ワタシが現在通っているところには、昼食を食べるスペースが存在し、月に数度綺麗にラッピングされたお菓子が販売されている。
何となく内容は理解しており、ワタシは人知れずクッキー一つを購入し、横に置かれた貯金箱に代金を入れていた。
つい最近になって、とある社員のお姉さんから「plutoさん、食堂においてあるお菓子ってね、実は作業所で作ってるものなんですよー」という話を聞いた。
お姉さん曰く「素朴な味のものなんだけど、寄付してるとでもいうのかなあ? plutoさんもどうですか?」
と。
全然悪気とかなんとか、そういうモノではなく、自分の出来る範囲で『寄付』という形を選択してるんだよなあ、と思った。
ワタシが購入しているのを何度か見ているおばちゃん方は、「ありがとうね。そういう(どういうかは知りませんが)ヒト達が作ってるものだから、慈善事業のようなものよね」っと。
まあ、そのヒト達にとっての認識はそういうことであり、そういう名目で購入されること、そういう場を設けて貰える施設側にとっても有り難い存在ではあるのだろう。
そのヒトビトは、ワタシが数年前には類似施設で働いていた、ということはもちろん知らないし、それを知ったからといって、どうということはないだろう。
他人の考え方は、ヒトそれぞれの考え方であって、ワタシがそれらに口を挟むとかどうとかの範疇には入らないので、そう言う点は何も言えないが、ワタシ個人としては少々複雑な心境ではある。
実際の販売されているモノが、必ずしも購入者がこぞって欲するような『商品としての価値』は低いのも現実なのだろう。
「すごく美味しい」、「また食べてみたい」と思うようなものであれば、ある種の冠がなくても消費者が付く、というのは市場の原理原則であるというのは事実であり、そういうことを追求したり、マーケティング戦略を考えたりする余地というのはおおいにあるのだろうと思う。
ただ『可哀想だから購入してあげる』という風潮が、少なからないヒトビトの感じ方である、というのは少々哀しい側面でもあるな、と個人的には思うこともある。
『作業所』と呼ばれる場所で、働いている方々には様々な背景が存在する。
リハビリの一環と捉えているヒト、そこにしか居場所がないヒト、自分の置かれた状況としてそこで働くことを生き甲斐としているヒトetc...
いずれにしろ、その場所で社会との接点を模索し、自分たちの作ったモノが「社会」へ還元される喜び、働いている実感、「社会」というものに自分なりの貢献をしているというかなんというか。
一般的社会人と呼ばれる範疇のヒトからすれば、恐ろしい程低賃金でそれらを生産し、販売する。それには多くの支援者の方々の努力、そういう施設への維持経費の確保、販売先の開拓等々、様々な力によって成立している。
ワタシは「募金」とか「慈善事業」という風に捉えることも、それはそれで良いと思う。
そんなこと歯牙にもかけないヒトビトが大勢いる中では、少なくとも好意的に取ってくれているヒト達なんだろうから。
ただ、そういうシステムである限り、限界があるよな、とも感じる。
「作業所」という施設としてのモンダイなんかも、いろんなことろで耳にしたりするし、それぞれの立場で色々な考え方をするだろう。
どういう状況におかれたヒトであっても、社会的役割や仕事というものが得られることに喜び、その役割の中で試行錯誤し、どこかの誰かに喜んで貰えることに喜ぶ。
労働に対する正当な対価があり、社会の中で自分なりの生活が営めること。
既成の概念に縛られることなく模索していく方向は、沢山あるように思う。
そう思いながら、ただただ小銭を貯金箱に投入しているだけのワタシも、現状では口先だけで行動できないヒトの一部なのだろう。
ワタシが今、とある企業に所属し、何らかの生産活動をしているということも、見るヒトによっては『慈善事業として雇ってやっている』と捉えることも可能だろう。
何かを感じ、考え、発信できるようなワタシになれれば良いな。ワタシ自身が出来うる範囲で。
何となく内容は理解しており、ワタシは人知れずクッキー一つを購入し、横に置かれた貯金箱に代金を入れていた。
つい最近になって、とある社員のお姉さんから「plutoさん、食堂においてあるお菓子ってね、実は作業所で作ってるものなんですよー」という話を聞いた。
お姉さん曰く「素朴な味のものなんだけど、寄付してるとでもいうのかなあ? plutoさんもどうですか?」
と。
全然悪気とかなんとか、そういうモノではなく、自分の出来る範囲で『寄付』という形を選択してるんだよなあ、と思った。
ワタシが購入しているのを何度か見ているおばちゃん方は、「ありがとうね。そういう(どういうかは知りませんが)ヒト達が作ってるものだから、慈善事業のようなものよね」っと。
まあ、そのヒト達にとっての認識はそういうことであり、そういう名目で購入されること、そういう場を設けて貰える施設側にとっても有り難い存在ではあるのだろう。
そのヒトビトは、ワタシが数年前には類似施設で働いていた、ということはもちろん知らないし、それを知ったからといって、どうということはないだろう。
他人の考え方は、ヒトそれぞれの考え方であって、ワタシがそれらに口を挟むとかどうとかの範疇には入らないので、そう言う点は何も言えないが、ワタシ個人としては少々複雑な心境ではある。
実際の販売されているモノが、必ずしも購入者がこぞって欲するような『商品としての価値』は低いのも現実なのだろう。
「すごく美味しい」、「また食べてみたい」と思うようなものであれば、ある種の冠がなくても消費者が付く、というのは市場の原理原則であるというのは事実であり、そういうことを追求したり、マーケティング戦略を考えたりする余地というのはおおいにあるのだろうと思う。
ただ『可哀想だから購入してあげる』という風潮が、少なからないヒトビトの感じ方である、というのは少々哀しい側面でもあるな、と個人的には思うこともある。
『作業所』と呼ばれる場所で、働いている方々には様々な背景が存在する。
リハビリの一環と捉えているヒト、そこにしか居場所がないヒト、自分の置かれた状況としてそこで働くことを生き甲斐としているヒトetc...
いずれにしろ、その場所で社会との接点を模索し、自分たちの作ったモノが「社会」へ還元される喜び、働いている実感、「社会」というものに自分なりの貢献をしているというかなんというか。
一般的社会人と呼ばれる範疇のヒトからすれば、恐ろしい程低賃金でそれらを生産し、販売する。それには多くの支援者の方々の努力、そういう施設への維持経費の確保、販売先の開拓等々、様々な力によって成立している。
ワタシは「募金」とか「慈善事業」という風に捉えることも、それはそれで良いと思う。
そんなこと歯牙にもかけないヒトビトが大勢いる中では、少なくとも好意的に取ってくれているヒト達なんだろうから。
ただ、そういうシステムである限り、限界があるよな、とも感じる。
「作業所」という施設としてのモンダイなんかも、いろんなことろで耳にしたりするし、それぞれの立場で色々な考え方をするだろう。
どういう状況におかれたヒトであっても、社会的役割や仕事というものが得られることに喜び、その役割の中で試行錯誤し、どこかの誰かに喜んで貰えることに喜ぶ。
労働に対する正当な対価があり、社会の中で自分なりの生活が営めること。
既成の概念に縛られることなく模索していく方向は、沢山あるように思う。
そう思いながら、ただただ小銭を貯金箱に投入しているだけのワタシも、現状では口先だけで行動できないヒトの一部なのだろう。
ワタシが今、とある企業に所属し、何らかの生産活動をしているということも、見るヒトによっては『慈善事業として雇ってやっている』と捉えることも可能だろう。
何かを感じ、考え、発信できるようなワタシになれれば良いな。ワタシ自身が出来うる範囲で。
記事の背景にあること思い、鈍感な今の私には難しい。
私が住んでいる地域ではなかなか場がないのか、目にすることが少ないのです。生協などの販売で少し目にするくらい・・・これもなんだかなあと思います。
ただ、私が気がつかないだけでちゃんと場はあるんだと思うんですが。
今、自生している茸を探す事に喜びを感じているんです。まだ一度も見つかっていないんですが、公園や街路樹にもあるらしいので、ぜひとも茸に会いたい!その一新で木の根元を眺めて歩く毎日です。
ほんの少しの視線、それを変えるだけで今まで見えていなかったものが見えるかもしれません。
こんばんは。
他人事ですねー(いい意味で)。
何事でも関わっているヒト以外は、ある一定の線を越えない他人事。これは重要なことだと思います(そういう境界が曖昧なワタシみたいなのが、自ら泥沼に填りやすい)。
で、どう切り取るか。
切り取り方でだいぶ違いますね。
ワタシも自分自身の喜びを、もっと大切にしていきたいなあ。