goo blog サービス終了のお知らせ 

スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

エストニア旅行その7 タリン旧市街

2012-03-20 22:15:09 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、ふとっちょマルガレータの脇を抜けて旧市街に入る。市街に入ると格段に廃屋や空家の数は減る(それでもゼロでは無いが)。壁なども綺麗に塗りなおされており、観光地らしい風情である。
石畳に中世風の町並みが続いており、確かに世界遺産という雰囲気である。時折城壁の塔が路地から覗いたりする。この町を訪れた人が「百塔の町と言われる、プラハ(チェコ)にちょっと雰囲気が似ているかも」と言っておられたのだが、確かにオレンジ色の尖塔は美しいものである。上写真と下左から1枚目は先にも紹介した聖オレフ教会で、塔の高さは今は124mでも、これは大火事で焼けて再建されたもの。前は159mあり、一時は世界で最も高い塔を持つ教会であった。2・3枚目は市街。4枚目は城壁の塔。最後は三人姉妹(Kolm Öde)というホテル。女性的な外見のため呼ばれる、とガイドに書いてあり、??と思っていたのであるが実物を見て納得した。建物の線が直線ではなく、微妙に外に膨らんだ曲線になっているのである。壁も良く見ると全て外に向かって膨らんでいるのだ。



エストニア旅行その6 ふとっちょマルガレータ

2012-03-19 23:22:33 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、いよいよ旧市街内部に向かう。道を歩いているうちに目に入ったのが写真の塔。ふとっちょマルガレータ(Paks Margareeta)である。タリン防衛のために作られた砲塔で、なかなか堂々とした砲塔である。この脇にあるのがスールランナヴァラヴ門(Suur Rannavärav)で、下左から2枚目の写真。砲塔の中は現在は海洋博物館になっている。また、この建物の脇には機雷を集めた機雷の博物館(バルト海は波が少なく、機雷戦には適していた)もあるが、いずれも今回は見学せず。マルガレータについて言えば、屋上に登って景色を眺める事も可能らしいので、行ってみる価値はあったかも知れない。下右の写真はちょっとぶれてしまったが、1918年-1920年のエストニア最初の独立を成し遂げた独立戦争の時、援軍に来てくれたイギリス海軍の兵士を記念するプレートである。後に訪れた聖霊教会でもこの兵士達はたたえられていた。エストニアにしてみたら余程有難い応援であったのであろう。
Wikipedia「Estonian War of Independence」



エストニア旅行その5 タリン旧市街

2012-03-19 21:54:58 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、港からしばらく歩けばタリンの旧市街である。観光ガイドには徒歩20分ほどと書いてあったが、アイスバーンで足場が悪く、実際にはもう少しかかった印象である。
港からでもはっきり見える写真の塔は聖オレフ教会(Oleviste Kirik)の塔である。高さ124mだそうである。近づくにつれて周囲の古い建物も目に入って来る。世界遺産にも指定されたタリンの旧市街である。周囲には古い建物が立ち並ぶ。ただ周辺部には空家や廃屋も時々見受けられた。不景気の影響なのだろうか。
もともとはトーンペア(Toompea)という海抜45mほどの丘があり、そこに土着のエストニア人によって砦が築かれたのが町の始まりだそうである。13世紀にデンマークに占領され、この丘の上、すなわち山の手には貴族階級が住みついた。その後スウェーデンのゴットランド島、ヴィスビー(Visby)からドイツ系の商人が丘のふもとに移住して下町の市街が建設されたのである。これにより山の手と下町からなる現在の旧市街の形となった。



エストニア旅行その4

2012-03-18 22:47:06 | 旅行(エストニア・タリン2012)
エストニアで使用される言語はエストニア語であるが、これはかなり独特の言語である。スウェーデン語と隣国のノルウェー語・デンマーク語はかなり近い言語で、実際お互いに殆ど勉強していなくても会話出来てしまうという話も聞く。これに対してエストニア語は中央アジアに起源をもつ言語であり、それに中世から移住してきたドイツ系住民のドイツ語の影響が加わって完成したものなのだと言う。どちらかと言うとフィンランド語に近いそうだ。町を歩いていても少し不思議な感覚にとらわれる。上写真は「ホテル・ヨーロッパ」と書いてあるのだが、良く見るとhotelにlが1個多く、Europeにはoが1個多く入っている。この手のaa、ooなどの母音の連続はこれ以外にもあちこちの看板で見かけた。下写真の1番左はタクシーの列であるが、良く見るとtaxiがtaxsoになっている。
前にも述べた通り、独立して資本主義体制になったのは1991年であった。1994年にエストニアを旅行された方を知っているのだが、その方に言わせると、その当時は町を歩いていてもかなり経済的に貧しい国という印象を受けられたそうである。しかしその後外資系企業を受け入れ、高い経済成長を成し遂げる事に成功した。「バルトの虎」と称されるまでになったのである。が、その後2008年にリーマン・ショックが発生。せっかく軌道に乗っていたエストニア経済もかなりの打撃を受けた様である。失業率は一時16%を突破、その後大分改善したが、現在でもまだ10%を超えている。
外務省・エストニア共和国
スウェーデンとも経済の繋がりがあり、エストニアで現在最大の金融機関はスウェーデンのスウェドバンク(Swedbank)である。下写真の左から2枚目はスウェドバンクの看板。町を歩いていてもスウェドバンクの看板はあちこちで見かけた。3枚目は現地でお釣りで貰った硬貨。エストニアは2011年に通貨としてユーロを導入した。写真は20セントと5セントの硬貨で、上下で表裏で並べたところである。ちょっと写真では見づらいが裏には上に2011、その下にエストニアの地図、その下にEESTI(エストニアの意)と書いてある。



エストニア旅行その3

2012-03-18 20:55:41 | 旅行(エストニア・タリン2012)
さて、ターミナルに無事到着、外に出てみる。ストックホルムよりも格段に肌寒い。道にも雪が残り、一部アイスバーンとなっている。奇妙な話だが、外に出た瞬間に気になったのは「匂い」。煙草の匂いである。正確なデータは知らないが、道を歩いた限りでは、喫煙率は格段にスウェーデンよりも高い印象である。周囲の建物もちょっと雰囲気が異なる。ロシアの文化の影響か、少しスウェーデンとは趣の違う町なのだ。上写真はターミナルを出た所の風景で、遥か奥にはタリンの旧市街が見える。
さて、エストニアについて少し。まずはウィキペディアのエストニアの記事と、首都タリン(Tallinn)の記事をどうぞ。
Wikipedia「エストニア」
Wikipedia「タリン」
ベルギーやニースもそうだが、大国に挟まれる地域と言うのはどこも大変な思いをするものである。ましてヨーロッパは地続きである。戦争、占領、再度戦争というサイクルはこちらでは当たり前の歴史なのだ。エストニアの場合、この地を占領したのはデンマーク、ドイツ、スウェーデン、ロシア、ソ連などである。実際、近現代史のなかでエストニアが国として独立しえたのはわずか2回だけである。1回目は第一次世界大戦から第二次世界大戦の戦間期、2回目は1991年以降である。第二次世界大戦末期にはドイツ軍とソ連軍の激戦の舞台となり、最終的にソ連の占領下に置かれた。そして多くのエストニア人が戦後に強制収容所に送られた(興味のある方は宮崎駿の「泥まみれの虎」という本を一読されたし)。エストニアの国旗は上が青、中央が黒、下が白という構図だが、中央の黒はエストニアの大地を意味すると共に、エストニアが経験した非占領下の暗い歴史を象徴しているのだと言う。
Wikipedia「エストニアの国旗」
新聞から
下写真は左から、1枚目が波止場の出口にあったエストニア国旗、2枚目3枚目はターミナルを出た直後の風景、最後は港から少し歩いた所にあった教会である。



エストニア旅行その2

2012-03-18 19:31:39 | 旅行(エストニア・タリン2012)
エストニアとスウェーデンの間には1時間の時差があり、上写真の様に船内の時計には短針が2つ付いている。良く見てみると、短針の先の方にスウェーデンとエストニアの国旗が小さく書いてあるのが見えると思う。船室はおおむね快適で、ちょっとベッドは狭めではあったが良く眠れた。しかし自分の体がちょうど収まるくらいの大きさのベッドだったので、一体スウェーデン人があの大きさのベッドで本当に大丈夫なのか、今でも謎である。
船内はいくつもの階層に分かれており、レストラン、バー、子供用の遊び場まで完備している。また免税店もある。船の上では税金が掛からないため、商品、特に何と言っても酒の値段が下がる、という噂は聞いていた。しかし実際に自分の目で見てみるとそこまでの差は無いようにも感じる。確かに安いものは安くなっているのだが。。。しかし周囲の人間はどうも「安い!」という前提の元で行動しているらしく、買うこと買うこと。中にはキャリアーを持ち込み、ビールを5箱6箱と買い込んでいく人も決して少なくない。そして深夜になるとかなり酒を飲んだらしき人がデッキにちらほら。きっと翌日は二日酔いであろう。
自分は酒が飲めないのが幸いした?のか早く就寝し、翌朝比較的早く目が覚める。昨年の冬はバルト海が凍結して船の運航まで停止、大騒ぎになっていたのであるが、今年は暖冬のせいか殆ど流氷を見ない。わずかに時折流氷が集団を作って漂っているのを数回見かけたのみである。
タリンの港に到着したのは翌朝昼前。船首からは次々に乗用車やトラックが吐き出されていく。船があちこちに並び、中々壮観である。下写真は左から、船から見た流氷の集団、船の階層図、最後の2枚がタリン港でのビクトリア1号である。



エストニア旅行その1

2012-03-18 18:35:40 | 旅行(エストニア・タリン2012)
読者の皆様はエストニア、と言われてどこにある国か、すぐお分かりになるであろうか?恐らく日本人にはなかなか馴染みの無い国では無いかと思う。しかし日本人の日常と全く縁が無い国では無い。まず、大相撲の大関・把瑠都関の出身国である。またパソコンを良く使われる方であれば、インターネット電話のスカイプ(Skype)のサービスを御存知と思う。このSkypeが開発されたのはエストニアなのである。
Wikipedia「把瑠都凱斗」
Wikipedia「Skype」
エストニアはスウェーデンから見た場合、バルト海を挟んでちょうど対岸に位置する形になる。なので、旅行するのであれば飛行機のほかに船で行くという選択肢がある。タリンクシリヤライン(Tallink Silja Line)という会社が船を運航しているのである。
Tallink Silja Line
恐らく日本に帰れば、中々ストックホルムからバルト三国まで船で行くという旅行はしないであろう。一回行ってみることにした。インターネットで予約を取り、ストックホルムの波止場に向かう。送迎バスも出しているのでストックホルム外の都市在住の方はこれで直接波止場に行く事も可能である。船は夕方にストックホルムを出て、翌朝タリンに着く。上写真は今回乗るビクトリア1号。下左から1枚目は波止場のターミナル。2枚目は送迎バスであるが、バスの車体にはどこにもTallink Siljya Lineとは書いていない。はて?と思って見ると、車のフロントガラスのところに紙が置いてある。何気無く見ていたら見逃してしまいそうだ。3枚目は出航後、遠ざかる夕闇のストックホルム市街である。