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前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(2004)(その4):「情」(理由動機)の発生はふつう「無意識」的だが、それによって定立された「目的」(目的動機)をめざす「行為」はつねに「意識」的だ!

2023-04-07 13:34:19 | 日記
※前野隆司(1962-)『脳はなぜ「心」を作ったのか――「私」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫2010)(2004刊行、42歳)
第2章 「私」は受動的――新しいパラダイム(その1)
(10)「情」(理由動機)の発生はふつう「無意識」的だが、それによって定立された「目的」(目的動機)をめざす「行為」はつねに「意識」的だ!  
L  前野隆司氏によれば、知覚や思考といった「知」の作用も、感情や情動といった「情」の作用も、「無意識」の「小びと」(ニューラルネットワークのモジュール)の仕事の結果が「意識」に自動的にわきあがってくる。つまり「知」も「情」も、「注意を向ける」といったような「意識」の積極的な働きかけの結果なのではなく、「無意識」にいる「小びと」たちがせっせと処理した結果をただ「意識」が受動的に見ているだけだとされる。(73頁)
《感想1》A. シュッツ(1899-1959)によれば、「意識」的な行為(目的をめざす)は、「情」(理由動機)(Ex. 欲望)を根拠にして生まれる。感情や情動(理由動機)(Ex. 欲望)の発生は「意識」のコントロール下にふつうない。
《感想1-2》なお「行為」は定義から言って「意識」的である。というのは「行為」は「意識」された「目的」(目的動機)をめざすからだ。
《感想2》感情や情動といった「情」(理由動機)(Ex. 欲望)の発生はふつう「無意識」である。これに対し「情」(理由動機)に基づいて定立された「行為」(目的動機にもとづく「行為」、つまり「目的」をめざす)はつねに「意識」的である。
《感想2-2》前野隆司氏は、「無意識」にいる「小びと」(ニューラルネットワークのモジュール)たちがせっせと処理した結果をただ「意識」が受動的に見ているだけと述べるが、これは「情」(感情や情動)(理由動機)(Ex. 欲望)の発生についてのみ当てはまる。「情」(理由動機)に基づいて定立された「行為」(目的動機にもとづく「行為」、「目的」をめざす)はつねに「意識」的である。

L-2  「意図」は間違いなく「私」が主体的に行っていることのように「思える」と、前野隆司氏は言う。だが彼はそれをすぐに否定する。「意図」もまた、「小びと」たちがせっせと処理した「無意識」の結果にすぎない。つまり「意図」も、「意識」(「私」)が主体的に行っていることでないと言う。(74頁)
L-2-2  そして「意図」に関して「そう考えなければ説明できない実験結果がある」と前野隆司氏は言う。(75頁)

(10)-2 1983年リベット教授の実験:心が「動かそう」という「意図」を「意識」するよりも前に、「無意識」のスイッチが入り、脳内の活動が始まっている!  
M  前野隆司氏は、1983年リベット教授の論文を紹介する。リベット教授は、《「無意識」に指の筋肉を動かそうとする準備指令(脳からの筋肉に「動け!」と指令する電気信号)の時点》と、《「意識」が「指を動かしたい」(「動かそう!」)と自発的に「意図」した時点》とを比較した。(76-77頁)
M-2  実験結果は、《「無意識」に指の筋肉を動かそうとする運動準備電位が発生した時刻》は、《「意識」的に指の運動を「意図」した時刻》より数百ミリ秒ほど早かった。(78頁)
M-2-2 つまり心が《「動かそう」という「意図」を「意識」する》よりも前に、「無意識」のスイッチが入り、脳内の活動が始まっている。(78頁)

(10)-3 前野隆司氏の「受動意識仮説」:私たちは、小びと(ニューラルネットワークのモジュール)たちの「無意識」にすぎない活動を、あたかも主体的に「意図」したかのように「錯覚」(「イリュージョン」)している!
M-3 リベット教授の実験結果を、前野隆司氏は、次のように解釈する。(79頁)
①「私」が「意識」するよりも少し前に、小びと(ニューラルネットワークのモジュール)たちはすでに(「無意識」に)活動を開始している。(79頁)
②言い換えれば「意識」(「意図」)を人に感じさせる脳の部分は、脳内の小びとたちの(「無意識」の)活動結果を受け取って、自分が始めに(「指を動かそう」と)「意識」(「意図」)したと、「錯覚」(「イリュージョン」)しているにすぎない。(79頁・75頁)
③かくて「意図」(知情意の「意」)は「私」が主体的に行っていることのように「思える」が、この「意」(意図)もまた、(大脳の随意運動野の)無意識の「運動準備」にたずさわる小びとたち、さらに「意」にたずさわる小びとたちの結果を、受動的に見ている作用にすぎない。前野隆司氏はこれを「私」(意識)についての「受動意識仮説」と呼ぶ。(79-80頁・76頁)
③-2 つまり私たちは、小びと(ニューラルネットワークのモジュール)たちの「無意識」にすぎない活動を、あたかも主体的に「意図」したかのように「錯覚」(「イリュージョン」)している。(79-80頁)

《参考1》情報は「意識」されるとき以外は、小びとたち(ニューロン群)によってせっせと「無意識」のうちに処理される!(前野隆司氏38-39頁)
J 「物」世界の一部である「自分」の脳の中には、たくさんの小びとがいて、つまりニューラルネットワーク(神経回路)のモジュール(機能単位)があって、それぞれ自分の仕事をせっせとこなしている。(37-38頁)
J-2  例えば、赤いリンゴを見た時、脳にいる様々の小びと(ニューラルネットワークのモジュール)たちが、それぞれ色(赤)、形(丸い)、動き、陰影、質感などの諸要素を別々に識別・情報処理する。その後、それらが統合され「赤いリンゴだ」という答えが出される。これらは小びと(ニューラルネットワークのモジュール)たちの「知」の働きだ。(38-39頁)
J-2-2 またリンゴを見たとき「食べたい」という「情」を作り出し、そこから「意」(意思)(意図)(「食べる」と言う目的)を作り出す小びと(ニューラルネットワークのモジュール)もいる。(39頁)
J-2-3  小人が作り出す「情」には、リンゴを食べるときの美味しさを思い出し幸せになるという「情」もある。(39頁)
J-3  たくさんの小びと(ニューラルネットワークのモジュール)、つまりニューロン群が、「知」「情」「意」の処理をせっせとおこなう。また感覚器からの情報の前処理である「知覚」、記憶の「想起」を行う小びともいる。言葉を話したり運動や行動を起こすための「運動データ処理」、考えた結果を記憶したり学習したりする「記憶データ処理」を行う小びとたちもいる。(39頁)
J-3-2  情報は「意識」されるとき以外は、小びとたち(ニューロン群)によってせっせと「無意識」のうちに処理される。(39頁)

《参考2》五感から入ってきた情報と、自己意識(〈私〉)のように心の内部から湧き出て来た情報を、ありありと感じる質感がクオリアだ!(前野隆司氏44-45頁)
K 「私」たちが「意識」のなかで感じる「心の質感」は「クオリア」(qualia)と呼ばれる。(44頁)
K-2  「五感から入ってきた情報と、自己意識(〈私〉)のように心の内部から湧き出て来た情報を、ありありと感じる質感がクオリアだ。」(45頁)
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