入試英語、外注断念は喜ばしいことか
感染症、オリンピックの記事に隠れて、大学入試改革の二本柱が導入延期に追い込まれた、という記事がありました。(産経6月23日)
柱の一つは記述式の導入、もう一つは英語の外部試験委託の件です。効率重視の文部省の施策に苦い思いをして、「それはよかった」、と喜ぶ向きも多いのですが、ここで喜んでいいのでしょうか。ここでは、英語外注の件に絞って論じましょう。
文部省の拙速があらわにしたことは、「改革が不要だ」ということではなく、問題の背景に潜む「哲学」、あるいは「思い込み」です。つまり、「何のための英語試験か」という問いかけが水面上に顔を出したのです。ふだん、システムが機能しているときはこのような問いかけは水面下に沈んだまま浮上する機会はありません。今回の「挫折」ははからずも、人々に入試英語の意義を考えるきっかけを与えてくれたと言ってもいいでしょう。
そこで、期を逸せず議論を深め、新たなシステムを構築するよすがにするべきなのでしょうが、ちょっと疑いがなくもありません。日本の過去を振り返ってみて、大きな挫折のあと問題を深く考え、その後の改革に大いに役に立ったということがあったでしょうか。「ざまあみろ」と溜飲を下して、そのあとはすっかり忘れてしまうということがなかったでしょうか。
ちょっと大きな話になりますが、1945年の敗戦と新憲法制定の過程などにもその気配を感じます。ここで問題となるのは憲法学者や哲学者、知識人と言われる人たちのことです。敗戦とともに従来のビューロクラシーが崩壊したのですから、自由に、日本とは何かを考え、論じる機会が彼らに生じたわけですが、米国の意向と共産主義勢力の政治的影響力の狭間で右往左往しているうちに、米国の意向に押し切られたということはなかったでしょうか。私の素朴な疑問なのですが、どうして「憲法」と言わずに「基本法」としなかったでしょう。「憲法」としてしまうと永続的なものになってしまいますが、主権のない敗戦下においてそのようなものは成り立たないのではないでしょうか。「基本法」としておいて、主権恢復後に再考すると規定しておいた方が筋が通っていると思います。たぶん、当時、日本は食べることに必死で、「憲法」など腹の足しならないものはどうでもいいから、脱脂粉乳でもなんでも下さい、アメリカ様!、という心理が広がっていたのかもしれません。
入試問題外注挫折から、憲法の話に広がってしまいましたが、心理的にみれば同じメカニズムが働くことがあり得ると思います。ほっとしてお茶でも飲んでいないで、大学入試にとって英語はどういうものでなければならないか、また、そもそも試験というものはどういうものか、という議論が論壇で行われるようになってほしいものです。
皆さんにも考えるよすがとして、試験と言うものは以下のどれを目的とするのか。その混合形態、妥協点はどこにあるのか、知っている例を踏まえながら考えてみてください。
試験とは?;
A:定員があるので入学者数を絞りこむため。
B:優秀な学生を選別するため。
C:高校生に大学生となるための準備をさせるため。
まず、この問からスタートしましょう。
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