は身体に悪いと、つくづく思った。
心身を痛めるような日常というものは、得るモノが非常に少ない。
ワタシが受けた感覚に対しては、素直に従おう。
力が入っても、湾曲しても、周囲にとっても、ワタシにとっても、その結果はよろしくない方向に波及する。
アウトプットの仕方に変化を加える余地は大いにある、と思う。
己の「フツウ」の枠に固執するヒトとの関わりは、もううんざり。
心身を痛めるような日常というものは、得るモノが非常に少ない。
ワタシが受けた感覚に対しては、素直に従おう。
力が入っても、湾曲しても、周囲にとっても、ワタシにとっても、その結果はよろしくない方向に波及する。
アウトプットの仕方に変化を加える余地は大いにある、と思う。
己の「フツウ」の枠に固執するヒトとの関わりは、もううんざり。
自分がうんざりを感じると同様、自分はどれだけのヒトをうんざりさせているのだろう?これまたヤバイ(--;とも感じます。
と、plutoさんをうんざりさせてしまったらごめんなさい。
こんばんは。
それを言われると、身体の内側が痛いなあ(苦笑
自分の持っている手札と、日々身につける創意と工夫で対応して、同種の「うんざり」が蓄積すると、ある種のやばいラインに行くんですね(ワタシの努力が足りない、は前提)。
「噛み合わない」、「不協和音」、「齟齬」というものは、お互いにエネルギーを消費する。それらを『立場』という関係性の上で、一方の「思惑」に合わせ続ける、というのはやはりどこかで爆発するだろうと。
これも視野や角度を変えると、だいぶ変化するとは思うのですが、既成の小さな社会に『適応』するということの中では、少なからず当たる壁みたいなものなのかな?
そういうので「ヒトが嫌い」とかいう方向には進みたくないので、模索中なんですけどね。
あああ、ここから先を書くとオカルトじみて、且つ長くなりそうですので、割愛。
ぴーまんさんのコメントに脱帽です。