外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

言葉で真実を追究する:二つの例 『そこまで言って委員会』、吉田秀和『名曲の楽しみ』

2016年04月02日 | 言葉は正確に:

 

言葉で真実を追究する:二つの例 『そこまで言って委員会』、吉田秀和『名曲の楽しみ』

ここまで言って委員会 この主題で書き始めたのですが、原稿が消えてしまい、さらにブログにログインできなくなってしまい、6ヶ月のブランクを空けてしまいました。漸く回復したので、覚えている限り、要点を書き出したいと思います。

 近頃、週刊誌に出ていたSKなるニュースキャスターの話しているのをたまたまネットで見ました。彼の話し振りを見れば、「偽者」であることは明らかです。嘘をついていると言いますか、自分で考えていないことを話しているので、焦点がぼけてしまっていて、「何を言いたいの」と突っ込みを入れたくなります。それをもっともだという様子で頷いて訊いているFというキャスターの姿勢も心地よいものではありませんでした。ウソを増幅しているように感じられたからです。このように、言葉はウソをつくためにも使われます。しかし、今回挙げる、まったく異なる二つの例には、言葉を通じて真実を追求する姿勢をみることができます。このような鋭い言葉遣いに触れること多ければ、上のSKなる人の言葉のウソはすぐに見破れると思います。

 一つ目の、『そこまで言って委員会』は大阪読売テレビの「政治ヴァライエティ・ショウ」。二つ目の、吉田秀和『名曲の楽しみ』は、2012年に亡くなった音楽評論家、吉田秀和さんのFM長寿番組。内容上は、まったく関係のない番組ですが、言葉を通し真実を追究しようという意思が機能している点で共通点があると思いました。

ここまで言って委員会2 『そこまで言って委員会』は、大阪の漫才風の丁々発止もさることながら、故やしきたかじんの遺志で東京では放映されないという点が、大きな特徴になっています。東京で放映される番組では率直な意見がいいにくいという事情があるからです。かつて、「率直」に意見を言うということが売り物の、『朝まで~』という番組もありましたが、各人、勝手に意見を言いっぱなしで、その意見を正確に捉えて展開するということが少なく、ストレスを覚えることが多かったものです。『ここまで~』には、少なくとも、そういうストレスが少ない。微妙な点も含めて、7人のメンバーは、前の発言者の意見を踏まえて自分の意見を言います。そこで、ずれがあると、笑いも生じるし、ともかく議論が前へ進みます。『朝まで~』を含め、東京での多くの政治討論番組は、忌諱に触れることを恐れるからでしょうが、あいまいにことを運ぶことが多いと感じます。

 昨年(2015)、9月20日の番組では、オリンピックのスキャンダルがテーマでした。

久しぶりに猪瀬元記事が登場、国立競技場、エンブレムの件について、7人のパネラーから質問を受けるという立場でした。途中、金美齢さんから、猪瀬知事は、突然辞めたことも関係があるか、と訊かれます。 

金:「私は猪瀬さんにね、責任はないかということを訊きたい。つまり、猪瀬さんが招致のときにがんばって招致して、そのままずっと都知事をやっていれば、その熱情でね、この問題はね、もうちょっとね、スムーズにいったんではないかと思うの。その途中で都知事、変わっちゃうわけじゃないですか。そこに全ての根源があるんじゃないかと思うんだけど、どうなんですか。」(12:35) 

猪瀬:「それは、辞める前に、組織委員会の会長を決めなければいけなかった。で、僕が辞めた結果、組織委員会の会長が、その、森さんになってしまったので、で、ええ、ラグビーを優先していく可能性があったので、ちょっとそれはまずいんじゃないかということを言った時点で、僕は辞めちゃいましたから。」

末延:「だから、猪瀬さんがじつは動いた方がいいんじゃないですか。」

辛坊:「今、今の話を遠まわしに言うとね、え、あの、森善郎をオリンピックの会長からはずそうとしたら後ろから切られたと。そういうことですね。」(猪瀬の方を向き)

猪瀬:「ま、それは...。立証...。」(小声で)

(笑い) 

最期の辛坊の「つっこみ」がなければ、東京で放映される番組と同じようなものになっていたでしょう。猪瀬は「分かる人は分かってください」という姿勢で、あいまいに言葉を運ぼうとしていました。しかし、それではコミュニケーションは成り立たない。辛坊の発言で、猪瀬が考えていたこと、そして、言わずに済ませようとしたこと、それを言われてどの程度動揺するか、など、多くの情報が伝わることになったのです。ことは、大阪風、東京風という問題ではないでしょう。フラストレーションを抱えたまま、あいまい(vague)にことを進めるか、あいまい、あるいは両義的(ambiguous)な問題も含め、言語活動を通して問題を一歩先へ進めるか、という問題だと思います。

吉田秀和さて、吉田秀和に移ります。吉田秀和は、数年前に98歳で現役のまま亡くなった音楽評論家です。音楽という言葉でないものを言葉に写すことに長年にわたって心血を注いでこられた方です。辛坊が政治的なあいまいさから言葉を救い出そうとしたのに対し、言語ではないものの本質を言葉でなんとか表わそうと苦心したのが吉田秀和のように思います。たとえば、あるロシアのピアニストについて、音楽会のロビーでつぎのようにインタビューアーに答えています。 

「若々しいし、若いし、青臭いね。」 

矛盾するような表現をあえて使うことで、それらの表現の向こう側にあるものを伝えようとしたのでしょう。真実は言葉にすると矛盾せざるをえないことが多いのです。

モーツアルトここでは、吉田さんがモーツアルトの弦楽四重奏曲、K465、通常「不協和音」と呼ばれている曲の説明をしている部分を取り上げてみましょう。ここで吉田さんが試みようとしたことは、自分の声で語ることによって、文字では表現できないことを表わす、ということです。ですから、このブログの文字上では、吉田さんの表現法を伝えるのは困難なのですが、なんとか伝える努力をしてみます。

まず、下に文字だけを書き写していますが、そのさらに下に、彼の語り口の特徴を、無理は承知で、文字で説明しようとしてみました。ユーチューブでこの番組を聴くことができますから、ぜひ聴いていただきたいですけれども、あえて、文字上で分析したものから、ぼんやりとでも吉田さんの語り口の工夫というものを感じ取っていただくということも、無意味ではないと思います。この1分強の解説のなかに、4秒ほどの空白が二箇所あります。そこに注目してください。

K.465 について

●番組の冒頭から43分ぐらいのところから:(1分15秒ほど)

https://www.youtube.com/watch?v=wfNMQBtiZ70 

だから、当時の音楽家は、もちろんのこと、19世紀に入ってから理論家のなかには、これではどうも具合が悪いから直そうという人がいたくらいです。もちろん、今日の演奏で聴きますと、その不協和音は、僕たちは、まあ、いろんな音楽で持って、耳が慣れているものだから、そんなにひどく、「いやな音だな」というふうには感じない。それからまた、演奏家もまた、とても気をつけて弾いていますから、えー、うっかりしていると気がつかないくらいなんですけれども。しかし、モーツアルトという人が、あんなに、一般的に快活に、明朗な、そして、円満な音楽を書いた人と思われているなかで、こういうことがある、こういう実験的な大胆なハーモニーを使うことを躊躇しなかったと、ということは、やっぱり、大事な事実でしょうね。決して円満居士ではなかった。さてこの曲も4つの楽章からできています。

 

この一節を、ときにはゆっくり、そして速く、ときには声を大きく、そして間を開けながら話します。それにより、文字面には現われない、ふつうの言語表現では伝えがたいニュアンスを伝えようとしていると思います。ここでは、あえて文字で吉田さんの語り振りを、不十分ながら、「記号」で再現(?)してみましょう。強く言うところは太字、間は秒数で示す位のことしかできませんが、吉田さんが狙った微妙な効果を想像していただけるでしょうか。 


  • 間:(-----秒数-----)
  • 強調:太字
  • 心もち、ゆっくり言うところ<------->
  • 心もち、早口で言うところ[ ------ ] 


だから、当時音楽家(-----2秒-----)、[もちろんのこと]、19世紀にはいってから、理論家のなかに、[これはどうも具合が悪いから、直そう]という(-----1.45秒-----)人がいたくらいです。(-----4秒弱-----)[もちろん、今日の演奏で聴きますと]、その不協和音は、[僕たちは、まあ、いろんな音楽で持って、耳が慣れているものだから]、そんなにひどく、(-----3秒-----)「<いやな音だな>」とふうには感じない。[それからまた、演奏家もまた、とても気をつけて弾いていますから]、えー、うっかり[していると気がつかないかもしれない]くらいなんですけれども。しかし、モーツアルトという人が、あんなに、えー、一般的に、快活に、明朗な、そして、<円満な(-----1秒強-----)音楽を書いた人と思われているなかで>、こういうことがある、こういう実験的な、大胆なハーモニーを、使うことを、躊躇しなかったと、ということは、やっぱり、(-----1秒強-----)<大事な事実でしょうね。>(------4秒弱-----)決して円満居士ではなかった。[さてこの曲も、あの、4つの楽章からできています。]


 とりわけ、「しかし、モーツアルトという人が、」以下の後半の部分を、もう一度ご覧ください。。強弱、緩急、間をうまく使い、最期に4秒近い間を置きます。それにより、「決して円満居士ではなかった」とうい表現の背景に潜む、「重さ」を伝えてようとしているように聞こえます。政治的言語による真実の追究とは全く違う分野ではありますが、吉田さんの言葉の使い方の工夫にも、真実を伝えようとする強い意思を感じます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿