DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』I 序論(五)「精神現象学の目的」(その1):「普通の認識」から「絶対知」(「哲学的認識」)へ行くのに媒介(道案内・梯子)が必要だ!その媒介が『精神現象学』だ!

2024-03-22 13:36:28 | 日記
※金子武蔵(カネコタケゾウ)『ヘーゲルの精神現象学』ちくま学芸文庫(1996)(Cf. 初刊1973)
I 序論(五)「精神現象学の目的」(その1) 
(6)ヘーゲルの「精神」は、カントで言えば「理性」にあたり、「理性」は「理念Idee」あるいは「無制約者」を認識する!つまり「理性」は「絶対者」を認識する!「絶対者」を認識するものが「絶対知」だ!
★ヘーゲルは『精神現象学』(1807)は、「絶対知の生成」に関する「認識論的な序論」or「学の体系第一部」であると述べる。(57頁)
★ヘーゲルの「精神」は、カントで言えば「理性」にあたり、「理性」は「理念Idee」あるいは「無制約者」を認識する。つまり「理性」は「絶対者」を認識する。「絶対者」を認識するものが「絶対知」だ。(57-58頁)
☆「絶対知」は「絶対の他在における自己認識」だ。
☆「絶対の他在のうちに純粋に自己を認識すること」、これが「絶対知」の規定だ。
☆カントのあの有名な「二律背反論」を積極的に生かして、互いに対立しているものを総合するヘーゲルの哲学的認識が、この「絶対知」だ。
☆「主体」があり、またこの主体に対して全く異なった「客体」があるとき、「その主体と客体とを総合する、つまり絶対の他在のうちに自己を見てゆく」のが「絶対知」だ。

(6)-2 「普通の認識」と「哲学的認識」(=「絶対知」)!
★「普通の認識」の立場では、対象を認識することは他者(他在)を認識することで、自分自身を認識することではない。つまり「対象」を認識するときに、その対象は自己と違ったものであり、認識する「自己」も対象とは違ったものであると考えるのが、ヘーゲルの言う「(A)意識」の立場だ。

《参考》「精神現象学の構成」(目次):「(A)意識」が客体的な方向(Ⅰ感覚、Ⅱ知覚、Ⅲ悟性)、「(B)自己意識」が主体的な方向(Ⅳ自己確信の真理性)、「(C)理性」が主客統一の方向(Ⅴ理性の確信と真理、Ⅵ精神、Ⅶ宗教、Ⅷ絶対知)である!(53-56頁)(Cf. 333-336頁)
☆ヘーゲル『精神現象学』の目次は次のようになっている。
(A)意識:Ⅰ《感覚》感覚的確信または「このもの」と「私念」、Ⅱ《知覚》真理捕捉(知覚)または物と錯覚、Ⅲ《悟性》力と悟性、現象と超感覚的世界
(B)自己意識:Ⅳ自己確信の真理性
(C)理性(AA)理性:Ⅴ理性の確信と真理、
(C)理性(BB)精神:Ⅵ精神(A「真実なる精神、人倫」、B「自己疎外的精神、教養」、C「自己確信的精神、道徳性」)、
(C)理性(CC)宗教:Ⅶ宗教、
(C)理性(DD)絶対知:Ⅷ絶対知

★それ(「普通の認識」)に対して、「哲学的認識」(「絶対知」)においては「絶対の他在のうちに自分自身を認識する」。(58頁)
☆かくて「哲学的認識」を行うことは、「普通の認識」つまり「普通の意識」(「(A)意識」)に対してはまるで逆立ちして歩けというようなものだ。いきなりそんな要求をしても、それはとうてい行えない。
☆「普通の認識」から「絶対知」(「哲学的認識」)へと行くまでに媒介が重要だ。「絶対知」の立場は非常に高い山の頂上のようなものであり、山の麓である「普通の意識」から頂上である「絶対知」へ至るまでの「道案内」あるいは「梯子」(ハシゴ)が必要だ。その「梯子」をかける役目、「道案内」をするのが『精神現象学』だ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする