この廃墟にはちょっとしたエピソードがありました。
この浄水場は山ひとつ越えたところにあるダムからトンネルで水を引いて
いました。辺りを探すと、この敷地の隅にその痕跡がありました。
錆びたベルトコンベアー(これはオブジェとして廃墟マニアは喜ぶかも知れ
ません)の向こう側にレンガに囲まれたトンネルの入口を発見しました。
では近づいてみましょう。
ここがトンネルの入口です。(現在は入れません)
石版には
多分、時代的に右読みで「噴玉洞」でしょう。
(ちなみに“噴玉洞”で検索した結果ヒット0件です。ネット上でも初公開です)
トンネルをよく見ると、
こんな感じで2本の大きな水道管が通っています。
左側は直径50㎝程度、右側が直径30㎝程度の大きな管です。
その昔は、鉄管ではなく石造りの溝を使って流していたようです。
溝の脇には通路があって(当然点検のため歩いて確認しなければならない)、
ひと山越えた戸町(小ヶ倉ダムのあった町)まで歩いて行けました。
トンネルの中は照明もなく真っ暗で、懐中電灯を持って20~30分程度かかった
そうです。当時一般にも開放されていて、通ったことのある方の証言です。
距離にすると1㎞~1.5㎞程度だと推測されます。
実はトンネルの抜けた先の戸町(現在では新戸町か上戸町にあたります)に
朝鮮人労働者の寮がありました。多分強制的に連れてこられた方達でしょう。
その朝鮮の方達が毎日このトンネルを通り、ここより海へ下り、連絡船に乗って
対岸にある三菱造船所へと労働に借り出されていたとのとこです。
戸町にある寮から最短ルートだったのでしょう。
毎日毎日、暗闇の中を通り、寝床と強制労働をくり返していたのでしょうか。
そんな話も一般的には、今や誰も知りません。記録さえも残っていないのです。
もうひとつエピソード。
終戦後、米兵がこの浄水場に監視に来ていたそうです。
何でも、日本人を恨んで、誰かが浄水施設で毒を撒くのを監視するため?
だとか・・・まことしやかな噂かも知れませんが、この近所のご年配の方は
そう仰いました。本当でしょうか。
米兵は暇だったから、貯水用のプールにボートを浮かべて遊んでいたそうです。
のどかな光景です。
こうして原爆の落とされた街にも終戦、平和はやって来たのでした。
またこの浄水場のすぐ下の土手にはサクラが数十本植えられました。
私が子供の頃は、毎年花見で賑わいましたが・・・、今現在では樹齢も古く
なり木が弱っています。車で来られないので、サクラは咲くものの、花見を
する方はもうほとんど姿を消しました。
公園となって花見の名所となる日も近い?ので、その時はぜひ一度
訪れて下さいね。見晴らしはとても素晴らしい場所です。
*長々と引っ張ってすみませんでした。明日からまたワインバカ復活で
飲み会もあります。