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スウェーデン生活+その後

2010-2013年スウェーデンに在住し帰国。雑記、鳥・植物の写真
*海外情報はその当時のもの。
*禁無断転載

クロアチア旅行その8 旧総督邸

2012-08-11 23:19:03 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
昼食後、市街を少し観光する。写真は旧総督邸(Knežev dvor)である。この都市はかつてラグーサ共和国という独立国家の首都であり、その元首がここに住んでいた。現在でもドブログニクのイタリア語呼称はRagusaである。ドブログニク、ラグーサ共和国についてウィキペディアを。
Wikipedia「ドブログニク」
ラグーサ共和国は14世紀から19世紀まで数百年に渡って存続し、海洋貿易で大いに栄えた。ヴェネツィア共和国とオスマントルコという強国の間に挟まれて独立を維持するのは大変であったが、巧みな外交術で全て切り抜けてきた。周辺地域で絶えなかった戦争に殆ど巻き込まれなかった事は特筆ものである。総督は選挙で選ばれたが、権力の独占を防ぐために任期は1カ月のみ、再選も禁止であったという。この体制で危険な国際情勢の中数百年間国家として存続できたのであるから、非常に興味深い政治体制を持った国であったと言えよう。ラグーサ共和国は最終的にナポレオンによって征服されて終焉、ナポレオン失脚後はオーストリア帝国に支配を引き継がれていった。
上写真は旧総督邸の外見。下は柱の彫刻とドアのノッカーである。内部はそれなりに見ごたえがあるが、冷房がないためちょっと暑い。乾燥しているためか、日陰に入れば日本よりは楽なのであるが。。。


クロアチア旅行その7 昼食

2012-08-11 22:00:14 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
さて、昼食である。いかんせんスウェーデンでは中々海産物で良いものがなく(鮭は良いのだが。。)、こちらではシーフードを楽しみにしていた。特にイカやタコはスウェーデンのスーパーでたまに見かけるが、ちょっと感心しない鮮度なのである。申し訳ないが。。

ICAのイカ
と言う訳で、旧市街の裏道にあるカフェに入ってみた。上写真が手長エビのグリル、下左写真がイカリングである。どちらもシンプルな料理であるが、感動的に美味かった。付け合わせの野菜でもスウェーデンのものよりも美味く感じる。水は炭酸なしのミネラルウォーターを頼んだところ、下右写真のJanaと書いてあるボトルが出てきた。これはドブログニクでは余程有名なブランドらしく、海岸線のビーチパラソルでもよくこの文字が書いてあるのを見かけた。良く見ると隣のグラスにもJanaと彫ってある。旧市街で買うと1.5L入りペットボトルで大体7Knくらいであったと思う。




クロアチア旅行その6 オノフリオの噴水・プラツァ通り

2012-08-11 20:08:15 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
空港から30分ほどでドブログニク旧市街のピレ門(Vrata od Pila)に到着である。旧市街は一周2kmの城壁に囲まれており、美しい景観を保っている。城壁は8世紀ごろからあるらしく、周囲には堀が掘られている。かつてサラセン海賊の包囲戦を撃退した城壁も、今は観光スポットとなり掘の下には道路が建設されている。
ピレ門から市内に入ると、最初に目につくのはオノフリオの噴水(Velika Onofrijeva fontana)である。ナポリ出身のオノフリオが設計した噴水で、12km離れた川から水を引いている。元はかなり派手な装飾がなされていた様であるが、大地震で装飾は失われ今は基部だけが残る。16個の噴水の頭部だけが元の姿のままらしい。見ていると周囲の観光客も水をペットボトルに詰めて飲んでいるので、恐らくは飲用可能なのだろう。自分は試していないが。
ピレ門からまっすぐ街を東西に貫くのがプラツァ通り(Placa)である。市街のメインストリートで、狭い旧市街の中でここだけは例外的な広さを持つ通りである。かつては海峡で、ラテン系とスラブ系民族を隔てる境目になっていたそうであるが、両民族の融和が進むにつれて埋め立てられていったそうである。この周辺は平坦であるが、ここから北側の路地には階段が目立ち、かなり急な斜面になっている。ホテルなどの予約の際にはお気をつけあれ。なお、車いすの方が観光している姿もそこそこ見かけたが、大体付添の人と共に観光していたし、階段や段差が観光名所にかなり多い事は事実である。下写真は左から1枚目がピレ門の外側、2枚目と3枚目はオノフリオの噴水、4枚目と5枚目がプラツァ通りである。


クロアチア旅行その5

2012-08-10 23:27:11 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
空港からバスで市街に近づく。この近辺は急斜面であり、道路はいずれも切通しの様な状況である。中には一方通行の道路も見える。しかしこの急斜面から見下ろす海の光景は美しい。青い海面に船が浮かび、その脇を玩具の様に見えるクルーザーが通り抜けて行く。
紛争の続き。包囲は7カ月に及んだが、結局街が陥落する事はなかった。現代の戦争は良くも悪くも情報戦、宣伝戦の側面がある。この包囲戦もクロアチアサイドの宣伝に最大限に活用されたのである。前述の通りこの街並みは世界遺産であり、これが砲撃を受けている(画像をご覧になりたい方は、「Dubrovnik, war」でyoutubeなどで検索されたし)状況は西側ジャーナリスト達によって各国に報道され、国際世論の形成に少なからず貢献した。圧倒的に悲惨な戦場で死傷者数もケタ違いであったブコヴァルよりも、こちらの方が注目を集めるというのは何とも皮肉であるが、情報戦というのはそういうものなのだろう。
最終的に街を救ったのは隣国ボスニア・ヘルツェゴビナでの内戦開始である。人民軍側は部隊の一部をボスニア・ヘルツェゴビナ側に移動せざるを得なくなり、この機に乗じたクロアチア軍の攻撃で撤退して行った。ドブログニクとしては良かったのであろうが、このボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はユーゴ内戦の中でも最悪かつ最も悲惨な戦闘となる。民族浄化という単語は皆様も聞き覚えがあるだろう。なお、イビチャ・オシム前日本サッカー監督はこの内戦の体験者である。(戦火は逃れたが、戦地の家族と離れ離れになる体験をしている)
Wikipedia「ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」
戦争の話を少し長く続け過ぎてしまった。ひとまずは美しい景色の写真を何枚かご覧頂きたい。下右がバスから見えたドブログニク旧市街である。


クロアチア旅行その4

2012-08-10 22:45:03 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
戦争に突入したクロアチアであるが、最大の問題は戦争の準備が殆ど出来ていなかった事である。ユーゴスラビア人民軍が300両以上の戦車とジェット戦闘機を装備していたのに対し、クロアチア陸軍の戦車は1940年代の主力戦車T-34を含む数両、空軍の主力はアントノフ2(AN-2)であった。アントノフ2の画像をご覧あれ。
Wikipedia「Antonov AN-2」
軍隊の動員も進んでおらず、結局最初のうちは戦闘を警察官達に頼ることになる。しかしながら人民軍側の手際の悪さも手伝ってクロアチア軍は予想外に善戦、東部のブコヴァル(Vukovar)などでは狭い市街地で激戦が展開された。
Wikipedia「Croatian War of Independence」
そしてドブログニクも戦場になるのである。1991年10月、ユーゴスラビア人民軍7500名が国境を越えて前進、ドブログニクは包囲された。食料、水、電気の供給は断たれ、周辺地域からは避難民が市内に流れこんだ。そして市街も繰り返し砲撃を受けるのである。
Wikipedia「Siege of Dubrovnik」
ドブログニクもまた戦争の準備は不十分であった。警察官達と志願兵が守備に当たり、海上では民間からかき集めた船舶が人民軍艦隊の海上封鎖を突破して医薬品や武器を運んだ。小さな島が複雑に入り組んだこの地方の地形も有利に働いたのであろう。
市街に対して12月6日には最大の砲撃があり大きな損害が出た。上写真は現在のドブログニク市街であるが、良く見ると建物の脇に写真が貼ってある。下写真が貼ってある写真を近くで撮ったところで、12月6日の砲撃でこの建物が直撃弾を受け、炎上した事を示している。


クロアチア旅行その3

2012-08-09 22:32:10 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
空港から市街に向かう。起伏のある独特の風景である。糸杉の木が多いが、これはかつて夫婦が結婚の折に苗を植える風習があったからだと聞いた。
クロアチアについて。この周辺地域は文明の十字路であり、非常に複雑な歴史を持つ。特に民族問題は非常に根深い問題である。ウィキペディアのページを。
Wikipedia「クロアチア」
今の若い世代の方であれば、「ユーゴスラビア」の名を既に御存じで無い方もいるのではないだろうか?この地域一帯は1991年までは一つの大きな国家であったのだ。多民族、多宗教を抱える国家であったが、指導者のチトー(Josip Broz Tito)のカリスマもあって統合に成功していた。しかし東欧革命のあおりを受けて悲劇的な内戦への道が始まる。
そもそもこの内戦の原因は何なのか?さまざまな説明がなされているが、現地ガイドの説明によれば最大の原因はただ一つ、「勤勉な北部がお金を稼いでいるのに、南部にそのお金を吸い取られるのは不公平であると感じた」という事だとの由(実際、旧ユーゴスラビア最北部のスロベニア(Slovenija)などは勤勉な国民性で知られ、独立後には最も経済的に成功している)。この経済事情に民族間の古い歴史の恨みが重なり、次第に手が付けられなくなってしまったのだ。1991年6月、スロベニアとクロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言した。
1991年9月と言えば、日本の皆様は何をしていたであろうか?大ヒット曲となった「ラブストーリーは突然に(小田和正)」や「Say Yes(CHAGE&ASUKA)」を口ずさんでおられただろうか?あるいは同年5月にオープンした東京の新名所、「ジュリアナ東京」で、お立ち台で踊り狂う女性達をニュースで見ておられただろうか?
その同じ頃、ここクロアチアは国家の命運をかけた状況に突入していた。独立を認めないユーゴスラビア人民軍は9月22日にクロアチアに攻撃を開始、全面戦争となったのである。クロアチア紛争の始まりである。

クロアチア旅行その2

2012-08-09 22:02:57 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
今回訪れるのはドブログニク(Dubrovnik)である。クロアチア南部に位置する街で、旧市街は世界遺産にも指定されている。クロアチア本土とは地続きではなく、ボスニア・ヘルツェゴビナ領を挟んで飛び地という形になっている。写真のドブログニク空港から市街まではバスで30分程度。小さな空港であり、飛行機への乗降は写真の様に出入り口にタラップ車を付けて行われる。ただ空港そのものは新しい建物である。
クロアチアの通貨はクーナ(Kuna)である。1クローネと1クーナを比べると、若干クーナが高い程度である(2012年8月現在、1クーナ=12.9円、1スウェーデンクローナ=11.7円)。下写真がクーナ紙幣の現物である。クーナは略称で「HRK」と記載されるが、これはクロアチアの現地呼称がフルヴァツカ(Hrvatska)である事に由来する。我が国の英語呼称が「Japan」でも日本語では「日本」であるのと同様である。またクロアチアはシェンゲン条約の締結国ではなく、スウェーデンから訪れる場合にはパスポートのチェックがある。締結国を訪れる場合に比べると若干の時間的余裕を持って空港に行く事をお勧めする。日本人であれば、90日以内の滞在にビザは必要ではない。



クロアチア旅行その1

2012-08-08 22:41:14 | 旅行(クロアチア・ドブログニク2012)
さて、夏休みの時期はまだ続くので、もう一つ旅行に行く事とした。行き先はクロアチア(Croatia)である。
特に日本にお住まいの方であればクロアチアと言われて、一体どこにある国か、そしてどんな国なのか、すぐに出てこない方も多いのではないだろうか?自分も欧州に来るまでは全く知らなかった。イタリア半島の東側がアドリア海であるが、イタリアを挟んでそのアドリア海の対岸に位置するのがクロアチアである。宮崎駿監督の「紅の豚」の舞台となった場所とも言われている。
結論から言えば、非常に美しい国であり、観光地としてはお勧めできる。南国、透明度の高い海、かつて2つの強国に挟まれた貿易立国(ラグーサ共和国はヴェネツィア共和国とオスマン・トルコの双方と取引した)、そして近代における戦争の記憶。。。とくると何となく連想するのが沖縄県である。実際沖縄県がお好きな方であれば、恐らくクロアチアの観光も気に入って頂けるのではないかと思う。
スウェーデンからは飛行機で大体3時間弱。高度が下がると海の青さが目に飛び込んでくる。兎に角海が「青い」のである。日差しはスウェーデンとは比べ物にもならない程強い。山の多い海岸線と、無数の島が目につく。
ちなみに、クロアチアは英語では「クロアチア」よりも「クロエイシャ」という発音に近い。ご注意あれ。