」について、「真無限」と「悪無限」という二つを考える。(121頁)
☆それからそれへと「無限」に続いて、どこまでいっても「対立」や「他者」が残るのが「悪無限」だ。これに対して、自分に対する「他者」が一つも残らないのが「真無限」だ。(121頁)
☆したがって、根柢に「統一」があって、その「統一」がおのれを分けて二つの「対立」を生じ、また相互転換によって一つに帰るという運動は「真無限」だ。(121頁)

★しかし「自分に対立しているもの」があっても、「相手がほんとうに自分自身から自分を否定してくる」ときには、もはや「自分に対する他者」はないから、「無限性」(「真無限」)が実現される。(133頁)

(25)-12-4 ヘーゲルは「欲望の悪無限」をギリシア神話の「シシュフォスの徒労」にたとえる!
★これに対して「欲望」はつねに「否定すべき他者」を要するから、いつも「相手」が残る。(133頁)
☆この意味で、ヘーゲルは「欲望」をギリシア神話の「シシュフォスの徒労」にたとえる。シシュフォスは石を麓から推し上げ頂上まで持って行こうとするが、頂上の直前で石はガラガラと落ちる。ヘーゲルは「欲望の悪無限」を「シシュフォスの徒労」にたとえる。(133-134頁)
☆「欲望」の「無限性」は、「悪無限」だ。(134頁)

(25)-12-4 「真無限」:「相手が他者でありながら自己を否定」!「自己意識はその満足を他の自己意識においてのみ達成する」(ヘーゲル)!
★「真無限」が実現されるには「相手が他者でありながら自己を否定」してくれなければならない。(134頁)
☆この意味で、ヘーゲルは「自己意識は他の自己意識との関係においてのみ満足をみいだす」と言っている。(134頁)
☆「自己意識はその満足を他の自己意識においてのみ達成する」(ヘーゲル)。(134頁)

★「悟性段階」の終わりにおいて到達した「無限性」の立場も、じつは「人倫的生活」の体験からするものであって、「自然科学的立場」からするものではない。(134頁)

《参考1 》金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』Ⅱ「本論」:目次。
(一)「意識(対象意識)」1「感覚」、2「知覚」イ「物」ロ「錯覚」ハ「制約せられない普遍性(内なるもの)」、3「悟性」イ「力」ロ「超感覚的世界あるいは法則」ハ「無限性」
(二)「自己意識」1「生命あるいは欲望」2「主と奴」3「自由」
(三)「理性」1「観察」2「行為」3「社会」
(四)「精神の史的叙述」

《参考2》「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない!「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ!ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」と名づける!「実在」の「無限性」(「無限の運動」)こそが「真理」だ!
☆「無限の運動」(「無限性」)が「真理」として成り立つことを示す「説明」は、「思惟の主観的な運動」にすぎないのではない。(120頁)
☆「悟性」とは、対象を「感覚」・「知覚」する運動ではないにしても、「対象」の「内なるもの」を思惟するものだから、(「悟性」による)「説明」は「主観的にすぎぬもの」ではなく、むしろ「『客観そのもの』、『実在そのもの』の運動」だ。(120頁)
☆「実在そのもの」は根柢に「統一」があって、この「統一」が両分して「対立」が起こり、またその「対立」が「統一」にむかうという「運動」を行っている。ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」と名づける。(120-121頁)

《参考3》なおヘーゲルは「説明」を通じてえた「無限性」(「真無限」)の見地、すなわち①「説明」(「無限性」という「真理」)は「思惟の主観的な運動」ではない、②「説明」はむしろ「客観そのもの、実在そのものの運動」だ、③ヘーゲルはこの「運動」を「無限性」(「真無限」)と名づける、④「実在」の「無限性」(「真無限」としての「無限の運動」)こそが「真理」だとの見地から、ヘーゲルは「シェリングにおける『対極性一致の原理』」を解釈する。(120-121頁)

《参考4》(B)「自己意識」(Cf. (A)「意識or対象意識」)の段階で基本的に重要な意義をもってくるのは「無限性」の概念だ。(128頁)
☆(B)「自己意識」の段階は、(A)「意識(対象意識)」のⅢ「悟性」の段階の終わりでえられた「無限性」の概念を展開していくものにほかならない。(128頁)
☆この「無限性」の立場では「自己が『対象』を意識する」ことは、じつは「自己が『自己』を意識する」ことだということになる。(128頁)
☆だから「自我は自我である」ことが(B)「自己意識」の段階の原理である。(128頁)
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