徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

日本文化の多重構造

2014年06月06日 | 文明

佐々木高明という民俗学者の書いた”日本文化の多重構造”という本を読んで、色々と考えさせられた。この佐々木先生の略歴を見ると興味深い。京大博士号取得で国立民族学博物館名誉教授・元館長といった錚々たる略歴だが、その冒頭に京都大学の図書館で働きながら、1952年、立命館大学文学部地理学科(夜間)卒業。梅棹忠夫に見込まれる。 とある。ああ、苦学の人であったのか、との思いがする。この先生、大変な碩学だが残念ながら昨年(2013年)4月に亡くなられている、享年83歳。

この本は、かって柳田國男の提唱した日本稲作文化論に対して、縄文期における焼畑を中心とした南方経由の照葉樹林文化と、北方系のナラ林文化の基層と渡来稲作文化の融合したものとしての日本文化形成を説いている。

日本人は単一民族で共通の文化を保持している、という見方がある。しかし、現代の我々の暮らしの中にも縄文、弥生と続く重層的な異種文化が重なっている証拠がある。例えば、正月に食べる餅、あるいは雑煮に入れるサトイモ。餅はもち米から作るがこのネバネバ、モチモチした食べ物を食べる伝統は決して中華文明由来ではない。これは、雲南省から続く照葉樹林帯文化の特徴なのだ。また、ハレの日である正月の最初の食事でサトイモを食べる。これも稲作以前の焼畑農業の名残と考えられる。

縄文時代は狩猟採集を行っていたと考えられているが面白いデータがある。縄文時代の人口分布だ。

一見して判るとおり縄文時代の人口分布は圧倒的に北に偏っている。ここで100平方kmあたり300人という人口密度は狩猟採集民としては世界最高レベルらしい。このような北に偏って且つ高い人口密度を支えたのは落葉広葉樹のナラ林帯だ。ここでは栗、どんぐり、クルミなどの堅果採集と共にプレ農業的な生産の痕跡が有る。

稲作以前に東日本にはナラ林文化があり、西日本には照葉樹林文化が栄えていたところに大陸から朝鮮半島南部を経由して稲作がかなり完成した形で伝来した。元々、農業の素地があったところに生産性の高い稲作が伝わったのでかなり早いスピードで稲作は拡大した。

しかし、稲作が日本の主流たるのは近世の石高制以降の事らしい。山村では昭和期まで焼畑農業が残っていた。日本は豊葦原瑞穂国である、というのは稲作キャリアーであった天皇家に限った話で、それ以前に照葉樹林文化やナラ林文化があり、その伝統は現代にまでつながっている。日本は重層的な文化素地を持っている事を、改めて考えさせられた。