「俺の正体に気づいたかもしれないあんたをどうするか考えた。本当に気づいたんなら口封じとか記憶を消すとかの対処をしなきゃならない。それで、対処をする前にあんたの事をいろいろ調べさせてもらった。あんたは、あんたを階段から突き落として『死ね』と言ったお母さんを恨んでいるね」
気がついたら、死神はすでに3本めのビールを開けていた。
「恨んでいます」
私は正直に答える。死神にウソは通じないだろう、いや、ウソをつけばそこにつけ込まれると私は直感している。
「まぁ、あんたのお母さんも可哀想な人だな。家族によって追い込まれてしまった」
「どういう意味ですか?」
死神はビールをあおりながら言う。
「あんたのお母さんは、若い頃すでに精神を病んでいたのは知っていたか?」
知らない。
「お母さんのお父さん、あんたのおじいさん、居間の仏壇に飾ってある写真の人だね。この人はあんたの産まれる前に死んでいる」
はい。
「で、あんたのお母さんは何が原因か中学生の頃に精神を病んでしまい学校にもいけずに引きこもりになっていた。まぁ、かなり苦しみ抜いたみたいだよ。その原因の一つは死んだおじいさんにあったと俺は思うんだが確証はない。だけど、お母さんはおばあさんの助けで、大学受験前にいちおう完治したようだ」
はじめて聞いた。
「大学時代も OL 時代にも、病気は再発せず、お母さんは本当に完治したと信じ込んでいた。だから、職場であんたのお父さんに見初められ結婚した。子供も産んだ」
母の若い頃の写真を見たことがあるが、これが母なのかと信じられないほどの美しい女性だ。
「お父さんの親族は誰も知らないけど、お父さんだけはお母さんが過去に精神を病んでいたこと知っていた。立川の直美おばさんが『お兄さんが死んでから、お母さんがおかしくなった』と言うのは間違いで、すでにお母さんは一度おかしくなっていたのだ。いつおかしくなってもいいような予備軍だったんだよ」
そうなのか。
「その事は知っていたが、お父さんはお母さんの心が壊れ物で取り扱い注意なことを理解していなかった。あんたが産まれた年にお父さんに『転勤』の辞令がきた。これは栄転だった。お父さんは意気揚々と家族を引き連れて愛知県にある本社に移った。これはお父さんの会社の出世コースだったけど、まったく見知らぬ土地に引っ越したお母さんの心中は不安でいっぱいで、今にも狂いそうだった。だが、あんたやお兄さんの事を思って必死で踏ん張っていた」
そうだったのか。
「そして、あんたのお兄さんは殺された」
殺された?
たしか兄は事故で死んだと聞いてるんだけど、それは殺されたと表現すべき状況なのだろうか。
「殺されたって?」
「なんだ、あんたはお兄さんの死の真相を知らされていなかったんだ。あんたのお兄さんは幼稚園で、いきなり侵入してきた男に包丁で背中を刺されて死んだ」
兄が殺された!
「『愛石事件』といって有名だ。ちょっと調べれば分かる。12年前、君が1歳の頃の事件だ。その事件でお兄さんを含めて4人の園児が犠牲となり、8人の園児が重軽傷を負った。その犯人は最近になって死刑判決が出たけど、ネットじゃ犯人の手記や獄中の日記が話題になって、一部の狂信者の信仰対象にさえなっている」
知らなかった。
「お母さんの精神の安定は、お兄さんの死によって崩れてしまった。お父さん1人ではもうどうしようもなくなって、せっかくの栄転もあきらめて、お父さんとお母さんの実家がある東京に戻ることにした。今のお父さんは単なる『立川営業所』の営業課長で、残業や休日出勤も『はい喜んで』でなきゃやっていけない」
そうなのか。
「東京に戻りお母さんのお母さんが、全力でカバーしてくれたから、あんたのお母さんはなんとかお兄さんの死を乗り越えたかのように見えた。でも、お母さんにはあんただけが生き残っている理由が分からなかったらしい。なんで、お兄さんは殺されたのにあんただけ生きているのかが釈然としなかったらしい。お母さんは東京に戻ってからどんどん悪くなった」
そうだと思う。
「ところが、あんたが小学校3年生の時だったか。お母さんのお母さん、おばあさんは死んじゃったね。脳溢血だったか」
そう。
「だが、じつはこの時にはじめてお母さんは、お兄さんの死を乗り越えよう意識しはじめた」
えっ?
「たよれる母が亡くなり、はじめてお母さんの心に自分がしっかりしなきゃと踏ん張る気持ちがわいてきたんだ。そして、顔を見ればお兄さんの死を思い出させるあんたの存在や、お兄さんを死の地へ連れて行ったお父さんの存在を許して向き合おうという気持ちになった」
え。
「じつはお母さんの病いは快方に向かい始めていた。とてつもなくゆっくりだったけどね。精神科医に与えられて飲んでいた薬を自ら絶ち、家事に立ち向い掃除をして洗濯をしてご飯をつくるという主婦の日常を取り戻そうと奮闘した」
え!
「一人きりなら家事にまぎれて辛い心を癒せる。だが、人がいると駄目だった。あんたやお父さんがいるとつい心が乱れてしまう。人といるとなんだか自分で自分が分からなくなってしまう。そこで、自分が家族の存在に慣れるまで家族には迷惑はかけないようにしようと考えて、あんたやお父さんが家にいる時はなるべく寝ている事にした。そして、薬を絶ったお母さんの睡眠薬はお酒だった。あんたが邪魔だったからじゃない、自分がいるとあんたの邪魔だろうと考えてお母さんはいつも寝ていたんだ」
言葉が思いつかない。
「あんたのお母さんは、精神の病気だっただけ。でも、家族の為に病気を治そうと努力していた、ゆっくりだけど回復もしかけていた。あんたを階段から突き落としたのだって、春休みであんたと接しすぎてしまいあんたをどう扱ったら良いのかが分かんなくなってこんがらがっていただけなんだ。そんな時、朝食を作ったのに朝食を食べるはずのあんたがあらわれないもんだから、お母さんはどうしたら良いのか分かんなくなって錯乱してあんたを部屋から引きずり出し階段から朝食のある食堂まで突き落とした。『死ね』と言ったのだって、何に対して『死ね』と言ったのか分かりゃしない」
でも、と私は言いかけたがやめた。
「そして、あんたとお父さんは、あんたがたった一度だけ階段から突き落とされたという事実にもとづき、お母さんを入院させた。お母さんの心の平穏は繰り返し行う家事と1人でいる事でしか実現されなかった。たぶん、入院という共同生活を強いられるお母さんの心に安息は2度と来ないだろう。そうなれば完治も望めない。あんたとお父さんは、お母さんを本物の『キチガイ』に仕立て上げてしまった」