※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3)
(7)「絶対知の哲学」が出現すべき時代がやってきている!
★「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」のだ、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)
☆ヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。
《参考》ナポレオン戦争(1796-1815):フランス革命を外国の干渉から守る「革命防衛戦争」として始まるが、しだいに「革命の理念の拡大」の戦争、一面では「侵略戦争」へと変質。1812年のモスクワ遠征失敗を境にナポレオンの「帝国防衛戦争」に転化。ヨーロッパの「封建体制」を崩壊させ「市民社会」を拡張したが、周辺諸民族を抑圧した。軍事史的には「傭兵」による絶対王政期の軍隊から、「徴兵制」に基づく「国民軍」を主体とする戦争への転換をもたらした。
☆ナポレオン(1769-1821)の軍事行動はフランス革命末期の「総裁政府」のもとで、オーストリアとイギリスの干渉から「革命を防衛するための戦争」をナポレオンが指揮するところから始まる。ナポレオンは1796年、26歳で「イタリア遠征(第1次、1796-97)軍司令官」に任命され、オーストリアに勝利し、第1回対仏大同盟を終わらせた。
・さらにイギリスのインド支配を妨害するためナポレオンは「エジプト遠征」(1798-99)を行うが、ネルソンの率いるイギリス海軍に敗れる。イギリスは第2回対仏大同盟結成。
・ナポレオンは1799年に「ブリュメール18日のクーデタ」で実権を握り、「統領政府」(1799-1804)の第一統領となる。(ナポレオン30歳、ヘーゲル29歳。)
☆「ヨーロッパ征服の戦争」:権力を握ったナポレオンは、フランスのブルジョワ・農民の支持を背景に「革命の理念を全ヨーロッパに広げる」という大義の下、征服戦争を開始。「イタリア遠征」(第2次、1800)で再びオーストリア軍と戦い勝利。イギリスとは1802年のアミアンの和約で一旦和平を実現した。
・1804年「ナポレオンの皇帝即位」(ナポレオン35歳、ヘーゲル34歳)を受けて第3回対仏大同盟が成立。ナポレオンはイギリス征服をもくろむが「トラファルガー海戦」(1805)でネルソン率いるイギリス海軍に敗れた。
・しかし大陸での戦いは、「アウステルリッツの三帝会戦」(1805)でオーストリア・ロシア連合軍と戦いナポレオンが勝利、「イエナの戦い」(1806)でプロイセン軍と戦い勝利し、ベルリンを占領。(ナポレオン37歳、ヘーゲル36歳)
・ナポレオンは、さらにポーランドに侵攻、ポルトガル征服(1807)、スペイン征服(1808年、スペインの反乱を鎮圧するためナポレオン自ら侵攻)などで勝利を続けた。ただしスペインではゲリラ戦に悩まされて苦戦。
☆ナポレオンの「帝国防衛戦争」:ナポレオン帝国の最大の敵であるイギリスを弱体化するため、ナポレオンは1806年「大陸封鎖令」を出したが、各国の足並みが揃わず、特にロシアがその命令に従わなかった。かくてナポレオンは1812年にロシア遠征に踏み切る。モスクワに入城するが冬将軍に敗れ撤退。
・それをきっかけに「ライプツィヒの戦い」(1813「諸国民戦争」)でヨーロッパ諸国連合軍にナポレオンが敗れる。連合軍がパリに入城し、ナポレオンは1814年、退位した。
・1815年(ナポレオン46歳、ヘーゲル45歳)、ナポレオンはエルバ島を脱出し皇帝に復帰。だが「ワーテルローの戦い」で敗れセントヘレナ島に流された。(ナポレオンの「百日天下」。)
☆ナポレオン戦争の意義:約20年にわたり、全ヨーロッパを巻きこんだナポレオン戦争(1796-1815)は、多大な犠牲を払った「近代への移行」であった。フランス軍は革命中に始まる「徴兵制」によって編制された「国民軍」であり、彼らは「自由と権利」のために戦うとともに「ナショナリズム」にも燃えていた。フランス軍を迎え撃つヨーロッパ各国は敗北によって、封建的な「傭兵」部隊の時代が過ぎ去ったことを痛感させられ、各国とも「国民軍」を創設して「常備軍」の強化に向かった。
Cf. ヘーゲル(1770-1831)の生涯の略年譜③(1807-1831年、37-61歳・死)(46-47頁)
★イエナ大学が閉鎖され、1807-08年(37-38歳)、ヘーゲルはバンベルク市の新聞 Bamberger Zeitung を主宰。へーゲルがこの職を選んだのは、元来政治に興味があったことを示している。
☆1807年(37歳)ヘーゲル『精神現象学』。
★1808-1816年(38-46歳)、ヘーゲルはニュールンベルクのギムナジウム校長をつとめる。
☆1812-16年(42-46歳)ヘーゲル『大論理学』第1巻・第2巻
★1816-1818年(46-48歳)へゲルはハイデルベルク大学教授をつとめる。
☆1817年(47歳)『エンチュクロペディー』初版。
★1818-1831年(48-61歳)ヘーゲルはベルリン大学教授をつとめる。(47頁)
☆1821年(51歳)ヘーゲル『法哲学』。
☆1831年(61歳・死)英国選挙法改正の論文。(1830年フランスに7月革命があって、この波がドイツへも押し寄せてくる。こういう政治情勢に対して、ヘーゲルが態度を決しようとした論文。)
(8)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)
★(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代!(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63-64頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。
☆これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。
「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)
★『精神現象学』の本文でヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代」について述べるのは、『精神現象学』が「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3段階から成りたっているという見方からすれば「(B)自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」においてだ。(63-64頁)
☆また『精神現象学』が「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」の8つの段階から成りたっているという見方からすれば、ヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」について述べるのは、「Ⅶ宗教」のうちの最高のものである「絶対宗教」(※「啓示宗教」)においてである。(64頁)
《参考1》《『精神現象学』目次》「(B)自己意識」「Ⅳ 自己確信の真理性」:「A 自己意識の自立性と非自立性、主と奴」「B 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」(333頁)
《参考1-2》 《『精神現象学』目次》「(C)理性(CC)宗教」:「Ⅶ 宗教」「A 自然宗教」a光、b植物と動物、c工作者;「B 芸術宗教」a抽象的芸術品、b生ける芸術品、c精神的芸術品;「C 啓示宗教」
《参考1-3》 『精神現象学』の構成(目次)を分析すると「2つの分け方」が組み合わせてされている。
・一方の分け方では、「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」である。
・他方の分け方では、「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」である。
・「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。
《参考2》ヘーゲル『精神現象学』において、「Ⅶ宗教」は「Ⅷ絶対知」の直前に置かれる。「宗教」は「絶対知」の直前に位置するにふさわしい高度な「精神」の形と考えられている。
《参考2-2》なおヘーゲルは「神」(「宗教」)を人間の「精神」のとる一つの形だとするので、しばしば、「無神論者」と攻撃された。
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その3)
(7)「絶対知の哲学」が出現すべき時代がやってきている!
★「哲学が絶対知の立場にたたねばならない」というのはヘーゲルの考えであるが、さらに「時代がこれを要求している」のだ、すなわち「絶対知の哲学が出現すべき時代がやってきている」のだとヘーゲルは言う。(61-62頁)
☆ヘーゲル(1770-1831)は現代が「精神史における転換期である」と考える。(Cf. フランス革命1789年。)「我々は《精神》が飛躍して、従前の形態を越えて新たなる形態を獲得するという重大な転換期に、発酵の状態のうちにあるのをみる。」「哲学は《精神》を永遠なものとして認め、それに敬意を表さなくてはならぬ。」(ヘーゲル1806/9/18、36歳)
☆ヘーゲルは「絶対知の哲学は時代の要求しているものだ」、「世人の大多数も暗黙のうちに本能的に絶対知の哲学が出現しなければならぬことを認めている」と言う。
《参考》ナポレオン戦争(1796-1815):フランス革命を外国の干渉から守る「革命防衛戦争」として始まるが、しだいに「革命の理念の拡大」の戦争、一面では「侵略戦争」へと変質。1812年のモスクワ遠征失敗を境にナポレオンの「帝国防衛戦争」に転化。ヨーロッパの「封建体制」を崩壊させ「市民社会」を拡張したが、周辺諸民族を抑圧した。軍事史的には「傭兵」による絶対王政期の軍隊から、「徴兵制」に基づく「国民軍」を主体とする戦争への転換をもたらした。
☆ナポレオン(1769-1821)の軍事行動はフランス革命末期の「総裁政府」のもとで、オーストリアとイギリスの干渉から「革命を防衛するための戦争」をナポレオンが指揮するところから始まる。ナポレオンは1796年、26歳で「イタリア遠征(第1次、1796-97)軍司令官」に任命され、オーストリアに勝利し、第1回対仏大同盟を終わらせた。
・さらにイギリスのインド支配を妨害するためナポレオンは「エジプト遠征」(1798-99)を行うが、ネルソンの率いるイギリス海軍に敗れる。イギリスは第2回対仏大同盟結成。
・ナポレオンは1799年に「ブリュメール18日のクーデタ」で実権を握り、「統領政府」(1799-1804)の第一統領となる。(ナポレオン30歳、ヘーゲル29歳。)
☆「ヨーロッパ征服の戦争」:権力を握ったナポレオンは、フランスのブルジョワ・農民の支持を背景に「革命の理念を全ヨーロッパに広げる」という大義の下、征服戦争を開始。「イタリア遠征」(第2次、1800)で再びオーストリア軍と戦い勝利。イギリスとは1802年のアミアンの和約で一旦和平を実現した。
・1804年「ナポレオンの皇帝即位」(ナポレオン35歳、ヘーゲル34歳)を受けて第3回対仏大同盟が成立。ナポレオンはイギリス征服をもくろむが「トラファルガー海戦」(1805)でネルソン率いるイギリス海軍に敗れた。
・しかし大陸での戦いは、「アウステルリッツの三帝会戦」(1805)でオーストリア・ロシア連合軍と戦いナポレオンが勝利、「イエナの戦い」(1806)でプロイセン軍と戦い勝利し、ベルリンを占領。(ナポレオン37歳、ヘーゲル36歳)
・ナポレオンは、さらにポーランドに侵攻、ポルトガル征服(1807)、スペイン征服(1808年、スペインの反乱を鎮圧するためナポレオン自ら侵攻)などで勝利を続けた。ただしスペインではゲリラ戦に悩まされて苦戦。
☆ナポレオンの「帝国防衛戦争」:ナポレオン帝国の最大の敵であるイギリスを弱体化するため、ナポレオンは1806年「大陸封鎖令」を出したが、各国の足並みが揃わず、特にロシアがその命令に従わなかった。かくてナポレオンは1812年にロシア遠征に踏み切る。モスクワに入城するが冬将軍に敗れ撤退。
・それをきっかけに「ライプツィヒの戦い」(1813「諸国民戦争」)でヨーロッパ諸国連合軍にナポレオンが敗れる。連合軍がパリに入城し、ナポレオンは1814年、退位した。
・1815年(ナポレオン46歳、ヘーゲル45歳)、ナポレオンはエルバ島を脱出し皇帝に復帰。だが「ワーテルローの戦い」で敗れセントヘレナ島に流された。(ナポレオンの「百日天下」。)
☆ナポレオン戦争の意義:約20年にわたり、全ヨーロッパを巻きこんだナポレオン戦争(1796-1815)は、多大な犠牲を払った「近代への移行」であった。フランス軍は革命中に始まる「徴兵制」によって編制された「国民軍」であり、彼らは「自由と権利」のために戦うとともに「ナショナリズム」にも燃えていた。フランス軍を迎え撃つヨーロッパ各国は敗北によって、封建的な「傭兵」部隊の時代が過ぎ去ったことを痛感させられ、各国とも「国民軍」を創設して「常備軍」の強化に向かった。
Cf. ヘーゲル(1770-1831)の生涯の略年譜③(1807-1831年、37-61歳・死)(46-47頁)
★イエナ大学が閉鎖され、1807-08年(37-38歳)、ヘーゲルはバンベルク市の新聞 Bamberger Zeitung を主宰。へーゲルがこの職を選んだのは、元来政治に興味があったことを示している。
☆1807年(37歳)ヘーゲル『精神現象学』。
★1808-1816年(38-46歳)、ヘーゲルはニュールンベルクのギムナジウム校長をつとめる。
☆1812-16年(42-46歳)ヘーゲル『大論理学』第1巻・第2巻
★1816-1818年(46-48歳)へゲルはハイデルベルク大学教授をつとめる。
☆1817年(47歳)『エンチュクロペディー』初版。
★1818-1831年(48-61歳)ヘーゲルはベルリン大学教授をつとめる。(47頁)
☆1821年(51歳)ヘーゲル『法哲学』。
☆1831年(61歳・死)英国選挙法改正の論文。(1830年フランスに7月革命があって、この波がドイツへも押し寄せてくる。こういう政治情勢に対して、ヘーゲルが態度を決しようとした論文。)
(8)「ヘーゲル哲学の精神史的必然性」(イ)《精神》における「実体性の段階」、すなわち「中世キリスト教」の信仰の時代!
★ヘーゲルは「自分の哲学の精神史的必然性」を説明する。そこには「3つの段階」が区別される。それは《精神》における(イ)「実体性の段階」、(ロ)「反省の段階」あるいは「媒介の段階」、(ハ)「実体性恢復の段階」である。(62頁)
★(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代!(63頁)
☆「実体性」とは「普遍的・全体的・絶対的なもの」のことだ。これに対して「部分的・個別的・相対的・有限的なもの」は(「実体」に対する)「属性」にあたる。「属性」は「実体」に依存するだけで、「実体」からの独立性をもたない。(63-64頁)
☆「有限的・相対的・個別的・部分的なもの」は、すべて「絶対的・全体的・普遍的なもの」に依存しているという状態が「実体性の段階」だ。
☆これは具体的には「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代だ。すなわち人間がキリスト教において「絶対的普遍的」なものに帰依し、それを信仰している段階だ。
「かつて人間は思想と表象との広大なる富をもって飾られた天国を所有していて、ありとしあらゆるものは光の糸によってこの天国に繋がれ、この糸によってその意義をえていた。人間のまなこも『この』現在に停滞することなく、光の糸をたどって現在を越えて神的なる実在を、いわば彼岸の現在を仰ぎ見ていた。」(ヘーゲル)
★『精神現象学』の本文でヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」:「中世キリスト教」の信仰の生きていた時代」について述べるのは、『精神現象学』が「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」の3段階から成りたっているという見方からすれば「(B)自己意識」の最後の段階である「不幸なる意識」においてだ。(63-64頁)
☆また『精神現象学』が「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」の8つの段階から成りたっているという見方からすれば、ヘーゲルが「(イ)《精神》の「実体性の段階」について述べるのは、「Ⅶ宗教」のうちの最高のものである「絶対宗教」(※「啓示宗教」)においてである。(64頁)
《参考1》《『精神現象学』目次》「(B)自己意識」「Ⅳ 自己確信の真理性」:「A 自己意識の自立性と非自立性、主と奴」「B 自己意識の自由、ストア主義とスケプシス主義と不幸なる意識」(333頁)
《参考1-2》 《『精神現象学』目次》「(C)理性(CC)宗教」:「Ⅶ 宗教」「A 自然宗教」a光、b植物と動物、c工作者;「B 芸術宗教」a抽象的芸術品、b生ける芸術品、c精神的芸術品;「C 啓示宗教」
《参考1-3》 『精神現象学』の構成(目次)を分析すると「2つの分け方」が組み合わせてされている。
・一方の分け方では、「(A)意識、(B)自己意識、(C)理性」である。
・他方の分け方では、「Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性、Ⅳ自己確信の真理性、Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知」である。
・「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である。
《参考2》ヘーゲル『精神現象学』において、「Ⅶ宗教」は「Ⅷ絶対知」の直前に置かれる。「宗教」は「絶対知」の直前に位置するにふさわしい高度な「精神」の形と考えられている。
《参考2-2》なおヘーゲルは「神」(「宗教」)を人間の「精神」のとる一つの形だとするので、しばしば、「無神論者」と攻撃された。