「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県築上町 ・ 彫刻家・朝倉文夫の 「 三子銅像台座 」

2013-07-02 06:00:02 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



中央にある 「 久良知重敏の銅像台座 」

「 三子銅像 」 の中央に建つ久良知重敏は、文政12年 ( 1829年 ) 生まれ、
明治4年 ( 1871年 ) に小倉県左官助に就任し、翌5年に築城郡の大庄屋を務め、
柏木勘八郎らと炭鉱経営に携わっていた。
明治42年に ( 1909年 ) に80歳で生涯を閉じた。






正面に向って右にある 「 久良知政市の銅像台座 」

「 三子銅像 」 の右に建つのは重敏の長男である政市で、
田川郡の炭鉱に従事し、 「 後藤寺川宮磺區二千五百歩 」 を開いたが、
明治21年40歳の若さで病死した。
政市の死後、蔵内次郎作が鉱務を担当し、業務を拡大して行った。
尚、政市の娘ユキは蔵内保房に嫁いでいる。





正面に向って左にある 「 蔵内次郎作の銅像台座 」

蔵内次郎作は弘化4年(1847年)に新六の子供として生まれた。
蔵内保房は文久3年(1863年)に次郎作の兄、栄治とカツとの間に生まれ、
後に、次郎作の養子となった。


次郎作は明治18年、親戚の久良知重敏、政市親子とともに峰地炭坑(添田町)の採掘を始め、
大峰炭坑(大任町)、京殿坑、大谷坑(水巻町古賀)や
飯塚坑(飯塚市穂波町南尾)など規模を拡大して行った。
大正4年、次郎作が力を注いだ小倉鉄道が添田まで開通し、
翌5年には蔵内鉱業株式会社を設立し、保房が社長に就任する。





階段の突き当たりにある 「 三子銅像銘銘并序 」







墓所に通じる階段











旧蔵内邸の裏から山手に向かって400mばかり行った場所に
炭鉱王の久良地重敏、政市、そして蔵内次郎作の墓所に銅像の台座が残っている。
銅像は戦時中の金属類の供出により、撤去された。
この台座や銅像は大正8年 ( 1919年 ) に朝倉文夫が手掛けた作品だといわれている。


朝倉 文夫(1883~1964) は、明治16年3月1日、上井田村(現朝地町)池在に渡辺要蔵の三男として生まれ、
10歳のとき養子として朝倉宗家を継ぎ、尋常小学校を卒業。
19歳のとき竹田中学校を中退して上京する。  
明治36年、東京美術学校彫刻選科に入学。
在学中に1200点もの作品を制作し、明治40年、首席で卒業。
その後は彫刻界の重鎮として活躍。大正8年に帝展審査員となったのを皮切りに、
同10年に東京美術学校教授、同13年に帝国美術院会員となり、
昭和23年には文化勲章を授与されている。  

その間、 「 墓守 」 など数多くの傑作を生み、
驚異的な質と量の作品を残し 「 自然主義的写実主義 」 といわれる作風を確立した。
号は紅塐 ( こうそ ) と称し、 「 東洋のロダン 」 とも称された。


「 朝倉文夫の略歴 」

1883(明16) 3月1日、大分県大野郡朝地町に生まれる
1893(明26 10歳) 朝倉宗家を継ぐ
1902(明35 19歳) 竹田中学校を中退 上京し実兄の彫塑家、渡辺長男宅(旧下谷区谷中初音町)に住み彫塑を学ぶ
1903(明36 20歳) 東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻選科に入学
1907(明40 24歳) 同校彫刻選科卒業、卒業制作「進化」
谷中天王寺にアトリエ新築、朝倉塾として子弟養成
1908(明41 25歳) 第2回文展「闇」2等賞(最高賞) 文部省買上(原型なし)
1909(明42 26歳) 東京美術学校研究科終了
第3回文展「山から来た男」3等賞  文部省買上
1910(明43 27歳) 第4回文展「墓守」2等賞   文部省買上
1911(明44 28歳) シンガポール、ブルネイ、その他、南洋を視察
第5回文展「土人の顔、其の二」3等賞  文部省買上
1912(大1 29歳) 第6回文展「若き日の影」3等賞  文部省買上
1913(大2 30歳) 第7回文展「含羞」2等賞
1914(大3 31歳) 第8回文展「いづみ」2等賞
1916(大5 33歳) 文展審査員に任命される
1919(大8 36歳) 帝展審査員に任命される
1921(大10 38歳) 東京美術学校教授に任ぜられる(山田やまと結婚)
1922(大11 39歳) 摂子生まれる
1925(大14 42歳) 響子生まれる
1927(昭2 44歳) 第1回朝倉塾彫塑展覧会(東京都美術館)
1934(昭9 51歳) 台東区谷中天王寺町、初音町にアトリエを改築、朝倉彫塑塾とする
1944(昭19 61歳) 過去40年間に制作した像、約400点
戦争による金属回収のため彫像のほとんど消滅、うち原型300点は保存
1945(昭20 62歳) 帝室技芸員に任ぜられる
1946(昭21 63歳) 12月、妻やま死去(享年60歳)
1948(昭23 65歳) 第6回文化勲章受章(大分県1号)
1958(昭33 75歳) 日展顧問となる
1961(昭36 78歳) 台東区名誉区民推載
1964(昭39 81歳) 4月18日、急性骨髄性白血病にて死去



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