外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

​英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。2/2

2018年05月20日 | 言葉について:英語から国語へ

英語入学試験のアウトソーシング反対派の議論に何が欠けているか?。2/2

女学生試験英語入試アウトソーシング論争の問題点は、賛成派ではなく、主に反対派にあり、というのが一つ目の記事で見てきたことでした。賛成派の議論は、いろんなことを述べていても、その本音は、経費削減、時間節約に尽きます。
では、反対派はどう論駁するか。一つ目の記事の最期に整理してみた反対派の議論の主な問題点は、次の4点でした。

 

① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。
③  全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④ 「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか。


以上は、産経新聞の2月9日(2018年)の記事によるものです。他の論点もありますので、ご覧になるとよいでしょう。
http://www.sankei.com/premium/news/180211/prm1802110022-n1.html 3月19日最終確認

反対派の鳥飼久美子さんは英語の入試は高校過程の学習を理解したかどうかを見るものだということを前提していますが、そうでしょうか。もともとの目的は、大学での学業で英語が必要だから英語の試験が必要なのでしょう。高校までの学習の基準は文部省が定めるものでしょうが、大学というところは別です。大学は一国の学問の水準をリードするところです。その学問に必要だから英語の試験があるのです。ということは、もし必要がなかったら英語の試験をする必要もありません。もっと踏み込んで、どのような英語試験にするか、も大学での学問によります。


ちょっと歴史的に見てみましょう。明治期に、英語の入試が導入され、夏目漱石たちが問題作りに精を出したことでしょうが、当時、必要とされた英語力は、最初期は外人講師の授業が理解できること。そして、ほどなく、英語の文献が読めるようなることになりました。当時必要とされた「英語力」とは、爆弾の作り方をいかに速く、正確に読み取れるか、ということです。そこで、リーディング中心の英語入試が必要とされたわけです。その後、爆弾の作り方から、経済学や繊維、精密機械の作り方へと対象は変化しましたが、文字から情報を手に入れるという能力が中心で、英語で相手を説得するなどという能力は一部の外交官などの特殊技能とされてきました。「英語屋」と彼らは呼ばれていたのですね。今、学校の英語が役に立たないとか、文法偏重だと言われますが、百年前の日本にとっては必要な能力だったのです。問題は、百年前に必要だったことをそのまま、昨年もそうだったという理由でずっと続けてきたということでしょう。

漱石では、今どうすべきか。ここですぐにアウトソーシングに議論を移せば飛躍そのものです。大学が、どのような英語能力を求めているのか再考することが先決でしょう。百年たって変わった点、変わらない点があります。何もかも変わったわけではありません。大学というところは学問を学び、追及するところで、貿易会社ではありません。その点は変わっていないとういうことをしっかり踏まえたら、自ずと英検、TOEIC中心の問題の出し方と違う点が見えてくるでしょう。単語ひとつ取ってみても、TOEICに出されるような社内メールでやり取りされる回数が多いものではなく、普遍的な論理関係を表わす表現を重視すべきだ、と分かるでしょう。TOEICや英検の実際の問題を見ると、速く反応することは求めていても、論理的正確さに焦点を当てた問題はあまり見られません。少なくとも、高校生に論理的な英語表現を理解、作文する能力を高めるような学習へと誘導することはできません。今でも、結果を表わす接続詞のsoを満足に使えない学生が多いと明大教授だったマーク・ピーターセンが嘆いています。こんな現状ですから、アウトソーシングをして責任を回避するするどころか、大学側が、高校生や、高校側にもっと英語学習の要求を高める必要があるというのが現実ではないかと思います。


昔から、大学は国家とは距離をおいて発展してきました。政府が勝手に都合がいいように学問を捻じ曲げる恐れがあるからです。それは今までそうであったし現在も世界中のいたるところで起きています。日本のような新興国家は、そのような自立した大学の成長を待つことができないので、国家主導型でした。そのため、大学は文部省に頭が上がりません。英語入試についても、文部省の言うがままで、大学が入学者にどのような英語力を求めるか、というメッセージを送る意思が見えません。ここで上の①と②の問題点の本質が分かります。


① 大学入試の英語は高校過程の学習を理解したかを試すために行われるのか。
② 大学入試が高校での学習を基準とするものなのか。


中世大学高校過程の学習を決めるのは文部省です。ですから、反対派の議論の論拠としているのは国の権威に頼っているということになり、英語をどう学ぶか、英語で何を学ぶべきかという視点がありません。そこで、「社会の必要」を持ち出す賛成派に対し立場が弱くなってしまいます。ほんとうは、大学入試の基準は高校を基準にするのではなく、大学で必要だからこういう能力を身につけて入学してい欲しいと、大学が自らがが基準を設けるべきです。そうすることによって、文部省が高校の学習をどう規定するかということと関係なく、大学への進学を希望する高校生は大学が示す基準を目指すことでしょう。たとえば、一定の長さの英文を示して、一定の時間に正確に要約できるように、というようなモデルを提示すればよいのです。では、今問題になっている会話、聴き取りの能力はどうでしょう。ここは説明が難しいのですが、以前よりは重視するものの、英語の読み取りの力が第一で、それに次ぐ能力という位置づけがあってもよいと思います。今も昔も、大学は学問をするところだからです。会話力は入学してから必要に応じ学習してもよいのです。

ここまでで、大学の主体性のなさという、ひょっとしたら英語だけはなく、日本の大学の根本的弱さにつながるかもしれない問題が浮き彫りになってきました。その問題をどうするか、という具体論はに二次的な問題なので、ここで論じるのはやめておきましょう。


また、上で述べた残りの二点、
③ 全国一律の高校でのカリキュラムというものの存在を、賛成派と同様、「大前提」としているのではないか、と。
④ 「同業意識」の気分からたんに反対しているだけはないか


も、飛ばして、今まで触れてこなかった点に触れておきます。大学入試を経験した人なら、じつは、たいていの人が分かっていることですが、大学入試の英語問題では英語能力が問われているわけではない!、ということです。世間で難しいという言われる試験に合格した人なら、はは~んと頷くことでしょう。つまり、国語能力です。ちょっと考えてください。日本語に訳しても分からないことが英語で書かれていたら分かるわけがないでしょう。「英語が不得意」な人は、自分の点が低い理由が英語力だと思いがちですが、案外、高校生活を通して、関心をもって新聞や本を読んで来なかったのが原因かもしれません。残念ながら、じつを言うと、国語力を問うという傾向もだんだん弱まっているように思えます。日本語に訳すと小学生でも分かるような内容の英文が、ひたすら字数だけ多く出題されることが多くなっていると思うのです。英語の先生が、「この英文は内容が難しいから真の英語力は問えない」などと言っているのではないかと邪推したくなるのですが、どうでしょう。伝統的な、と、あえて言いますが、英語の入試問題では、「言語は伝えるためにあるのか」(哲学)「温暖化への対策は何がよいか」(自然科学)、「外国人労働者導入は是か非か」(社会)、「おとり捜査は是か非か」(法律)など、こうした内容の議論を正確に理解、考える力が、実質的に問われて来たのです。もちろん一定レベルの語学力は必要ですが、ある程度入試が難しい大学に受かる人は語彙などの語学力では差がつきません。合否を決めるのはこうした問題を理解できるかどうかだと思います。それをあえて「国語力」と言いました。英語の先生のなかには、こうした問題を考えたくもないという人も多いのかもしれません。しかし、案外、以前からの入試問題には、こうした「硬派」の内容のものが多くて、英語の問題を通して知的関心を掻き立てられたという人も多いのではないかと思います。こういう問題は、減らすどころか、高校生にどしどし押し付けたらいいのです。彼らはきっと食いついてくるでしょう。


フランス人さて、この長いエッセイも終わりに近づきました。反対論の問題点を主に指摘しながら、大学の主体性のなさ、英語力と国語力のつながりなどを見てきましたが、最期に、すぐ上に述べたことを、このエッセイの題とは逆方向に、アウトソーシング導入賛成派に欠けているある重要な点につなげたいと思います。それは何か。それは、導入論では言語が<何かを>伝える道具だ、という視点が欠けているということです。人はなぜ語学を学習するのか。それは語学自体を目的としているからではありません。「言語外」の何かを理解したい、伝えたいからです。たしかに最初の頃は言語自体へのあこがれというものがあります。私はフランス語が大学での中心となる言語でしたが、ほとんどのフランス語学習者は「お」フランスにあこがれているだけで、フランス語で何かを理解する、ましてや、伝えるという段階にまで達していません。

英語学習者はこのような状態から速く脱するきっかけが与えられます。上のパラグラフで、典型的な大学入試リーディングのテーマを哲学、科学、社会、法律にわたってあげましたが、こういう問題を考えたい、知りたいからこそ人は英語を学習するのでしょう。さらに進んで、こうした問題についての自分の意見を外国人に伝えたい、間違ってはいけない、と思うので、書いたり、話したりする訓練をする意欲がわくわけです。若い人をそのように導く意図が、いままでの大学入試の問題にもかろうじて見られました。ところが、ちょっとでも英検やTOEICのリーディングの問題を見れば分かることですが、そのような若者の知的関心を掻き立てるような文章はまず登場しません。少なくとも、二度読みたくなる文章はありません。ただただ速く、表面的な論理の間違いをしないことだけが問われます(審議会の先生方は問題を解いていらっしゃるのでしょうね)(註)。これらの試験問題は言語の試験というよりクイズに近くなることもあります。鳥飼さんは、アウトソーシングされた問題では、生徒は技術に走るようになると述べていますが、一回目に述べたように、じっさいにこのことは起きています。このような英語に接するのは苦痛以外のなにものでもありません。電車のなかでTOEICの問題集に取り組んでいる方を見るとその苦労が偲ばれます。試験が終わったら英語学習に関心を失うというのも当然でしょう。

さらに悪いことに、がんらい手段である資格試験が自己目的化すると、人々は点数を上げて人より上に立ちたい(給料を上げてほしい、というのもあります)という動機で英語の学習をするようになります。日本語であれ、英語であれ、自分と異なる考えを持った他者を理解、する、させる道具であるというのが言語の本質であることを忘れ、「人より上に」という欲求の方がだんだん優勢になってきます。この欲求は自分しか見ていないので、コミュニケーションの拒否と言うこともできるのではないでしょうか!。つまり言語の本質の否定です。私が「英会話」を学習し始めたころ、「君は英検1級を取っていないのだから英会話はまかりならぬゾ」というジョークを飛ばす米国人がいました。権力に絡む心理は外国人にも理解しやすいものです。

青春は短い。英語試験のアウトソーシングで余計な技術的な勉強時間を増やすことより、大学が、英語入試を通して、他の教科とも相乗効果を生むような、知的関心を高める学習をリードしなければならないのではないでしょうか。元来は。

註:TOEFLは、あまり知られていませんが、試験の自己目的化を極力避けるように工夫し、コミュニケーションの能力を問うテストになるような試みがいろいろなされています。
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