皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

『ありのまま』でいいか

2010-12-08 00:09:38 | かえるの泳ぎ方

過去記事で、「菊と刀」を何度か引用していますが(ワタシが影響を受けた著作の一つです)、急速に変化する社会情勢の中で、日本人が日本人として存在し、継承してきた文化、生き方、観念、道徳などは、過去に書かれた研究論文などの他にも、地域で受け継がれているモノ、何百年、何千年と受け継がれてきたモノから、現代社会に組み込むことは、とても有意義なことだと思っています。
そんな中で、アメリカという異文化の中で生活し、これほどまでに『日本人』という存在について深く洞察し表現された書籍には、現代を生きる上でも素晴らしい得られて、ワタシ個人は事ある毎に何十回と読み返したりしています。

wikipedia 「Ruth Benedict(著者)」へのリンク

ワタシ個人も、日本という土壌・文化において、日本人の幼児・児童に関する『無条件な受容と寛容さ』は、とても素晴らしい気質であると思います。

ヒトとしての安定感を育むのは、こういう幼少期の体験が大きく作用し、そういう土台の上で様々な経験を通して人格が形成されていく。
ヒトはまず、表現することによって、他者への意思表示を行うものだと思う。
何らかの事情で意思表示を阻害される、という状況は、ある種の抑圧状態であり、閉塞的な空間に溜め込まれたあまり宜しくないエネルギーの蓄積になるのではないかな?

先に取り上げた「菊と刀」は、太平洋戦争下でアメリカという国が、自分たちにとってあまりにも理解しかねる日本人の行動形態に対して、日本人という固有の文化を持つヒトビトの倫理や価値観や行動指針などを分析し、『戦争』という極限状態において、アメリカ人が持つそれらとはかけ離れた、ある意味『意味不明』な人種に対して如何に対処するか、ということに主眼を置いて研究された『比較文化論』であるが、Benedict女史のその記述には、『異文化人から観た日本文化だけでなく、日本人の生活に直結する思考や認知』が刻銘に示されており、現代を生きる日本人にとって、非常に参考になることが多い。

~~~前置きはこの辺で~~~

【子供について】

オリエント(東洋)とオクシデント(西洋)では、社会形態とか大きな範疇での相違もさることながら、生活という場面での相違もかなり大きい。
単純にオリエント(東洋)と言っても、様々な国がある中で、日本固有と諸外国のヒトが感じることは、ヒジョーに大きい、というのは様々な分野で語られている(様である)。

高度経済成長、合理的経営、市場原理主義、核家族化、地域の連帯感の希薄さ等々。
『古き善き日本人』という、曖昧かも知れないけど、日本人としての良さが、急速に失われつつある中で浮上するモンダイに、昨今のこのカテゴリとかそれに関連するモノも多大に影響を受けているだろうな、とワタシは感じる。


『幼児がありのままに表現し、発言することは、喜ばしく微笑ましい。』というのがワタシの考え。まずは受容であり、先回りせず見守る。当然自分の『慢』や『欲』を押しつけることは、なるべく差し控えること(大人も日常生活で疲弊して、ついついイライラしたり、余裕がなかったりするので、仕方がないこともあると思う。)
ただ、高圧的・威圧的にそれらを表現できない状態に追いやっているのは、大人の側のモンダイだと思う(傷つく方にはごめんなさい)。

そして、そういう表現や発言、行動を子供が起こした結果として、どういうことが起こるかということは、年齢を重ねる毎に本人が体験していくことだと思う。
それに対して、先を生きるヒトとして語ってみたり、ちょっとしたヒントや軌道修正のきっかけなどを提供してみることも大人の役割だろうが、『過剰に干渉しない』ということが肝の様に思う。
なんせワタシを含め(ワタシなどは最たるモノ)、大人も自分が経験し、学習し、考えた『小さな範疇のジョウシキ』しか備えていない訳であるのだから、ヒトの力を借りたりして一緒に考えていくことが大事な事だと思う。

そんな中から『ありのまま』でいいのか、自ら変化していく道を模索していくのかを考えることに繋がるんじゃあないかな?

【成人について】
成人にとっては、基本的に『生きていくことは自己責任』だと思う。
ワタシの経験上、『ありのまま』で生きていけるほど、世間というものは温くない。

ヒトが生活をしていく上で、まず自分が生きていく方法を模索することになるだろう。
家庭を持てば、家族と共に生きていく方法も当然考えることになる。

社会とは形の決まった世界ではないが、多くのヒトはまず「生活・収入の安定」等の理由から、雇用という形態を選択することが多いだろう。
雇用してもらうには、雇用主と労働者間の利害の一致が大きな要素となる。雇用主としては、『自社にとって利潤を生み出す有能な労働者』を求めるだろうし、労働者は『自分自身の労働に対する条件』などがあるだろう。
双方の思惑が一致する、ということはとてもレアケースだと思う。

雇用というのはやはり、雇用主の思惑に大きく左右される。事業者としてどういう事を理念に掲げ、社としての利益を追求することになるわけだから、少なくとも最低限の『枠』に填ることは要求されるだろう。
その要求は、建前上は「ジョウシキの範疇」ではあるのだろうが、その「ジョウシキ」は社によって大きく異なる(反社会的行為や、社の風紀を乱す、大幅な損益を与える等は論外だが)。

そう言う中で『ありのまま』で通すことは、レアケースを除いてまず不可能に近いだろう。
では『ありのまま』がダメかと言えばそういうことでもないと思う。

まず、社の方針とかやり方を、はじめはなるべく口を出さずにじっくり観察する。年齢とか経験を問わず、常に先に入社した諸先輩のご意見を拝借する(もちろん聞く前に自分で考えておくことも必要)。
自分自身が知っていると思いこんでいることも、そうでないことは多々ある。
ワタシの経験上では、当分の間は考えや方法が異なる、と思っても先達のご意見に従ってみる。

まずは一つ一つを丁寧にこなし、必要以上の言葉を慎む。ということのように思う。

そういう過程を踏まえた上で、丁寧な言葉遣いに注意を払って、自分が思うことはあくまで自分の意見として発言する。当然相手にも考えがあるのだから、傾聴の姿勢を崩さず。それらの意見の集合からどういう方法が適しているかを独断では決定しない。
(ただし、どうしても相容れないこと、というものが起こる場合もある。が、それに対しては感情的にはならないこと)

だいぶ『ありのまま』が通用しないが、これらは本来なら生まれてから今までの日常生活で、常にヒトと接する際に得てきた経験が、ワタシ(ワタシですよ)としては不足していて、技として使えていないというところが大きいだろうなあ。


さてもうひとつ。
ワタシがこういうことを書くと、「開き直りかよー」とか、「舐めてんじゃねーか」と言われかねないが、雇用して頂く側に立たない方法もあるということ。

こういうのは、既定路線から外れていると思われがちな上に、どういう経過で積み重ねていくか、というのに教科書的な事例などが存在しないことから、自分で作り上げていくことになる。

社会ってもの凄い量の職種がある。ヒト一人に見えている職種は、ものすごーく限られていて、そんな生き方なんてあるんだ、と思うことのほうが圧倒的に多い。

「生産性がない」ということに、とことん打ち込んでいくこともいいだろう。
「箸にも棒にもかからない」と言われ続けながらも、果敢にアタックしていくこともいいだろう。
「人脈を拡げて新たなることに挑戦する」のもいいだろう(こういうのが一番不得意と思っているワタシも視点を変えてみるのもいいかな)。

 

『ありのまま』が人格を指すのであれば、それは『ありのまま』でいいと思う。
ただ環境に応じて『ありのまま』に変化を加えることは、自他の成長の過程においては必要かな。


成人にとって大きな壁は「履歴とかによって一貫性のない人生」と他者に一刀両断されることや、体調に波があって、常時継続して一定量の力量(他者が求めるであろう)を維持し続けられない、ということは大きいだろうな。


最後に、ほんとうに必要最小限の通貨というモノと、それ以外の様々の関係性の中で生きていく、という選択肢もあるということ。
これについては、今のところワタシ自身も漠然としか纏まっていないので、この記事では割愛。


でもね、世界は広いんだよ。
少なくともワタシは、生きている間は努力し続けたいな。



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