徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

雪野山古墳

2014年10月25日 | 歴史

平成元年に琵琶湖の東側、湖東平野の真ん中の雪野山(308m)の山頂から4世紀前半の古墳が未盗掘の状態で発掘された。それから25年、今日はこの遺跡に行って来た。

古墳は山の上だか麓に古墳公園があり比較的整備されている。

駐車場からすぐの場所の山の麓に八幡社古墳群というのがあり、15基の小規模な古墳が連なっている。

右玄室内部

その脇の山道を登っていくと、

開けた場所に展望台があり湖東平野が一望できる。

谷を登って尾根に出て尾根道をしばらく歩くと雪野山山頂に着く。遺構は埋め戻されていて、山頂には何もありません。この地下に玄室がある。

山頂から少し下ったところに遺構の説明看板がある。

この看板ちょっと問題がある。これだ、

この図を見ると看板の右側20mが玄室だと思う。ところが右側は山の斜面で玄室など無い。雪野山でググルといくつかのブログがヒットするが、例えばこの人 http://homepage2.nifty.com/island2/yuki.html なんかも完全にこの看板にだまされて頂上直下の斜面を探して、判りにくいですね、なんて書いてある。私も最初だまされて斜面を探したけれどそのような地形は無い。それでもう一度その地形図をよくよく見直すと北が右下を向いている、おまけに玄室の位置の等高線は看板より上だ!この図は180度ひっくり返してみる必要がある事がやっと解った。玄室は頂上直下なのだ。

発掘当時、玄室からは5枚の鏡と剣、武具、人骨が出ている。

剣,鏡、玉は大和王権の象徴だ。卑弥呼、つまり天照大神の没年がAC248年、3世紀半ば。その孫のニニギが日向に降臨し3代後の神武が東征し畿内に侵入したのが4世紀初頭。

元来、湖東平野、蒲生野は出雲族の土地だった。地神を祭る神社は出雲系だし、銅鐸はとなりの野州から大量に出土している。そこに剣と鏡を祭祀とする大和がなだれ込んだのが4世紀初頭から半ばにかけて。この雪野山に祭られている武人は地の神(豪族)ではなく大和が送り込んだ覇者の墓なのだろう。麓の八幡社=皇室祭祀もそれを物語っている。雪野山の麓に砦を築き蒲生野に睨みを聞かせた覇者の墓がこの遺跡と言うことだ。近くの竜王・鏡山がアメノヒボコとの関わりがあり興味が有る。

元来、蒲生野だとか遠野だとかの野とつく地形は平野で稲作が出来ない土地を指す。ここにアメノヒボコ=新羅系が率いる渡来人が移住し蛇砂川クリークを開削し稲作の出来る地に開墾したのが蒲生野だ。ここに大和族が4世紀初頃に進入した。

雪野山は滅び行く出雲族と、それを武力で征圧した大和族とのせめぎ合いの地、なのかもしれない

 

 


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