King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

うちに飲みにおいで

2010年10月04日 10時31分33秒 | 珈琲
人の知覚とか意識とか受け止め方は
違うので、送り手としてはそれを考えに
入れないと意図するところに答えを
導けないことはあります。

しかし、これが単純な味覚に対しては
どうでしょうか。

そして、それがお茶やコーヒーなどの
食の脇役たちだとどうでしょうか。

コーヒーを珈琲のプロたちが、その味を
見極めるためにテストする時と、別に
特別意識もなく最後に飲んだ珈琲が
おいしいと感じたときにどれだけ差があるのか。

そもそも珈琲好きが味を求めて色々な
珈琲を求め味を確かめるのと一般の人の
コーヒーに寄せる意識があまりに違いが
あり、それら全てに答えるにはどうしたら
良いかと言う疑問を抱えています。

ちょっと前までは、誰でもどんなときにも
おいしいもの、本物の力はその力を発揮し、
誰をも振り向かせると信じていました。

しかし、そうともいえないという事件も
数々体験し、やはりお膳たてや舞台立て
があって始めて相手を終着点まで導ける
ものであると言うことも実感しています。

簡単な例で言えば、ありきたりのバイキングに
ひとつだけカリスマシェフの得意技の料理を
混ぜておいても誰も気がつかないと言う
ケースがほとんどで、限定何食カリスマシェフの
豪華ディナーとして同じ料理を供した場合
がいい例です。

こういった事は結構実験されているのですが、
決して公に結果はされません。

やはりブランドとかカリスマというのは
数を頼って作り出されたものなのです。

とすればやはり味にいたる舞台設計を
しっかりとするべきなのかと言うことです。

私はそれは今までまったく必要なく、うまい
珈琲を供給し続ければ、味のわかる珈琲ファン
は必ずついてきてくれると信じていましたが、
ちょっと俄かにぐらついてしまったのです。

味なんてほんの些細な雰囲気やその時の会話
などその場その場のムードで変わってしまうのです。

ましてや珈琲のような小物的立場だと、人と
人の間に立ちそれだけに語られるケースより
先にもっと優先するものたちがその場を制して
しまっていることがおおいのです。

でもやはりまずは味わってもらうと言うこと
がなければ話は進まないでしょう。

飲めば解るはひとまずおいておくとして。
コメント
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