徒然なるまゝによしなしごとを書きつくる

旧タイトル めざせ、ブータン

出雲大社の謎

2014年02月20日 | 歴史

昨年60年ぶりの遷宮を終えた出雲大社は、日本古代史の謎を秘めた神社です。

内陣のレイアウトがまず変わっている。普通の神社は本殿正面から御神座に向かって参拝するが、出雲大社では下図の通り御神座の右手側面から拝むことになる。参拝者に正対しているのはむしろ御客座五神と言うことになります。この御客座五神というのは、

天之御中主神

高御産巣立日神

神産巣立日神

宇麻志阿斯訶備比古遅神

天之常立神

の五神で、別天つ神であり天地創造の大和族最強の神様達なのです。この五神は御神座に奉られた大国主(大穴牟遅神)の正面を塞ぐ形で参拝者と正対する。これは”逆説の日本史”で伊沢元彦が書いている通り、牢に閉じ込めた大国主を見張る番人の役割に他ならない。

注連縄も通常の神社とは逆の左巻きになっています。

これも通常であれば注連縄は俗世界と神域を分ける境界なのですが、出雲では逆に穢れた死の世界とこの世を(逆に)分ける意味があり、大国主が結界から出て来ないように封じているわけです。

また、驚くことに拝殿から巨大な3本組みの柱の跡が発掘されており、古代の記述にある100mを超える高層建築が実在したことも判っています。

さて、大国主は何故こうまで恐れられ、出雲大社に封じ込められているのか?それは出雲を攻め滅ぼした大和が、大国主の祟りを恐れたからに他為りません。

元来、奈良盆地は出雲の勢力下にありました。出雲勢力の祭祀は銅鐸です。3世紀末まで大和を含む近畿一円から関東、北陸(越)では広く銅鐸が使われていました。しかし、4世紀になると近畿で突如、銅鐸から銅剣・銅矛に変わるのです。しかも、その時期の銅鐸は破壊され、村はずれに打ち捨ててある状態で発掘されます。これは記紀の記述にある東征が実際に行われたと考えられます。九州の大和族が近畿に侵入して元々住んでいた出雲族を駆逐したに他なりません。

しかし、出雲はその時点で滅んだわけではなく6世紀頃まで命脈を保っています。しかし、最終的に6世紀に大和は出雲を攻め滅ぼし、大国主の息子である 建御名方神は科野国(信濃)の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめられ殺され、諏訪大社に奉られます。そして、大国主は出雲大社の前の稲佐の浜(否、然=Yes or No)で国譲りを迫られ、それを承諾し処刑された。

亀太夫神事という面白い神事が出雲に残っています。出雲一宮である熊野大社に出雲宮司が詣でて餅と引換えに新嘗祭で火をおこすための火臼・火を受け取るのですが、その際に亀太夫という下級杜人が出てきて、持ってきた餅に対して餅が小さい、形が悪いなど…さんざん悪態をつきます。挙げ句の果てに「出雲の人たちのおかげで生きていることを忘れるな」とまで言う。

出雲宮司(千家)は大和から派遣された征服者の代理であり、亀太夫は地の出雲の民を代表しているわけで、出雲の大和に対する恨み辛みを代弁してガス抜きを計っているのでしょう。

出雲大社は日本古代史における最大の抗争の名残を秘めた神社です。そして、千家宮司以外誰も見た事の無い御神座に奉られているのは、稲佐の浜で落とされた大国主の頭骨... 

追記; 1984年に出雲大社の近くの荒神谷から銅剣358本が発掘されている。この銅剣の意味について梅原猛は”葬られた王朝”のなかで、これ等の全ての銅剣に×印が刻まれていて全て大和の方向(東)に向け、刃を上にして埋められていた事から、敵の祭祀を破壊する意味があったのだろうと解釈している。


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