皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

ウェクスラー成人知能検査 -知能の本質-

2008-11-14 09:49:27 | ウェクスラー知能検査

ウェクスラー知能検査を知るため、原版開発者 David Wechsler の著書「The Measurement and Appraisal of Adult Intelligence (邦題:成人知能の測定と評価 茂木茂八他訳) 1972」に書かれていることを考察していくことにします。

知能の本質

「知能」と「知性」の意味の違いを明確に表現することは難しい。
辞書を引いてみると(「大辞林」参照)

知能: 物事を理解したり判断したりする力。「―の高い動物」 心理学で、環境に適応し、問題解決をめざして思考を行うなどの知的機能。

知性: 物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。「―にあふれる話」「―豊かな人物」 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力。

Wechslerはこの知能(intelligence)と知性(intellect)の違いを明確にし、知能に関する定量的測定法を研究し実用化したものが現在もなお使われているウィクスラー式知能検査「WAIS」「WISC」である。

いわゆる「社会性」という範疇に入る能力は「社会的知能(social intelligence)」と呼ばれ、子供の心の発達との関連で近年注目されている。もっとも、社会的知能は本質的にパーソナリティの問題であり、厳密な意味での知能とは区別する向きも多い。

このように、知能には実にさまざまな側面があるため、個人の知能を客観的に評価する場合には注意が必要である。各々の知能検査が考案されている。知能検査の結果を表示するのによく使われるのが知能指数である。しかし、一般社会で知的能力と考えられるものを全て計測することは、無論不可能である。しかしながら、ごく普通の人間集団に施行したときに、かなりの程度その人の社会的適応度と相関するのも、また事実である

一人の個人の中でも、言語的知能は高いが数学的知能は低いなど、ある程度のばらつきがあるのは正常である。しかしある種の発達障害(特に自閉症など)では、知能の下位領域ごとに大きくばらつきがあることが多い。

知能は生涯を通じて一定のものではなく、変化していく。成長に従い伸びる知能もあり、逆に衰える知能もある。精神・神経疾患のうち知能低下が最も顕著なのは痴呆性疾患である。また、知能の発達が社会的に不十分な場合は知的障害と呼ばれる。

<ウィキペディア 知能 より引用>

 知能を機械的に定義すれば、自分の環境に対して、目的的に行動し、合理的に思考し、効果的に処理する個々の能力の集合的または全体的(aggregate or global capacity)ものである。
集合的または全体的なものであるという理由は、完全に独立しているのではないが、質的に異なるいくつかの要素または能力によって構成されているからである。
最終的にこれらの能力の測定によって知能を評価するのである。しかし、知能は、これらの能力を含んではいるが、単なる合計と同等のものではない。
このことについては3つの重要な理由がある。

1. 知的行動の終局の産物は、たくさんの能力あるいはそれらの特質についての関数であるばかりでなく、その中でそれらのものの配列を結合する方法の関数でもある。
2. たとえば、誘機と動機のような、知的能力というよりも他の要素(因子)が知的行動に含まれる。
3. 知的行動の種類によって、種々さまざまな程度の知的能力が要求されるのであるが、持っている能力の余分なものは、どちらかといえば、ほんのわずかしか全体としては行動の効果に参加しない。

 一般知能に関するかぎり、知的能力というのは、必要にして最小限度だけ参加するのである。このようにして人間が知的に行動するためには、たくさんの事項を思い出さなければならない。すなわち、強健な記憶を必要とするのである。しかし、この能力は、ある程度以上になると、生活場面にうまく対処していこうとするのにはあまり役立たない。このことは、さらに重要な才能、たとえば特に専門化された推理能力についてさえも当てはまる。
数学者の非凡な推理能力というのは、完全な記憶というよりも、結局、知能として判断する(評価する)ことに、より以上に高い相関を持っているのである。しかし、この能力を所有していても、全体としての行動が、上に定義された意味において、まさに知的なものであると保証されていない。読者は誰でも、ある特殊な分野では高度の知的能力を持っていながら、一般知能については平均以下であると、躊躇することなく評価できるような人を思い浮かべることができるであろう。

 知能は単なる知的能力の合計ではないけれども、それを量的に評価することができる唯一の方法は、これらの諸能力をいろいろの面から測定することである。
一般知能と知的能力とが全く等しいものであるということを主張するのでないかぎり、そこには何らの矛盾もないのである。
たとえば、電気を測る方法と電気とは全く等しいものではない。電気の場合と同じように、知能を構成する材料の根本的な本質を知ることはできないが、それがわれわれに成し遂げさせる事柄によって知ることができるのである。
すなわち、ある命題から正しい推論を引き出すことや、ことばの意味を理解することや、数学の問題を解くこと、あるいは橋梁を建設することなどの結果の間には適切な関連がある。科学的解離や熱や磁場が電気的効果であるのと同じ意味で、以上の結果は知能の効果である。しかし、心理学者は精神的所差ということばを好む。われわれは、知能がわれわれに何かをさせることができるということによって、知能を知るのである。



「一般知能」と「知的能力」は等しくないが、知的能力を様々な観点から測定することで「個人の知能」は測ることができる。
知的能力を測定するための実質的内容として「因子分析」を取り上げ、その因子によって知能を分類し、多面的測定によって知能を量的に評価する。
と言うことだと思います。
ある人のテストの結果、個人の得た評価がそれに用いられたテストのタイプによって異なることを示すが、またそうでない場合もある。多数の者に様々な知能検査を実施した場合に、そのうちのある1つの検査で高い成績を取った者は、残りの検査でも高い成績を取る傾向がある(独自性と相互依存)。

知能測定の目的は、人の記憶力や判断力や推理力をテストすることではなくて、その人の動作全体の合計から出てくるもの、すなわち一般知能として期待されている何ものかを測ることである。

知的な作業の異種類のもので構成されているという暗黙の仮定において、テスト問題の関数値を得るには、知能の最終的な測定値に達するために演算が使用されることを認めるのは絶対的に必要である。
この演算は、まず第一に、正答に、ある数値が当てはめられることにある。
第二には、ある1つの単純な合計に対して、部分的に功績を加味することである。
第三には、全体に寄与するテスト問題の種類に関係なく、合計に等しい値のものとみなすことにある。

知能検査で全く同じ点数を得た人たちを必ずしも同じ方法で分類することができない。


能力と知能の関係

算数テストや単語テストを知能検査の部分として使うときの検査者の目的は、被験者の算数適正あるいは言語知識の広さを発見するためではなく、これらのものは必然的に含まれてはくるが、知能が必要であると仮定される全ての面において働く彼の受容能力を発見するためである。

「知能」と「能力」は区別されるもので、計算機に例えると、計算機は多くの能力を持っているが、それらは機械の性能の範囲内である。
知能検査は個々の能力を測ることを第一義にしているのではなく、被験者のある部分の受容能力(適応能力)を測定しているのだと考えられます。



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