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宮本輝(1947-)「力道山の弟」(1989年):「力道粉末」の空き袋は、「喜代ちゃん」が、香具師「力道山の弟」の子を身ごもったことを知った日の「父のあらぶる心と悲哀」を示すものだった!

2023-04-30 19:11:46 | 日記
※宮本輝(1947-)「力道山の弟」(1989年、42歳)『日本文学100年の名作、第8巻、1984-1993』新潮社、2015年所収
(1)昭和33年(1958)①:尼崎駅前、「京大工学部の学生」と称する男(香具師)!
昭和33年(1958、小5、11歳)の11月末、尼崎駅前、そこで香具師(ヤシ)が物を売る。最初、京大工学部の学生と称する男が「高度数学解読法」なる子ども教育用の冊子を売る。「さあお父さん、お母さん。この本を読めば、頭の悪い子供にもう家庭教師など必要はない。赤にかぶれた月給泥棒の教師の顔は青くなる」。1冊100円の冊子が、20冊近く売れる。
《感想》この頃、ラーメンが50円位だった。「日教組」が強い時代で「赤にかぶれた・・・・教師」と言われておかしくない。
(2)昭和33年(1958)②:尼崎駅前、「力道山の弟」と称する男(香具師)!
次いで黒いシャツに格子縞の背広を着た男がやってきて、突然服を脱ぎ黒いタイツ一枚になった。彼は「力道山の弟」だと言い、煉瓦を空手チョップで割ったりした。彼は「力道粉末」という漢方薬を売った。「青びょうたん」の私は健康に強くなれる「力道粉末」が欲しかったが、200円と高くて買えなかった。
(3)昭和33年(1958)③:「私」は麻雀屋で父の金券を盗んだことを謝まり、父に「力道粉末」を渡した!
父(1922生)は、その日、「喜代ちゃん」の麻雀屋でマージャンをやっていた。そこに例の香具師「力道山の弟」もいた。わたしは父のマージャンの金券200円分を盗んで、「力道山の弟」から「力道粉末」を買った。ところが「力道粉末」はとんでもない薬で、それを飲んだその晩、私は下痢し嘔吐し苦しんだ。私は父に金券を盗んだことを謝まり、父に「力道粉末」を渡した。
《感想1》「私」(宮本輝)11歳(1947生)は、父(宮本熊市)50歳の時の子だ。したがって父は1897(明治40年)生まれで、この昭和33年(1958)には父は61歳だ。
《感想2》私が「力道粉末」を父に渡して10年後、父は昭和43年(1968)に71歳で亡くなった。それから20年経ち、現在1988(昭和63年)だ。
(4)昭和30年(1955):市田喜代が尼崎に麻雀屋を開店した!
父の友人であった高万寿(コウマンジュ)の妻、市田喜代が麻雀屋を開店したのは昭和30年(1955)だった。(父58歳、私8歳、喜代40歳位か)。私は幼少の頃から、彼女を「喜代ちゃん」と呼んでいた。喜代ちゃんが開店にこぎつけるにあたって、父の裁量や資金作りのための奔走があった。
《感想》父は市田喜代におそらく恋心を抱いていた。昭和30年(1955)には、市田喜代は、子どものいない若い後家であり40歳位、父は会社を経営する58歳。私は8歳(小2)で、母は50歳代だったろう。
(4)-2 昭和10-12年(1935-37):高万寿と市田喜代の結婚生活!
父は戦前、対中国貿易で財を成した。高万寿は中国の福建省出身の商人で、神戸に事務所を持っていた。父とは親友で高万寿26歳の時、1935(昭和10年)、父が間を取り持って料亭の仲居だった市田喜代(20歳位か)と結婚した。(喜代ちゃんは両親に死別し孤児となり、苦労をして大きくなったという。)日中戦争勃発の年(1937年)、高万寿は喜代を残して中国に帰り、消息が絶えた。
(5)昭和33年(1958):喜代ちゃんは、香具師「力道山の弟」の子を身ごもった!
さて昭和33年(1958、「私」小5、11歳)の香具師「力道山の弟」の話に戻そう。「力道山の弟」は市田喜代の麻雀屋3日間泊り、どことも知れず出て行った。ところが市田喜代(43歳位か)は、香具師「力道山の弟」の子を身ごもった。それが分かった時、父は喜代の店の麻雀台を叩き潰し、麻雀牌を喜代の体につぶてのようにぶつけ、長椅子を持ち上げ、入り口の扉や帳場をこわした。「喜代ちゃん」は無抵抗なまま泣いていた。
(5)-2 昭和34年(1959):父の会社が倒産し岡山に逃げた!喜代ちゃんが悦子を生んだ!
その翌年、昭和34年(1959)、父の会社は倒産した。私たちは尼崎を引き払い、父の古い友人を頼って、岡山に逃げそこで5年間を過ごした。喜代ちゃん(44歳位か)は、この昭和34年(1959)、女の子を生んで、悦子と名づけた。そして尼崎の元の場所で麻雀屋を営み、よく繁盛していた。
《感想》「私」は1947年生まれ、悦子は1959年生まれだから「私」の12歳下だ。
(6)昭和39年(1964):父・母・私、尼崎に戻る!
「私」たちが、昭和39年(1964)に、尼崎に戻ると、喜代ちゃん(49歳位か)は幼い娘(悦子5歳)の手を引いて訪ねて来た。けれども父(67歳)は、2人に逢おうとはしなかった。母は近所の喫茶店で、喜代ちゃんと会い、近況を訊いた。(当時「私」は17歳だった。)その後、3年近く(1964・65・66年)、母は父に内緒で、喜代ちゃんに金を工面してもらっていた。
(6)-2 昭和39・40・41年(1964・65・66):私は喜代ちゃんから、金を受け取りに行った!
喜代ちゃんから、金を受け取りに行くのは、いつも「私」(17・18・19歳)の役目だった。そのたびに、私は悦子(5・6・7歳)を駅前の広場に連れて行って遊んでやった。
(6)-3 昭和43年(1968):喜代ちゃん(53歳位か)が子宮がんで死んだ!
喜代ちゃん(53歳位か)が子宮がんで死んだのは、昭和43年(1968)、悦子が9歳になったばかりのときだった。孤児となった悦子を父(71歳)が、子供のない明石に住む夫婦の養女に世話した。そんな悦子を父は時折、映画に連れて行ったり、何時間も環状線に乗って、大阪の街並みを見せたりした。(その年、父は亡くなった。)
(7)昭和63年(1988):悦ちゃん(29歳)が結婚する!
「悦ちゃん(29歳)は、あした(1988年)結婚するんや。相手は神戸で寿司屋をやってる男やけど、もう悦ちゃんの尻に敷かれとるわ」と私(41歳)は亡くなった父に心の内で報告し、「力道粉末」(1958に「私」が買った)の空き袋に火をつけて焼いた。この「力道粉末」の空き袋は20年前(1968)、父の遺品の中から出て来て、私はその袋を、1冊の詩集に挟み込んだまま、本棚の隅に保存してきた。
(7)-2 「力道粉末」(1958に「私」が買った)の空き袋は、「あの日(喜代ちゃんが、香具師「力道山の弟」の子を身ごもったことを知った日)の、父のあらぶる心と悲哀」を示すものだった。
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