「近所の野良猫に餌をやるおばさんと、世界の飢えた子供への募金を訴えかけるおばさん。この2人、どこがどう違うのだろう。
おばさん達の行動により、野良猫を何匹か、あるいは飢えた子供を何人か救えたとして。しかし、野良猫や飢えた子を取り巻く環境が良い方向に向かわないかぎり、野良猫に餌をやるのも、飢えた子に食事やワクチンを与えるのも、その場かぎりの延命であることに変わりない。
その野良猫や、その飢えた子が救えたとして次に産まれる世代はどうするつもりか?
下手をすると、ただ、おばさんが、やりたいからそうしているだけという結果にさえなりかねない。
人間によって勝手に愛玩動物として大陸から連れて来られたあげくに、人間の都合で野良猫になり、『可哀想』という人間の都合で餌を与えられる野良猫たち。
世界のシステムによりはじかれ、難民にされたあげくに、『可哀想』と募金で生きながらえる飢えた子供たち。
人間の都合で、過酷な状況に追いやられたのに、根本の改革もないまま人間の都合で可哀想と一部だけを救う。
野良猫も飢えた子も一緒だ。
人間の都合で不幸に追いやられ、人間の都合でほどこしを受ける。
戦争で殺される子。
役所に薬殺される野良猫。
飢えて死ぬ子。
車にひき殺される子猫。
全てが、人間の都合が引き起こした結果だ。
そして、都合でソレが可哀想と助けようとする。
都合、都合、都合。
全て人間の都合にあわせて引き起こされたことだと自覚しようともせずに、問題が起これば可哀想と声をそろえて一部の悪者を罵倒し、都合にあわせて意見を変えつつも、やりすぎだとなると、後から『やっぱり、あのバッシングはいきすぎだと思ってたのよ』などと都合良く言う。
子供なんてのは、大人の都合の集大成で産み出された副産物だ。
あらゆる子供は都合でそこにいるとしか言いようもない。
子供が欲しいから。
跡取りが欲しいから。
たまたま妊娠したから。
ぜんぶ都合だ。
現在の日本の子供は親からペットのように育てられている。
その理由はいくつもあるが、問題となるのは地域共同体の崩壊と、『家』そのものの崩壊だ。
だが、一番重要なのは、家の崩壊だろう。
戦後日本はあまりにめまぐるしく価値観が次々と崩壊したので、職業に対する価値観まで崩壊してしまった。実際に、戦後なくなった『職業』も多い。
昔の日本では農家の子は農家になったし、漁師の子は漁師になった。医者の家の子は医者になる教育を受けた。
家を継ぐ跡取りが必要となれば、親は子供を自分と同じような『人間』に育てようとする。戦前までの教育とは、子供を親のコピー人間にすることであった。それで間違いないと親も確信していたし、それで事実うまくいっていた。
だが、戦後に価値観は一変し、多くの昔からあった職業もなくなった。
そして、多くの大人は不安になり、子供を自分と同じ人間にしていいのだろうかと考えた。
だから、自分の職業の未来への展望をなくした戦後の多くの親は、子供に自分とは違う可能性を託す事にした。どこに出しても恥ずかしくない自分のコピー人間をつくる伝統的な教育から、親とは違う新たなる可能性を目指した教育へ日本の教育は移行した。だが、その方法はいまだ確立せず、迷い震えている。
自分のコピー人間とはいえ、人前に出しても恥ずかしくない人間として教育するのと、親とは違う可能性を秘めた子供を育てるのでは、教育方針からして違う。
じつをいえば親と違う人間を育てる教育なんて、まだ方法すら確立してない。
というか、長い子育ての伝統から見るなら、自分と同じ『人間』にするか、なんらかの成功例を基にするしか『教育』の仕方はない。
お手本とすべき基本を失った現代の日本の親は、子供をペットでも飼うようにしか飼育できない。
まさに『猫かわいがり』だ