皮膚呼吸しか知らない蛙

アスペルガー症候群当事者が、2次障害に溺れることもありながら社会に適応していく道のりを綴っていきます。

笑いで満たされる反省部屋

2010-02-21 18:21:38 | 雑記

ワタシは、現在もなお『セーシンカ』に通院している。
まろやかな言葉の科に行くより、ワタシ個人は好きである。

p「・・・・・ですので、こうこうこういう理由でこのようになります。で、ここでこのようにしていくとこうなるじゃあないですか。」

心「なるわね。で、どうするの?」


p「でね、こう言ったらムカつかれるでしょ?」

心「ムカつくー」

p「なんでこう言うんですよー。すると超自虐的に凹むんです」

心「苦笑」


まあ、一事が万事こういう感じで、『セーシンカ』に行く前に『自己分析』をしていくこと丸4年。

心「あなたはなぜ、そんなに苦労して、苦しんで、いっぱい抗うつ剤を飲んで、病院にきてるの?」

p「(来なさいと言われたからです)・・・連絡です。」(義務だと思ってた)(笑


いや、『セーシンカ』って相談する場所だったのかな?
どうやらワタシの場合、『答えをワタシ自身で用意しているので、病院自体必要ない』ということなのだろう。、と12年目で納得。かなり遅い、というか気付けよ自分。
基本的に“コミュニケーションが成立していない”、という事実はこの際おいといて。

何だかんだ言いながら、今まで色々と看てきて下さった医師、臨床心理士さんに非常に感謝している。
過程として、ワタシにとって必要な時間と労力を提供して頂いたことが、ワタシの今に繋がっているのだろうと思う。

こういうふうに書くと、もう行かなくていいか?というと、そうでもない。

ワタシの自我は、今の時点で十分に実社会で対応可能なレベルまで何とか持ってこれたということではあるが、如何せん体力がないのと、『薬の効果で誤魔化している部分』というものが存在する。

ワタシの場合、随分な量の処方をされていたりする。
長年通っているだけに、余計な知識がついてしまった訳ではあるが、抗うつ剤というモノは、あらゆる感覚を『麻痺』させるというのが体感的実態であろう、と個人的には思っている。これに慣れてしまうのも一長一短だろうな、と。

『気分障害等の精神疾患に投薬は有効』というのは、ワタシ自身自分の身をもって実感しており、ワタシ個人は投薬というものも一つの選択肢として利用することを否定しない。肯定もしないけど。

ただ、それに対するリスクも相当あるということもまた事実である、ということは念頭に置いておく必要もあるだろう。
何より、『タイミング』というのがヒジョーにムズカシイものだ、ということは結構頑張って言える。

今のワタシにとっては、今現在処方されている量(具体的に書くとまた語弊があったりするので割愛)は、『適して』はいないだろう。


何より、ワタシが望んでいるのは、『ワタシであること』。

感覚に関して、色々なところで様々なコトを教えてもらったりして、自分なりにはある程度整理できるようになってきている。
自分の身体の具合というものを、深く濃く知っているのは自分であり、自分以外には知り得ないし、自分自身が管理するものであるということ。

ワタシには、結構な甘え成分が含まれていた訳であるが、自分の身体(ここでは“精神”だの“こころ”だの、いわゆる『内面』ってえヤツも含む)を分析するのも、管理するのも、基本的には自分のすることであるということ。
自分で手に負えなくなったトキ、『センモンカ』に躊躇わずに相談するということ。


ワタシ個人は、『脳の機能・・・』、『こころの・・・』などという言葉は、ああ・・・そうでっか。という感じで自分自身には当てはめていない。
まあそういう言い方もあるし、そういう可能性も確かにある、ということで、あえて否定するほどのことでもないが、自分自身に取り入れる必要もないだろう。と思っている。

そして、『必要なヒト』も大勢いるという事実を見てきて、現行の制度にたいして不平や不満などを言うこともない。求められれば提案はするが、そういう機会はまあ一生こないだろうから、積極的に動くこともないだろう。
こういうこと書くと上から目線だ、となる、ということを織り込み済みで、ワタシはワタシとして発する言葉に装飾を施さないでいくということ。
発言に対して責任も持てば、無責任なくらいに流すこともアリということ。


随分昔のかなりヤバい状態のトキに、発した自分の言葉を思い返す。
『ワタシの人生にとって“病院も投薬も必要条件ではない”』

そういうことだろう。
今飲んでいる薬を手放すトキ、そういう世界から自分の足で歩き始めるトキなのだろうと思う。


明確に必要なのは『身体を動かすこと』、そして『感じること』。
知識を吸収することより、感覚器官を通じて得たモノを『ワタシが利用可能なように変換』すること。
それを、発信する手段としての『コミュニケーション能力』の習得。

コミュニケーションするために生きているのではなく、生きるためにコミュニケーションすること。

順番が逆転してしまっている感満載な、『一部の世間』というものに流されないこと。


ワタシの持っている“答えの一つ”は、ワタシ自身を変化させる触媒ではあるだろう。


当分の間、反省部屋(通称)に通うだろう。
ワタシにとっては、十分すぎるほど機能してくれた場所へのお礼は、ワタシ自身が自律すること。

ヒジョーに重大な欠落があることを自覚してなお、欠落を埋めないことも選択肢。



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2 コメント

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Unknown (ぴーまん)
2010-02-21 23:20:51
只今、北斗七星の下で、拍手しています(笑)

生きるためにコミュニケーションする。
あぁ、すっげー、素敵な言葉!
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Unknown (pluto)
2010-02-23 22:52:15
>ぴーまんさん
こんばんは。
コミュニケーションって目的じゃなくて手段だよなー、と思ったりしました。
ズレてる?いいよ、それでって(苦笑
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