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おとのくに♪♪

生徒さんのピアノレッスンで感じたこと、考えたこと、コンサートの感想などポツポツ綴っています。

遊藝黒白 第3巻 #4「作曲家の意図は、すべて楽譜に!」

2019年10月31日 | 書籍紹介
この本のことをこんなに書くつもりはなかったのですが、最後にどうしてもご紹介したいピアニストがいます。

バイロン・ジャニス(Bayron Janis)
アメリカのピアニストで、ホロヴィッツの最初の弟子で一番長く教えを受けていた人物です。

ホロヴィッツはレッスンで模範演奏を示すことはなかったそうです。
しかし、レッスンが終わるといつも楽しそうに演奏を聴かせてくれ、それが一晩中続くことも珍しくなかったと。

あまりに彼の演奏を聴きすぎてしまったので自分自身を見失い、彼の真似をして弾くようになってしまった。5年間学びその後5年かけて彼の演奏の影響からやっと抜け出したそうです。

インタビュアーの焦さんが、「あなたのショパンの演奏には他のどのピアニストとも比べられない魔力があり、ショパン自身が弾いているのではないかと思うほどです」とおっしゃっているので、どんな演奏をされる方かと興味を持ち演奏を探してみました。

こちらです。
Byron Janis plays Chopin's Ballade No. 1 Opus 23 (1952 rec.)

第一音、ホロヴィッツっぽいと思いましたがそのあとは違います。
聴き入ってしまいました。そして続けて3回も聴いてしまいました・・
この曲好きですが聴き飽きてしまっていて、こんなに聴くつもりはなかったのに。

ジャニスさんはショパンがいつもすぐそばにいる気がすると。
ショパンは演奏している時、ピアノを弾いている感覚ではなく魂を表現している感覚だったのではないか。彼自身よく「どこかへ」「あそこに」と言っていたようだと。現実ではないどこか。

第3巻は存じ上げないピアニストが多いのですが、聴いて一番驚いたのがジャニスさんです。

ここから先は、バラードの演奏を聴いた翌々日に読んで知ったことです。

ジャニスさん、子供の頃のケガで左手小指の感覚がないのだそうです。
45歳頃に関節炎になり、63歳頃関節炎の痛みがひどくなり手術をし親指の先を失ったそうです。
絶望感を味わいながら毎日を過ごし、やりきれない思いを何曲かの歌曲にしたそうです。それが友人に素敵だとほめられ、ミュージカルの台本に曲をつけることを勧められ、この経験が希望を与えてくれたと。
他の方法で自分を表現することができる、人生には様々な可能性があると考えられるようになり、手の問題にも立ち向かうことができるようになったそうです。
練習方法を工夫し、再び演奏できるようになったとのことです。

敬服。

レオン・フライシャーが右手を故障した話は有名ですが(局所性ジストニア)、彼は右手に問題が生じても音楽を追求することをやめなかったそうです。考えてもいなかった、教育活動に身を投じ、指揮にも挑戦することに。
障害を負う前より良い音楽家、良い教師になったと思うと。一つの窓が閉ざされても他にたくさんの窓がある。人間は不断に成長していけると思うと話されています。
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遊藝黒白 第3巻 #6「作曲家の意図は、すべて楽譜に!」

2019年10月30日 | 書籍紹介
ルース・スレンチェスカさん。

彼女は私にとっては歴史上の人物である作曲家やピアニストに実際にレッスンを受けたり親交があった方です。

その話の興味深いこと。
ホロヴィッツ、コルトー、ホフマン、ストラヴィンスキー、シュナーベル、ペトリ、ラフマニノフ、ラローチャ、バーバー、ギーゼキング、オーマンディ、ヒナステラ。

どんなことがあったかは是非、本で!

ひとつだけホロヴィッツの話をちらっと。
ホロヴィッツがステージから離れていた日々の話。

彼はレコードを聴いて、歌手が歌ったフレーズをイタリアのベルカント唱法のようにすぐにピアノに向かって同じように弾いてみて、声楽のフレージングを器楽のフレージングに変換させようとしていた。しかもすべての声部を。
何千回もレコードを聴き、ひたすら苦しい練習に明け暮れていたと。

驚きです・・
この本はピアニストたちが想像以上の努力を重ねていることを知ることもできます。

バーバーの「弦楽のためのアダージョ」ができた経緯も書かれていて面白いです。
傑作の誕生を目撃した証人になることができて幸せだと。

ー・-・-・-・-・-・-・
バッハの研究と演奏に一生をささげたロザリン・テューレック(Rosalyn Turek)

彼女によると、バッハ演奏は楽器による表現力という意味で20世紀はつまらないことに固執したと感じる。バッハの音楽が内包しているものは楽器の制限を受けない。

ふむふむ。
バッハは楽器云々を超えている。

最後に書かれているのが、演奏家はそれぞれ自分の生きている時代とつながっていなければなりません。それが私の哲学です、と。

イリーナ先生のカルガリーのワークショップの内容をまとめた先生がいらして、それを昨日Google翻訳に頼りまくって読みました。
数ページかと思い印刷しましたら、いつまでもプリンターが止まらないので間違えて設定したかと思いましたがそうではなく、なんと25ページもありました。

イリーナ先生もこうしてまとめて下さる方がいることに感謝していらっしゃいました。
そのレポートの中に、生徒に生きている作曲家の作品を弾かせるという言葉がありました。

クラシック音楽というと過去のものという感覚があるかもしれませんがそうではなく、現代には現代の作品が生きていて、過去の作品には新たな観点や現代の精神を注ぎ込み生き生きと輝かせる(これはエマールの言葉)。

1曲1曲に深く向き合いながら、現在と過去の時間を未来につなぐ。

はぁ~、壮大すぎる・・


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遊藝黒白 第3巻 #3「作曲家の意図は、すべて楽譜に!」

2019年10月29日 | 書籍紹介
この本を読むと、才能があるからピアニストになれたのではないことが良くわかります。

もちろん人並み以上の能力があってのことですが、皆さん音楽を自身の人生にすると決意してこの道を選んでいる強さを持っています。

表現するために必要なことをどんなに小さなことも見逃さず、完全に理解し実現するためにどれだけ多くの時間と手間をかけているか。

情熱の熱量が凄まじい。
しかし彼らにとってそれは当たり前。

この第3巻に掲載されている女性ピアニストの話が面白いです。

チュニジア生まれフランス育ちのブリジット・エンゲラー(Brigitte Engerer)。
彼女は子供の頃からロシアの文化や芸術を愛していたそうで13歳からロシア語を学び、トルストイ、プーシキン、ドストエフスキー、チェーホフなどの文学を読み漁っていたそうです。

チャイコフスキーコンクールをきっかけにマリーニンの招きでモスクワで勉強することになったそうです。マリーニンに師事するつもりでしたがクライネフにスタニスラフ・ネイガウス(ネイガウスの息子)を勧められ、マリーニンに断りに行った時、マリーニンの顔を見た途端泣き出してしまったそうです。

彼は「大したことではない」と言い、気にせず何か困ったことがあったらいつでも来るように励ましてくれたとのこと。2度目にチャイコフスキーコンクールを受けた時には熱心に指導してくれ、いつも温和で優しい人だったと。(マルチェンコ先生の生徒さんにマリーニン君がいますが、関係あるのかな・・?)

スタニスラフ・ネイガウスはとても厳格な教師だったそうです。楽曲の構成、響きの濃淡(以下省略)、ひとつもおろそかにせず適切なテクニックを使って表現することは大変なことだったと。

ショパンのバラード第4番のレッスンでは2時間で2ページ目すら終わらなかったと。
1曲学ぶのに6か月かかることもよくあったそうです。
そのおかげで新しい音楽の世界に導いてくれたけれど、数えきれないほどの挫折も経験させられたと。

その挫折の話の一つが面白いです。

チャイコフスキーコンクール前日に仕上げのアドヴァイスと激励の言葉をもらいたくて彼の所に行ったら、苦労を重ねて準備したプログラムをガラクタのようにこき下ろされたと。

彼女は「明日、コンクールで私は弾くんです。・・中略・・私の演奏はそんなに酷いですか?私が明日ステージで弾いたら恥をかくだけでしょうか?コンクールにはもう参加しません!」

と言うと彼は、
「コンクール?それが何だ!コンクールと音楽が比べられるか?大切なのは音楽だけだ。・・中略・・今日私が教えた後、あなたの演奏が明日よくなっていればいいのだ!音楽!音楽!音楽!大切なのはそれだけだ」

彼に敬愛と感謝の念を持ち続けているけれど、何度絞め殺してやりたいと思ったことか・・

だそうで。

前回ご紹介したバヴゼの奥様もピアニストでハンガリー人の方のようですが、クルタークに師事していたそうで、シューベルトのソナタ第14番のレッスンを受けた時に第1楽章の初めの8小節に半年かかったとか。

追求度が半端じゃない・・
どうしてこんなにできないんだと挫折しそうになりますが、そこで挫折しないのがピアニストです。
タフです・・

で、この奥様の話でひとつ面白い話が。

フォーレが嫌いらしく、フォーレのピアノ三重奏でバヴゼがピアノを弾いた時にリハーサルで譜めくりをしていたら、横で時々嘔吐しそうな声が聞こえてきて演奏できなくなってしまったと。

彼女は「私にはフォーレの転調が耐えられないの。あっちに行ったりこっちに行ったり・・。主和音に戻る気はないのかしら?って思うのよ。」

後期のフォーレの和声は迷宮のようで、真剣に聴きながら和声の分析をしていた彼女は、めまいがして吐きそうになったのだそうです。

本番ではバヴゼが自分で譜めくりしたそうで。

ホロヴィッツもフォーレの暗譜は本当に難しいと言っていました。
アンコールでフォーレを弾いた時にもう二度と弾かないと言ったそうです。転調が覚えられないと。

ホロヴィッツでさえそうなのかと。
というか暗譜の必要がないくらいすぐに覚えられるのかと思っていました。

この大大大家と比べるな!ですが、私は暗譜ができそうにないと、その理由で初めてあきらめたのがフォーレです。(テクニック的な問題であきらめた曲は数知れず
自分の記憶力がものすごく劣ったと思っていました。

そうではなかったのか、本当にそうだったのか・・

エンゲラーさんの演奏です。彼女は2012年に亡くなっています。ヘビースモーカーだったそうで。ご主人はケフェレックの弟。晩年はベレゾフスキーと連弾、2台で組んでいたそうです。

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遊藝黒白 第3巻 #2「作曲家の意図は、すべて楽譜に!」

2019年10月27日 | 書籍紹介
ジャン=エフラム・バヴゼというフランスのピアニストはご存知ですか?

私は知りませんでした・・

サンカンの最後の弟子のおひとりだそうで。
あのルヴィエがなかなか師事できず、8年待ってやっと習うことができたサンカンです。

ルヴィエやロジェ、ベロフの年代が奏法の転換期で、その頃に既に重力を使い身体をどう使うかを熟知していたサンカン。
バヴゼはルヴィエらとは一回りくらい年齢が下です。

バルトーク、プロコフィエフ、ラヴェル、ドビュッシーを得意とするほか、現代音楽にも意欲的に取り組んでいるそうです。

子供の頃、電子音楽を研究していたメシアス・マイグアシュカというシュトックハウゼンの助手に大きな影響を受けたそうです。

「音とは何か」を明確に分析して教えてくれたそうで、音は、音色・音の高さ・音の長さ・音量・音の方向、この5つの要素から構成されているとのこと。そのことを知らない音楽家が多いことに驚いたそうです。

ほー、とーぜん私も知りませんでした。
考えたこともありませんでした。

子供の頃の出会いは将来に大きな影響を与えるものだなとこの本を読んでいるとそれを強く感じます。

電子音楽を学ぶまで音を聴くことはできても音とは何かを知らなかった。
サンカンに学ぶまでピアノを弾くことができてもピアノ演奏とは何かを知らなかった。

サンカンはどのように身体を使うべきか教え、内から外からピアノを演奏するとはどういうことか理解させ、知的アプローチをさせてくれたそうです。

サンカンの指導の優れていたところを一言で言い表しています。
こんなピアノ指導者になれたらと思います。

パリコンセルヴァトワールがジュリアードのシャンドールを客員教授に招き、バルトークの最後の弟子である彼とバルトークの作品について語り合い、その後も親しく付き合うことができたそうです。

シャンドールとサンカンはすぐに意気投合したとのこと。
2人とも古き良き時代のヨーロッパの貴族のような雰囲気を持っていて、立ち居振る舞いが優雅でわざとらしさがなく極めて自然だったそうです。

いや~、私の奏法の旅はシャンドールから始まりましたので、サンカンとシャンドールが意気投合したことはなんだか嬉しいです。

シャンドールを知ったのは、それしかなくて借りただけのバルトークのピアノソロ作品がたっぷり録音されたCDを聴いたことです。
どんな曲か知りたいだけだったのですが、演奏が素晴らしく、返してはまた聴きたくなり度々図書館から借りておりました。

その数年後、偶然にシャンドールのピアノ奏法の本を見かけ、確かあのバルトークのピアニスト!と思い即座に購入し速攻読みました。
この本のおかげで随分楽に弾けるようになりました。
ただ、写真で解説されているので十分に理解はできていませんでした。

何か足りないと思っていたものを解決してくれたのがロシアンメソッドです。
わかってみたら自分が教えていただいていたのに理解できていなかったことだと気付いたのでした。
これまでのことがピーと繋がりました。

話が逸れました・・

サンカンの人柄についても書かれていて、一回り上のピアニストたちとは異なることが書かれています。サンカンの年齢的なこともあるかもしれませんが人によって印象は異なるものだと思いました。

2台ピアノでの共演が多かったゾルタン・コチシュの驚くべき能力の話もあり、多くのピアニストがコチシュが凄いと言っていますがその偉大さの一つを知りました。

バヴゼさん、手を痛めていたことがあるそうで、それはサンカンの指導が間違っていたのではなく使い過ぎだったようです。
心理的なことと複合して起きたようで、その理学療法の先生と、アメリカに行くたびにアドヴァイスを受けていたロシアのピアニスト、アレクサンダー・エデルマンとサンカンからの教えが、ある日突然結びつき自分は正しい道を歩んでいると感じ、それでこの故障を克服できたそうです。

バヴゼさん、言葉の表現が美しいです。
この方のレッスンを受けたらインスピレーションを受けられそうです。

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遊藝黒白 第3巻 #1「作曲家の意図は、すべて楽譜に!」

2019年10月19日 | 書籍紹介
以前、「遊藝黒白第2巻 音符ではなく、音楽を!」をご紹介しました。

今度は第3巻「作曲家の意図は、すべて楽譜に!」を読み始めました。

トップバッターはダン・タイ・ソンです。
ツィメルマンが優勝した次の回の優勝者がダン・タイ・ソンでしたので、あの頃の衝撃はよく覚えています。

どうやってベトナムで音楽を学ぶ機会があったのだろうと思っておりましたが、この本によりますと、ベトナムはフランスの植民地だったのでフランス経由でクラシック音楽が入ってきていたこと。
地理的に極東での演奏旅行の中継点に位置していたため、演奏家たちがベトナムでよく演奏会をしていた。
ということで、実は音楽的に高い水準にあったのだそうです。

防空壕で練習した話も載っています。

モスクワ音楽院ではイーヴォ・ポゴレリチと同級生だったそうで、ポゴレリチには西側のたくさんの珍しいレコードを聴かせてもらっていたのだそうです。
当時は西側のレコードはミケランジェリとグールドくらいしかソ連にはなかったそうで、ポゴレリチは帰国するたびにソ連では珍しいレコードをたくさん持ち帰ったのだそうです。

コンクールの参加は当初ポーランドでは認めてもらえなかったそうです。
ベトナム人でハノイでピアノを学び、モスクワ音楽院で勉強中という経歴だけだったので事務局が参加を認めたくなかったのだそうです。
しかしモスクワ音楽院で学んでいるのだから相当なレベルに達しているだろうということでチャンスを与えてみようということで参加できた、ということを後で聞いたそうです。

ちなみに、モスクワ音楽院のショパンコンクール参加オーディションに合格したのは彼とポゴレリチと2位になったタチアナ・シェバノワの3人だったそうで。

コンクールでは緊張することはなかったけれど、唯一の不安はオケと共演するのに礼服がなく、その用意ができるかが唯一の不安だったそうです。
礼服は親切な人たちが助けてくれ用意できたそうです。

ダン・タイ・ソンさん、霧島で教えていらっしゃいますが、度々受講している知人の話では、生徒より先に来て部屋の掃除をされているそうです。お人柄が素晴らしいそうで。

ピアノで歌うことについて本には書かれています。
オペラ、歌曲、合唱の歌わせ方の違い。ロシアと他のヨーロッパとの歌い方の違い。

この本も面白そうです!

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ロシアのおとぎ話

2019年10月14日 | 書籍紹介
ロシアにはおとぎ話が多いという話を以前に書きました。

おおかみ、きつね、くま、うさぎ、やぎ、ねずみ、はりねずみ、おんどり、つる。

これらの動物が出てくる話があります。
しかしロシアではなくともこの動物たちが出てくる話はあります。

そんな中でワニが出てくる話があるのでご紹介します。

こんなお話です。

「ぬすまれたおひさま」
空に輝くお日様をワニがパクリと飲み込んでしまい、朝から晩まで真っ暗に。
動物たちは皆哀しみに暮れました。迷子になったコグマたちをおじいさんグマが探して泣いているとウサギがやってきて、「強いクマさん、悪いワニをやっつけて」と。
クマは勇気をふりしぼりワニを倒し、お日様を取り戻しました。

ワニの登場も珍しいですが、お日様を飲み込む発想。
長い冬、暗い冬、そんな土地ならではかもしれません。

韻をふんだ文で書かれています。
『そらをさんぽしていたおひさまが』で始まります。
お日様が助け出された所は
『おひさまは しげみのうえを
しらかばの はのうえを
どんどん はしってく』

と表現されています。

文自体に美しさがあります。






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なんて素敵な

2019年09月29日 | 書籍紹介
こちらの本をご存知ですか?


ロシアのおとぎ話の挿絵を集めたものです。
近くの図書館を調べましたらありましたので早速借りてきました。







この絵の美しさ。
細かいところまで丁寧に書かれています。アート作品です。温かみもあります。
どれも部屋に飾っておきたいくらいです。
美術館にポストカードにして売っていたら止めどなく買ってしまうかも・・

ロシアはおとぎ話が多いのだそうです。
文字で書き留めるのが遅かったからだそうです。文字で書き留めるのは教会が管理する宗教的なもので、世俗的なものはその価値がないとされていたのだそうです。

伝承されているうちにちょっと違う話になってしまって、登場人物は同じでも逆の結末になったパターンで増えていったのでしょうか。

この本にはおとぎ話のあらすじが短く載っていて、それに関連した挿絵がたくさん掲載されています。

森の中の花や木の美しさ、地面に転がる木の実。擬人化された動物たち。家の中の暖炉やテーブルの上にある食べ物。
音楽の物語を想像しようとした時のヒントがたくさんあります。

熊が出てくる話はあれとこれがあったな、キツネはこんなことしてた、あんなめにあった。

などなど、一つのものから想像できるネタが多いようです。
さらに美しい挿絵の記憶が想像を広げます。

この本は絶版になっているようでamazonで中古品が入手できるようです。
本の定価は¥2800+税ですが、販売されているものは少し高いです。300ページ近くある厚い本です。
参考にご覧ください。
ロシアの挿絵とおとぎ話の世界 (単行本(ソフトカバー))
解説・監修 海野 弘 (その他)

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「遊藝黒白 」第2巻#3

2019年09月29日 | 書籍紹介
この本、思いがけず奏法や楽派の話を知ることができ、とても興味深く読んでいます。

詳しいことは書くことができませんが、ちょっとだけフランスの話を。

例の50年前に誰も使わなくなったというマルグリット・ロンやデカーヴ等の奏法。

フランスではちょうどベロフ、ロジェ、ルヴィエ、ジャン=フィリップ・コラール等の年代がその過渡期だったようで、学生の頃に奏法を直したり、両方を上手く取り入れたりしたようです。

彼らは1950年前後に生まれています。9~16歳でパリコンセルヴァトワールに入学しています。
その頃にロン一派の奏法では軽く速く弾けるが音色に乏しく乾いた音しか出せない。その奏法は好きではなかったとロジェ以外は言っています。(ロジェはロンのテクニックや演奏スタイルには全く興味がなかったと。楽曲の解釈や作曲家について教えてほしかったと。)

ロジェの場合はロン一派の奏法ではありませんが、ロンがテクニックについて教えることはなかったのだそうです。(ロンは、独学で弾いていた9歳のフランソワに自分の奏法を押し付けることは全くしなかったのだそうです。不世出の天才。絶対に変えることはしてはいけないと言って。)

サンカンという16歳からピアノを始めたピアニスト・作曲家がいて、彼は人間の体の筋肉の構造をよく研究していて、どう使ったらどんな音が出せるのか熟知していたそうです。ロシアの奏法もよく知っていたそうです。

ジャン=フィリップ・コラールが、難しかったことは新しい奏法を覚えることではなく古い奏法を忘れることだったと言っています。
原田英代さんも全て忘れて学び直したと本に書かれています。

コラールの話で笑ってしまったのが、その頃サンカンのような奏法で教える教師はいなかったらしく、学院内の教師たちが、
「サンカンの頭は狂ってる!あんな怪しい方法で教えている教師の所には絶対に行ってはいけない!行ったら頭がおかしくなる!」
と言っていたそうで・・

昨年、重力奏法で教え始めたところ、「こんな教え方はおかしい」とピアノ経験者が多くいる地域でことごとく入会を断られました・・

頭がおかしいと思われてたのかな・・

コラールは17歳でサンカンの所に行ったそうですが、サンカンに「今のテクニックをそのまま維持しても良いですが、もしあなたが学びたいと思うなら私は違う奏法を教えることができます」と言われ新しい世界を開いてくれたと言っています。

これらの話をベロフが上手くまとめています。

もう絶対にこの本はピアノの先生方に読んでいただきたい!!

フランスでは今70歳近くのピアニストたちが奏法の過渡期にあって古い奏法を捨てたわけです。
ベロフらが10代の時に変わったということは55年位前には現代の奏法に変わっていったということです。

日本では過去の奏法はまだ現役です・・

ベロフが古い奏法はすでに歴史になっていて誰も使っていない。私たちはピアニストになりたいのであって「フランスのピアニスト」になりたいのではないと言っています。
限られたテクニックと限られた曲に満足して自己陶酔に陥っていても意味はないと言っています。

この話の前にコラールがロン等は奏法を変えようとはしなかった。なぜなら自分たちの演奏に誇りを持っていたことと、フランスの聴衆がその速くて軽い演奏を好んでいたから、と。

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「遊藝黒白」第2巻 #2

2019年09月26日 | 書籍紹介
この本、本当に面白いです。

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音符ではなく、音楽を! 現代の世界的ピアニストたちとの対話 単行本 – 2015/4/15 焦 元溥 (著), 森岡 葉 (翻訳) amazon

ピアニストたちの思想を語るような本ではなく、子供の頃の話や学生時代の話、関わりのあった音楽家の話などを通して音楽について自然に語っています。

ポーランド、ハンガリー、ロシア、ルーマニア、フランスのピアニストたちが登場します。それぞれどんな音楽教育を受けたのかも知ることができます。

国によってロシアの影響が強かったり、ロシア、ドイツ、フランスとバランスよく学べる環境にあったり。
なんだかその土地に生まれた運命を感じたりします。

さて、フランスのルヴィエ。
唐突ですがあのルヴィエです。この本に載っています。

パリコンセルヴァトワールでバレンツェン、ペルルミュテール、サンカンに師事したそうですが、第1希望のサンカンのクラスに入れず、第2希望のペルルミュテールのクラスにも入れず、入試の時にお世話になった先生のクラスのも入れなかったそうです。(クラスの定員のため)

結局バレンツェンに5年学び、博士課程が創設されたので(1期生がパスカル・ロジェ、ベロフ、カトリーヌ・コラール、アンヌ・ケフェレック、ルヴィエ)、サンカンのクラスを希望するもまたもや入れず、バレンツェンに1年習った後ペルルミュテールのクラスに入り、2年学んだあと彼が退職したのでやっとサンカンのクラスに入れたのだそうです。

ペルルミュテールとサンカンの教えは全く違かったそうです。(詳しくは本を。奏法ではなく伝え方が全く違かったということです。)

演奏活動を始めた頃、ロンティボー国際コンクールで知り合ったソ連のフェルツマンがフリエールの助手を務めていてフリエールに学びたいと準備を始めたら、パリの窓口でソ連に行くには2年待たなくてはならないと言われ断念。

そのころファシナが素晴らしい教師だと聞き、彼に師事することに。(ポーランドでネイガウスの弟子に師事していた人物)

ファシナはピアノ演奏のあらゆる面に渡り細かく分析し、これまで学んできたものを整理してくれたそうです。一音弾いただけでどこに問題があるのか分かったそうです。

ルヴィエは32歳の若さでパリコンセルヴァトワールの教授に就任。
教授になる人のほとんどが50歳を過ぎていたそうで、もの凄いプレッシャーだったそうです。

彼が指導者の道を選んだのは自分でも不思議なのだそうです。
もともと母校でソルフェージュの代講をしたりしていて、ピアノ科に欠員が出て声がかかったそうです。

16歳の時に隣家の子供を初めて教えた時から教えることが好きになったそうです。
様々な教師の下で多くのことを学び、経験を積んだことを学生たちと分かち合うことが楽しいのだそうです。

お目当ての先生にすぐに師事できなかったのも運命という気がします。

この本を読んでいるとその道に進む運命ってあるんだなと感じます。

ちなみにルヴィエは、何が「フランス・ピアニズム」なのかわからない、と言っています。
2つの異なるピアニズムが存在する話はしています。

ルヴィエはヴァイオリンのジャン=ジャック・カントロフ、チェロのフィリップ・ミュレと40年以上(このインタビューが2006年なので50年以上)トリオの活動をしているそうです。

キャー、カントロフパパ!(アレクサンドルのパパ)

室内楽をジャン・ユボーに師事したそうで、私はユボーが誰かも知らずシューマンの室内楽曲の演奏を気に入ってよく聴いていました。
一生これしか聴かなくてもよいと思っていたくらいです。


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「遊藝黒白」第2巻#4

2019年09月25日 | 書籍紹介
楽派についてのピアニストたちの意見です。

楽派についてツィメルマンもシャンドールもアシュケナージもキーシンもパラスキヴェスコも(他にもいらしたかもしれませんが)存在しない、考えたことがない、または消滅したと言っています。

ツィメルマンは「ピアニズムとか楽派というものがそれほど重要なのでしょうか。特にアジアではすべてを分類しそれで満足するところがあります。芸術というものは人の心に存在するもので、日常の言葉では表現できない領域なのです。」

アシュケナージは「演奏者の務めは、楽曲が何を語っているかを聴衆に伝え、音楽を心で感じてもらうこと。決して音符を聴かせることではありません。」

ダヴィドヴィチは「ロシアピアニズムの最大の特徴は美しい音色を追求することですが、どんな奏法であろうと音楽を豊かに表現する手段の幅を広く持つべき。深く豊かな音色の世界を極めるには、多彩な表現の方法を探求し続けなければなりません。技巧は音楽を表現するために存在します。」

キーシンによるとロシアンピアニズムの4大支流について「4人の巨匠はお互いを区別しようとは思っていなかったようです。カントル女史によると、ネイガウスは自分の生徒たちにフェインベルクのバッハの演奏法やゴリデンヴェイゼルのベートーヴェンの解釈を学びなさいと言っていたそう。教師同士もお互いに独立して一派を築こうとは思っていなかったのではないでしょうか。」

キーシンは自分の演奏について「私はただ音楽の中から、美しく、豊かで、深く、偉大な特質を見つけ出し、音楽そのものを考えながら演奏しているだけです。つまり、私は忠実に音楽を体現しようとしているのです。」

パラスキヴェスコは「ピアノ教育という意味ではフランスピアノ楽派の特色や教え方の特徴があるかもしれませんが、演奏楽派としてはすでに消滅していると思います。実はあらゆる楽派がすでに消滅しているのです。私にとって楽派は二次的なもので、もっとも大切なのは音楽に対する情熱と才能だと思います。」

楽派云々ではなく心と音楽。


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「遊藝黒白」第2巻読んでます#1

2019年09月23日 | 書籍紹介
今頃読んでいるのですかと思われるかもしれませんが、ご紹介したい本があります。

焦元溥(チャオユアンプー)という台湾の音楽ジャーナリストの方が書いた「遊藝黒白」という世界のピアニストにインタビューしたものを日本語に訳した本です。
好評なようで何冊かシリーズで出版されています。
私が読んでいるのは第2巻の「音符ではなく、音楽を」です。

ツィメルマン、シャンドール、アシュケナージ、ミラ・ダヴィドヴィチ、キーシンなど15人のピアニストたちのインタビューが掲載されています。

内容はどれも興味深く、ピアニストたちが焦氏だからと時間を作ってインタビューに応じたという、他では知ることのできないであろう話が丁寧に綴られています。

本物の音楽家たちが集められています。

さて、この中からルーマニア生まれでパリコンセルヴァトワールのピアノ科教授であるテオドール・パラスキヴェスコ氏の話を少しだけ。

彼はコルトーの弟子のルフェビュールに師事したそうです。
ルフェビュールは手がとても小さかったのでコルトーとは別のテクニックを自分でみつけたそうです。ラヴェルを得意としラヴェルも彼女の演奏を認めていたとのこと。

彼女自身もテクニックを教えることはなく、どう表現するかについて考えそのためのテクニックは自分で考えなさいという指導だったそうです。

ルフェビュールとコルトーの関係は良好だったそうですが、彼女はコルトーの校訂した楽譜やテクニックの教材はあまり使おうとしなかったそうです。

なぜなら、コルトーが真に意味したことが教材の中にないことをよく知っていたから。

例の「コルトーのピアノメトード」
この本をコルトーは本当は出したくなかったのだそうです。出版社の圧力に負けて仕方なく出したとのこと。才能があり、音楽を愛している人ならば自分に合った練習法を自然に見つけるだろうし、才能がない人はどんなに練習しても仕方がないというのが彼の考え方だったそうです。ですから教材を書いても何の役にも立たないと思っていたと。

はは

こちらルフェビュールのマスタークラスと演奏です。
Yvonne Lefébure teaches how to play Ravel

見たことがある動画でした。情熱的な方だなぁとあっけにとられながら見ておりました。
「水の戯れ」の冒頭はラヴェルはスラーを書いていますが、ここはハーフ・スタッカートでなければ水滴が戯れて舞い飛ぶ情景を描写できないと考えそのようにラヴェルに弾いて聴かせたところ、ラヴェルも気に入ったのだそうです。こちらの動画でも最後の方でその話をしていると思います。Ah,oui,comme ça!!


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ロシア·ピアニズムの贈り物から

2019年07月01日 | 書籍紹介
原田英代さんの「ロシアピアニズムの贈り物」、参考になることが沢山あります。
興味深く読ませて頂きました。

いくつか心に残ることがありましたのでご紹介したいと思います。

「ロシアに伝わるピアニズムとは」から
伝統を受け継ぐとはどういうことなのか?形だけを真似てみたところで伝統を受け継いだことにはならない。伝統が伝えられていくためには基本的な理念が十分理解されていかねばならばいし、それを発展させるだけの資質を持ったピアニストが養成されなければならない。

「オシップ·ガブリロヴィチ」から
タッチは鍵盤に加えられる重みの量と速度によって決定される。教師は生徒一人一人の聴覚に訴えかけて教えるべきであり、これこそ唯一の道である。つまり、教師がまずピアノで音色の効果のある演奏を示すべき。
指の力みによる演奏は乾いた硬い音を生むため、肩から腕、指先まで完全に力を抜いた状態で行う腕によるタッチを推奨する。

「ロシアピアニズムの多様性」から
ロシア人には知的な寡黙性がある。知的停滞の原因はロシアの未開状態にではなく、この文化の独特の性格に求めなければならない。この知的寡黙性こそが、高い精神性の芸術を生み出す源泉でもあったのだ。

「文学を読む必要」から
全てを体験することは不可能だ。それならばわかろうと努力することだ。

「一音一音に感情を宿らせる」から
ウラジーミル·ウラジーミロヴィチ(ソフロニツキー)、あなたの演奏は魂が込められており、霊感に満ち即興的な力にあふれているのですが、その秘密は一体何なのですか。
ソフロニツキーは答えた。私は一音一音を考えて弾いている。
この神秘的なピアニストはたんに直感に任せて弾く演奏家ではなく、音一つ一つと生を共にしていたのだ。
考えるとは、例えばその音程を感じること、その音程と自分が同化することを意味する。
メルジャーノフは一つ一つの音に人間の感情を宿らせていくことに精神を集中した。わずか一つの音でも感情を示唆できた。

「メルジャーノフの人生哲学」から
苦労が人間を豊かにする。失望は人間を熟させる。いかなるときも希望を失ってはならない。しかし、期待はするな。

「重力奏法」から
ロシアのピアニストは二千席からなる大ホールでも音を語ることが出来るのだ。生徒はまずこの奏法の訓練をさせられ、教授は指のみで弾く生徒にパパ、ママのために弾くならばそれでいいがねと言ったものだ。この重みを使った奏法をリストもアントン·ルビンシュテインも駆使していた。
重力奏法を一言で説明するならば、手首の弾力性を利用し、腕、肩、背中、ひいては身体全体の重みを使って弾く奏法と言える。それが身に付くまで忍耐強いアプローチが必要となる。
これはたんに楽をして弾くことや大きな音を出すことが目的として編み出されたのではなく、深い精神性を湛えた多様な音を生み出し、どれほど大きなホールにおいても音楽の内容を最後席まで伝えるためのものである。

胸の筋肉を使う。腰を落として鎖骨のすぐ下の部分を使う。さらに大きな音量が必要な時は腰から弾く。これは速いパッセージを強音で響かせたい時に特に役立つ。
どのように習得するのか。最初は一音一音手首の上下運動を使って音を出す練習をする。イリーナ·ザリツカヤ(ショパンコンクールでポリーニに次いで2位)も講習会でこの方法でゆっくりなテンポで一つ一つ重みをかけていく練習の仕方を生徒たちに忍耐強く教えていた。

「いかに重力奏法を習得したか」から
レッスン中、メルジャーノフは重みをかけろ、重みをかけろと言った。彼は重みをかけているのであるが、それと同じほど下半身からの支えがあった。全ての関節と筋肉が柔らかく下半身からの支えのおかげで、液体状のエネルギーがひっきりなしに楽器に流し込まれ音に還元されていた。

肘の柔軟性、手の使い方なども書かれています。
忘却の川やチャイコフスキーの四季についての話も是非読んで頂きたいです。

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「ロシア・ピアニズムの贈り物」#2

2019年06月14日 | 書籍紹介
原田さんの「ロシア・ピア二ズムの贈り物」から今回は系譜の話を。

ロシアのピアノ芸術の種を蒔いたのはアイルランド人ジョン・フィールドだそうで。
ノクターンの先駆者として知られているあのフィールドです。

彼はピアニストとしてもかなりの腕前だったそうです。
恩師であるクレメンティが演奏活動を辞めピアノ製造に熱を入れ、デモンストレーションのピアニストとして最も優れた弟子であったフィールドをサンクトペテルブルクに同行させたのがフィールドとロシアの出会いでした。

フィールドはクレメンティが次の目的地ドイツへ旅立ってもそのまま当地に留まり、このことがロシアのピアニスト黄金時代を築く基となりました。

フィールドは現在もロシアピアノ楽派で受け継がれている「ジュ・ぺルレ」と言う「真珠の粒」奏法を見事にマスターしていました。

ロシアにコンサートで訪れたドイツ人アドルフ・フォン・ヘンゼルト。彼はモーツァルトの弟子フンメルに教えを受け「ジュ・ぺルレ」奏法を習得していました。
ヘンゼルトの演奏はリストの豊かな響きとフンメルの滑らかさを併せ持ち、彼の「歌う」ピアノ演奏は無比のものと謳われました。

ヘンゼルトは格別の待遇でサンクトに留まることを決意し宮廷ピアニストになります。
その傍ら法律学校でピアノを教えたそうです。彼は「詩情豊かな雰囲気、洗練された優美さ、色彩に富んだ音色、芸術的な多様性が自己の中で発達する」ことを生徒たちに要求し促したそうです。
これはロシアピアノ楽派の特徴を表しています。

ヘンゼルトがサンクトに留まって4年後、リストが当地を訪れます。互いの名声を聞き及んでいた2人はそれから40年間親好を続けます。
ヘンゼルトの厳格なメソッドは弟子によってラフマニノフ、スクリャービンにも伝えられていきます。

リストはロシアで直接教えることはありませんでしたが、ワイマールで教えた弟子たちによって、リストのピアニズムがロシアで受け継がれていきます。

そのリストに基礎を教え込んだのがベートーベンの弟子ツェルニーというわけで、ロシアンピアニズムはベートーヴェンまで遡るとなるわけです。

それならフィールドの師クレメンティもその一員と考えて良いわけで、「ピアノフォルテの父」の面目躍如です。ベートーヴェンの「皇帝」を出版していて繋がりもあります。

それならヘンゼルトの師の師モーツァルトもその一員ということに・・
しかしモーツァルトはクレメンティの演奏を「ケッ、指痛めるわ。姉さんあんなの弾いちゃだめだ」と言い、一方クレメンティはモーツァルトの歌う演奏に感銘を受け、歌うことのできるピアノを作りたいと演奏活動を辞めピアノ製造にのめり込むことに。

モーツァルトはクレメンティのテクニックを妬んで「指が硬くなる」からナンネルに弾かないように言ったとも言われています。

利益をむさぼるクレメンティに嫌気がさしたフィールドがクレメンティのドイツ行きを拒みロシアに定住することになり、それがロシアンピアニズムを築くことになる。

書いていてもわけがわからなくなります・・
グルグルしてきます。

クレメンティ→フィ-ルド→「ジュ・ぺルレ」
モーツァルト→フンメル→ヘンゼルト→「ジュ・ぺルレ」
ベートーヴェン→ツェルニー→リスト

この系譜を知るとロシアンピアニズムの特徴がよくわかります。
この芸術がロシアに流れ込んだのは、ピョートル大帝やその後のエカテリーナ女帝が関係します。

リストと同じくウィーンでツェルニーに師事したレシェティツキは、アントン・ルビンシュテインが初代学校長を務めたサンクトペテルブルク音楽院で教授となり多くの弟子を育てました。弟子であった奥様もたくさんのお弟子さんを育てています。

弟子のひとりがクロイツァー、プロコフィエフ、ホロヴィッツの少年時代の師タルノフスキー、バーンスタインの師ヴェンゲローヴァを育てています。

ホロヴィッツはキエフ音楽院でアントン・ルビンシュテインの弟子ブルーメンフェルトに師事。

気難しいアントン・ルビンシュテインの音楽院以外の唯一の弟子がヨーゼフ・ホフマン。熟れた苺の人です。

知らないお名前がゴロゴロ並び、とても覚えられません。
まっ、覚えなくても良いのですが・・

今のところまだ、ネイガウスの名前は出てきておりません。

ネイガウス以前の歴史も相当立派なようで。

次回は、音楽家の言葉で印象に残ったものがあるのでそれをご紹介します。


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「ロシア・ピアニズムの贈り物」#1

2019年06月13日 | 書籍紹介
「ロシア・ピアニズムの贈り物」原田英代著を読んでいます。

5年前に出版された本なので新しいものではないのですが、その頃はまだロシア音楽は好きでもロシアンメソッドなどと言う言葉さえ知りませんでしたので、たとえ見かけていても気付かなかったと思います。

原田さんはモスクワ音楽院のヴィクトル・メルジャーノフ教授の愛弟子の方だそうです。
東西の壁が崩壊したことでロシア人音楽家が西側に出ることが容易になり、ドイツで教授のマスタークラスを受講したことが最初の出会いだそうです。

教授の強靭さと柔軟性が同居したテクニック、そこから生まれる響きの豊かさ、終始語られる音楽。亡き巨匠たちの録音で耳にした演奏が目の前に実際に存在していた驚き。

耳を疑いたくなるほど美しい幻想の世界を描くのその音楽は彼の柔らかい手首から生まれているように見えたそうです。
手が小さいため指使いに工夫を凝らしていた原田さんはこのテクニックなら楽譜通りの指使いで弾けると直感されたそうです。

(これと同じような経験を実は私は学生の頃にしています。私の恩師は小柄で手もかなり小さい方でした。レッスンで先生の手首に度々手を乗せさせていただきましたが、その柔軟性と弾力性には毎回驚きました。この動きがあれば遠い音でも力むことなく届くと思いました。)

原田さんがメルジャーノフ教授に弟子入りした時、「10度は届くのかね」と訊かれ「いいえ」と答えると「では、伸ばせば」と言われたそうで。

そして原田さんのゼロからの修業が始まったそうです。それまでの知識を全て忘れ去り、新たな奏法、音楽への新たなアプローチ、全てにおいて新たな人生が始まったそうです。

ロシアピアニズムの礎を築いた一人ヘンゼルトをリストは「私にも彼のようなヴェルヴェットの手があったら」「私がヘンゼルトのように弾こうと思ったら、少なくとも2年は学ばなければならない」と語ったそうです。

そのヘンゼルトの手は決して大きくなく、手を広げる訓練を黙々と続け弾力性のある広がる手、つまりヴェルヴェットの手を勝ち得たそうです。

リストの師であるツェルニーは電光石火のような速さで弾きたがるフランツ少年に、指を鍛えさせ、様々なタッチを付けさせ、少し緩めのテンポで弾く練習をさせ、自己流で弾くフランツの演奏を矯正するために根気強く基礎を教えたそうです。

この体験が教育者としてのリストを誕生させ、指を様々な動きで鍛えさせるリストの練習システムはモスクワ音楽院に受け継がれているそうです。

手を広げる訓練。
やはり存在するようで。
自分用に買ったこちら自分のためにの楽譜。手を広げるページを毎日20分位していますが、本当に広がってきます。
絶対無理!と思って憬れだけで済まそうと思っていた曲の譜読みを始めました。

原田さんの本は読み始めたばかりですが、ロシアンメソッドの講座で必ず登場するレシェティツキやリスト、イリーナ先生によるとその歴史はベートーヴェンに遡るという話、全部まとめて書かれていました。

次回、こちらでもまとめてみたいと思います。
ちゃんと繋がりがあるようです。


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日本人の音楽教育#6 これがラスト

2019年04月22日 | 書籍紹介
カヴァイエ先生の本です。

30年前と現在とどのくらい日本の音大は変わったでしょうか。

この本の最後の方にこのようなことが書いてあります。

「日本の音楽大学は完全に凍り付いている」

日本の音大に伴奏科や室内学科がないこと、入学試験の課題曲、学内試験の方法、学生のレパートリーの狭さ、音楽全般の知識の少なさ。
これらのことを嘆いていらっしゃいますが、次の文を読んだ時にきっと今も昔と大差ないのではないかと思いました。

日本の音大で教えた経験のある著名なドイツ人教授の言葉を引用して、
「日本の音楽大学は完全に凍り付いている。そこで生じていることはことごとく20年も30年も昔のままで、何一つ変わっていない。そもそも変わる可能性もない。それは凍結状態の動物のようなもので何ら動こうとしない。」

老教授たちについて、
「彼らが昔ドイツで教わってきたメソッドはそれ自体凍結されたメソッドであり、あえていえば二流のメソッドに他なりません。」

「今の調子で行くと音楽芸術という分野に関しては、日本は20年先も30年先も、50年先もヨーロッパやアメリカよりもおくれをとっているはずです。」

日本に招聘された多くの外国人教師と個人的に話し全く同じ意見だったこととして、
「日本では音楽教育制度上のいかなる新しい実験や試みに対しても恐ろしいほど消極的で改革しようとする意欲が全くない。」という不満を漏らしていたとのこと。

30年たった今、カリキュラムがどの程度変化したかは知りませんが「二流のメソッド」は今もおそらく主流です。

ヨーロッパやアメリカにおくれをとっているどころか今やアジアの中でもおくれを取っています・・

全く新しいアカデミアを是非築いてほしいと次のようにおっしゃっています。
「新しいカリキュラムの計画に当たって、常にオープンなそして自由な心を持つこと。すなわち、変化を恐れるな、ひとつの考えに決して固執するな、柔軟であれ、他の音楽学校でやっていることと異なっているのではないかといったことを何ら気にするな。」

いかがでしょうか。
学校ということではなくとも、音楽教室でも20年、30年前と現在が大きく変化したとは思えません。

新しいことを勉強されている先生は少なくありません。
なのに、それを実際に生徒さんのレッスンで試される先生は少ないように思います。

「いいとわかってはいるのですが」と・・

学生の頃、ドイツ人の先生のゼミで先生がリサイタル前に1曲弾いてくださいました。
危うくなった所がありました。内心驚きましたが、弾き終えて先生は一言。
「ここがまだあやふやでちゃんと覚えられていない。ここをもっとやらなければ。」

それを聞いた時に、生徒と対等の気持ちで接して下さっているのだと思いました。
現代曲が得意な先生でしたがその時はシューベルトのソナタを弾いてくださいました。

その先生のゼミの試験曲に武満徹の曲が課題になりました。
同じ日本人の作品なのに全く知らない曲、とうより武満さん自体あまりに遠い作曲家でした。なのにドイツ人は知っているという・・

まさにピアノ音楽でさえ狭い範囲のものしか知らない学生であったわけです。

音楽的に遠いと思っていたのに、武満さんに渋谷でバッタリ遭遇したことがあります。

2016年6月来日したユーリ・バシュメット&モスクワ・ソロイスツ のコンサートのアンコールがこの曲でした。Waltz from "The Face of Another"
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