皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

ワタシの認知システム - 一当事者としての自己回帰プログラム① -

2009-02-02 17:11:45 | アスペルガー症候群

ワタシの考えているコトや、考え方や、思考回路や、思いこみや、妄想は、どうやらワタシにのみ当てはまる独特の特徴であることに、最近になって気付きはじめていたりする。

それをひとつずつ検証していこうと思う。


ワタシにとって“考えること”は至上の快楽であったりする。
ああでもない、こうでもない、と延々とワタシの変わった頭の中で繰り広げられる妄想劇場は、快楽の原初であり、それ自体が目的であったりするわけで、快楽が終了すると、ゴミ箱にあっさりと捨てられる。

このゴミ箱に捨てるという行為は結構重要で、これが出来ずに苦しむことがよくある。
例えば、ワタシが“簿記”の資格を取ろうと勉強しても、ワタシの頭では“ボキ”というもの自体の意味がわからないので、その意味を理解しようとなぜか図書館に走ってしまう。
延々“ボキ”の意味を調べるのだが、ワタシの脳内にストックされた情報と“ボキ”にはどうしても接点がみつからない。
そうこうしているうちに、夜が明ける。

どうやらワタシが生きていくために使っている“ボディ”は、ちょくちょく休まないと身が持たないらしい。
でも欲求は、“ボキ”の追求でいっぱいいっぱいだったりする。
そんな状態で“睡眠”というものをしても頭の中にはやっぱり“ボキ”だの“BOKI”だのが存在して、うなされたりなんかする。
“ボキ”にうなされて眼が覚める。

潜在意識も顕在意識も“ボキ”に支配され、レム睡眠も、ノンレム睡眠も“ボキ”に征服された世界である。

それはもの凄く疲れる。


ゴミ箱に捨てる”というのは、“納得”という表現に近い部分はある。
妄想でも何でも、自分の中で消化できてしまうと、もうそれは自分にとっては必要のない情報だったりする。

そもそもワタシは“考えること”に快楽を求めているのだから。
考えるためにムズカシイ本を読むのは、快楽である。
考えるためにムズカシイ計算をするのは、快楽である。

それが導き出した答えは、ワタシにとっては特に必要のない物だったりする。


どうやら“ふつう”と呼ばれるヒトは、努力をして苦痛ながらも本を読むらしい。
それは“いい学校”に入るためだったり、資格を取るためだったり、何らかの目標というものを達成するための一種の我慢の部類に入るらしいことが、諜報部より報告されている。

なるほど、それはかなり苦痛である。
ワタシも実は資格の勉強をしていたりなんかするのだが、結構楽しかったりする。
その資格をとって何かをする、というところがスッポリ抜けていたりなんかする。

結構悲惨である。

(ちなみに自分的ビジョンは持っていたりするが、一般的ルートではないためそれこそ妄想だと指摘されたりなんかする<本人的には真面目にスジが通ってるつもり>)


でもこれが現実だったりするから、周りにいるヒトにはワタシの扱い方にシクハクさせてしまうらしい。
“ふつう”と呼ばれるヒトの“思考ルーチン”には当てはまらない行動、言動をするものだから、予測が立てられないらしい。


なるほど、水戸黄門でカクさんが印籠を宿に置き忘れてきたら、不安だろう。

黄門様もおちおち高笑いなんぞしていられない。

 


フィールドを歩いていて、はじめて出会った生き物の戦闘力がスカウターに表示されなかったら・・・不気味だろう。

 

 

 

 

実は戦闘力が計測不能なくらい高いわけではなく、1以下だったりするのが現実ではあるのだが・・・



そうは問屋が卸してくれないらしい。



ベジータはカカロットをサイヤ人にしたいらしいという思惑があったりする。
そんな思惑とは関係のない世界で、ワタシは快楽に酔いしれていたりするから、
かなりの高確率で“ムカつかれたり”するらしい。


ただ単に、戦闘力なんてのを持ち合わせていなかったりするわけだが、
便宜上、数値化しないわけにはいかない世の中だったりするから、

ワタシのようなヒトは、知らぬ間に独りぼっちというコトがよくあるらしい。



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