DIARY yuutu

yuuutunna toki no nikki

前野隆司『脳はなぜ「心」を作ったのか』(2004)(その3):「意識」における「クオリア」とは「世界の開け」(池田晶子)のことだ!唯識仏教はそれを「四分(シブン)義」で説明する!

2023-04-01 15:17:23 | 日記
※前野隆司(1962-)『脳はなぜ「心」を作ったのか――「私」の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫2010)(2004刊行、42歳)
第1章 「心」――もうわかっていることと、まだわからないこと(その3)
(8)-2 「物」の世界も、したがって「物」の世界に属する「脳を含む身体」も、「世界(宇宙)の開け」としての「意識」(=「超越論的主観性」)に属する!
I  前野隆司氏は、「脳を含む身体」を「自分」と名づけ、「意識」を「私」と名づけ、「自己意識」を〈私〉と名づける。(33頁)
I-2  前野隆司氏は、「私」(意識)を、「自分」(脳を含む身体)が作り出すと考える。(33頁)
《感想1》この場合、前野隆司氏は、「意識」が「世界(宇宙)の開け」つまり「超越論的主観性」であると解さない。
《感想2》だが実は「物」の世界も、したがって「物」の世界に属する「脳を含む身体」も、「世界(宇宙)の開け」としての「意識」(=「超越論的主観性」)に属する。
《感想2-2》「物」もまた、「意識」(「世界(宇宙)の開け」)(超越論的主観性)の一部である。
《感想2-3》「私」(「意識」)は「自分」の脳が作り出すという前野隆司氏の見解は、誤りだ。「物」世界の一部である「自分」の脳は、「私」つまり「超越論的主観性」としての「意識」に属し、したがって「世界(宇宙)の開け」の一部である。

(9)情報は「意識」されるとき以外は、小びとたち(ニューロン群)によってせっせと「無意識」のうちに処理される!(前野隆司氏の説明)
J 「物」世界の一部である「自分」の脳の中には、たくさんの小びとがいて、つまりニューラルネットワーク(神経回路)のモジュール(機能単位)があって、それぞれ自分の仕事をせっせとこなしている。(37-38頁)
J-2  例えば、赤いリンゴを見た時、脳にいる様々の小びと(ニューラルネットワークのモジュール)たちが、それぞれ色(赤)、形(丸い)、動き、陰影、質感などの諸要素を別々に識別・情報処理する。その後、それらが統合され「赤いリンゴだ」という答えが出される。これらは小びと(ニューラルネットワークのモジュール)たちの「知」の働きだ。(38-39頁)
J-2-2 またリンゴを見たとき「食べたい」という「意」(意思)を作り出す小びと(ニューラルネットワークのモジュール)もいる。リンゴを食べるときの美味しさを思い出し幸せになる「情」の小びともいる。(39頁)
J-3  たくさんの小びと(ニューラルネットワークのモジュール)、つまりニューロン群が、「知」「情」「意」の処理をせっせとおこなう。また感覚器からの情報の前処理である「知覚」、記憶の「想起」を行う小びともいる。言葉を話したり運動や行動を起こすための「運動データ処理」、考えた結果を記憶したり学習したりする「記憶データ処理」を行う小びとたちもいる。(39頁)
J-3-2  情報は「意識」されるとき以外は、小びとたち(ニューロン群)によってせっせと「無意識」のうちに処理される。(39頁)
《感想》「意識」(※唯識における「識体」、心)(※超越論的主観性)(※生命)とは、すなわち「現象」(「自体分」)である世界(宇宙)そのものが、みずから意識すること、すなわち「見分」=「ノエシス」と「相分」=「ノエマ」に分化することだ。「意識」(※「識体」、心)(※超越論的主観性)(※生命)は、意識する世界(宇宙)そのものだ。

(9)-2 五感から入ってきた情報と、自己意識(〈私〉)のように心の内部から湧き出て来た情報を、ありありと感じる質感がクオリアだ!(前野隆司氏の説明)
K 「私」たちが「意識」のなかで感じる「心の質感」は「クオリア」(qualia)と呼ばれる。(44頁)
K-2  「五感から入ってきた情報と、自己意識(〈私〉)のように心の内部から湧き出て来た情報を、ありありと感じる質感がクオリアだ。」(45頁)

《感想1》唯識仏教(およびフッサール)によれば、「識体」(心)(意識)(超越論的主観性)とは、すなわち、「現象」としての世界(宇宙)《そのもの》(「自体分」)が、「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化することだ。これが認識の成立、意識化、意識の成立と呼ばれる。認識の成立を自覚した「自体分」が、「自証分」である。「自証分」はフッサールにおける「受動的なレベルで行なわれている総合(受動的総合)」に相当する。「自証分」のはたらきを、さらに自覚し再確認するのが「証自証分」だ。「証自証分」はフッサールにおける「能動的なレベルで行なわれている総合(能動的総合)」に相当する。
《感想2》「意識」における「ありありと感じる質感」である「クオリア」とは、「識体」(心)における「自体分」(《そのもの》としての「現象」)が「見分」(※ノエシス)と「相分」(※ノエマ)に分化し、その意識化が受動的なレベルで自覚され(「自証分」)、次いで能動的なレベルで注視される(「証自証分」)という出来事のことである。
《参考》日本の唯識仏教(法相宗)は認識の仕組みを「四分(シブン)義」に基づいて説明する。「四分」は心の4つの領域で、「相分ソウブン」「見分ケンブン」「自証分ジショウブン(自体分ジタイブン)」「証自証分ショウジショウブン」である。(多川俊映『唯識 心の深層をさぐる』NHK宗教の時間、上110-111頁)

《感想3》哲学者の池田晶子氏(1960-2007)が『知ることより考えること』(新潮社)で次のように言う。
「自分と世界」と人は言う。見える(※触れられる「物」としての)世界が先に在り、それを自分が見ている(※「物」としての「身体」において触れている)のだと、こう思うわけである。世界は、視界は(※触れる触れられるという出来事において)、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ世界は存在しないのである。だから「自分《と》世界」なのではなくて、「自分《が》世界」なのである。(125頁)
《感想3-2》「意識」における実感である「クオリア」とは「世界の開け」(池田晶子)のことだ。

K-3 「離人症」の患者は、自分の精神状態、特に喜怒哀楽に対して実感が持てない、自分の身体に対して実感がもてない、外界に対して実感が持てないという3つの症状を訴えると言われる。これら実感は「クオリア」と呼ばれる。(44頁)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする