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スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

宮ケ瀬ダムその4

2017-10-22 15:09:15 | 日本国内旅行(宮ケ瀬ダム2017)
戦後になって相模川流域は急激に人口が増加し、水の供給が追いつかない状況になりつつあった。相模ダム、城山ダムの2つが既に建設されていたがこれでも不足で、首都圏最大規模となるこのダム建設が計画されたのである。
数々の交渉と工事を経て、ダムが完成に至ったのは2000年。計画発表から29年の月日が流れていた。総貯水量は約2億トンである。現在でも神奈川県は水不足に強く、首都圏が渇水に見舞われた2013年夏も神奈川県だけは取水制限を免れている。先見の明があったというべきであろう。同時にこれは立ち退きに応じて頂いた地元の方々の協力の賜物でもある。
また観光にも積極的にこのダムを活用しているのも特徴である。前述の観光放流に加え、付近を子供連れのレジャー客が遊びに来れる公園として整備している。皆様もお時間あれば、東京から50㎞圏内にあるこのダムを是非ご覧に来られたし。
Wikipedia「宮ケ瀬ダム」

宮ケ瀬ダムその3

2017-10-22 15:08:52 | 日本国内旅行(宮ケ瀬ダム2017)
公園に入ると観光客があふれる。リゾートとして観光客の誘致に成功しているようだ。
愛川町について。近世に入ると愛川町は養蚕で栄えるようになる。かつては一面の桑畑が広がっていたのだという。やがて戦争が始まるとともに神奈川県の中央部は軍事施設が集中するようになった。戦車工場として稼働した相模陸軍造兵廠(現・アメリカ軍相模総合補給廠)、陸軍士官学校が置かれた相武台(この地名自体が昭和天皇からの命名である)などである。愛川町にも陸軍の飛行場が建設され、飛行第22戦隊が進出した。飛行第22戦隊は日本軍で初めて戦闘機「疾風」が配備された部隊として知られている。
Wikipedia「相模陸軍造兵廠」
Wikipedia「四式戦闘機」
戦後は工業団地が進出し、多くの企業が工場を置くようになった。この小さな山間の町にダム計画が持ち上がったのが1971年である。

宮ケ瀬ダムその2

2017-10-21 23:40:37 | 日本国内旅行(宮ケ瀬ダム2017)
ダムに向かう道の途中の景色がこちらである。山深い町で、道のアップダウンが激しい。時折、集団でマウンテンバイクを漕いで爆走している一団がいたりして、世の中タフな人と言うのはいるものだと感心させられる。
愛川町について。歴史の古い町であり、鎌倉時代からその名は記録に残っている。特に戦国時代には、愛川町内の三増(みませ)という地で武田信玄と後北条氏が大規模な戦闘を繰り広げて有名になった。偶発的な経過で発生した戦闘であったが、山岳戦としては戦国時代でも最大の規模の戦闘となり、多くの戦死者が出た。この付近には今でも幽霊伝説などがあるのだとか。戦死された方々の鎮魂を祈るのみである。
Wikipedia「三増峠の戦い」

宮ケ瀬ダムその1

2017-10-21 23:23:29 | 日本国内旅行(宮ケ瀬ダム2017)
ふと思いついて行って来たのが宮ケ瀬ダムである。神奈川県の中央部に位置し、首都圏でも最大級のダムである。周辺は公園などが整備され、ダムも観光放流をするとかで、試しに行ってみることにした。ダムの近くには「県立あいかわ公園」が。この地域が神奈川県愛甲郡愛川町に属するからである。お隣の相模原市は人口70万人を超す大都市だが、愛川町は人口4万人。自然に溢れた小さな町である。
Wikipedia「愛川町」