道草あつめ

日常思いついた由無し事を、気ままに拾い集めています。

異常の論理

2006-07-21 23:46:46 | 形而上
今日、バイトでレジを打っていると、商品を買った人が、
「レシートを下さい」と言う。
「レシートはさっき渡しましたよ」
「もっと下さい」
「……じゃあ、領収書はいかがですか?」
「ハンコの付いてるのはいらない」
「んー、でも、押してしまいましたしー」
「じゃあ、外にあるヤツを下さい」
……外? 外に領収書なんかないのだが。。
よく見れば、その人、話し方、目つき、振る舞いが少し変である。

分からないし、忙しいので、
「外に領収書なんかありませんよ」「外の領収書って何ですか?」とは言わず、
「すみません、外のはお渡しするわけにはいかないんですよ」
「そうなの?」
「はい。私ではお渡しできないのです」
「ああ、そうか。じゃあ仕方ないね。ありがと」
「はい。申し訳有りませんでした。またのお越しをお待ちしております」
と言って、帰した。

お互い考えていることはまったく分からず、不思議な会話であるが、
内容について考えず表面のやり取りだけを聞けば、かみ合ってはいる。


「精神異常」というのは、いわゆる「正常」に対して異なるというだけであり、
本人の中では論理が成り立っており、ただ、その論理が他人に理解できないというだけなのだと思う。
それは、我々が夢の中で、奇怪なできごとを経験しても、それを必然として受け止め、
さらに必然の論理の中で奇怪な行動を取るのと同じである。

しかし、ここで考えなければならないのは、
「正常」な人同士でも、果たしてその思考の論理は同じと言えるのであろうか。
相手の頭の中を覗き見ることができない以上、お互いの知覚・認識・思考を取り出して対照することはできず、
「同じ」であることの証明は不可能である。
ただ、行動や言葉といった表象によって帰納する他無い。
その際、上に挙げた会話のように、表面上ではかみ合っていても、
心の中では全く理解しあっていないということもありえる。
今回は私が「外にレシートはない」という認識を対照させ、
「相手と自分の事実認識の論理にずれがある」ということを意識し、
相手をいわゆる「異常者」として扱った。
しかし、事実認識の論理のずれが著しく意識されず、
お互いに会話も行動も終始かみあっていれば、
自然に相手を「正常」と見なすのであるが、
果たして、本当に相手が「異常」でないと言えるのだろうか。
あるいは、自分が「異常」でないと言えるのであろうか。


「正常」という観念すら危うくなってきたが、
こんなことを考える私は、「異常」であろう。
私自身、表向きはいたって当たり前の振る舞いをしながら、
頭の中ではかなり異常な思考をしているのではないかと最近思う。


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