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「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県沖縄市 ・ 尚 円王の弟 「 尚 宣威王の墓 」

2014-01-24 05:01:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



尚 宣威王の墓








尚 宣威王の墓 ( 手前 ) と親族の墓 ( 奥 )








尚 宣威王の親族の墓







墓の前にある尚 宣威王の経歴が彫られた碑文








この長い階段の上に墓がある







階段の登り口にある 「 尚宣威王御墓 」 と彫られた墓標













沖縄市にある美来工業高校 ( 旧・中部工業 ) の裏門前を抜けると 「 かやま橋 」 が架かっている。
その橋を渡り切って、すぐに左に曲がると尚 宣威王の墓がある。

尚 宣威王の墓は、階段を上った崖の中腹にある横穴墓で、入り口を布石で塞いである。

第二尚氏・尚 円王が病死し、世子の久米中城王子 ( のちの尚 真王 ) は幼少ということで、
諸君に推されて尚 宣威王 ( 尚 円王の弟 ) が王位に就いた。
尚 宣威王は越来王子として六年間、越来グスクにいたが、
即位してからは首里城に共住した。
しかし、在位六か月後に 「 神のお告げがあり、尚 真こそ王を継ぐべき 」 と、
神女が託宣した。

これは神の仕草をする神女と、尚 真の母とが策略したものであろう。
尚 宣威は退位し、越来村に隠遁した。
その子孫は湧川殿内門中である。
長男の越来王子朝理 ( 湧川殿内の始祖 ) は越来間切り総地頭だったが、
二世からは越来間切り美里の脇地頭に下がった。
後年、尚 真王の四男・朝福が越来王子になり、越来間切り総地頭になった。



沖縄県北中城村 「 渡口ティラ 」

2014-01-23 04:53:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



北中城村 「 渡口ティラ 」











渡口ティラは、渡口交差点北東側 ( 海側 ) に100mほど入った場所に、
石積み家型の拝所として建っている。
石積みの屋根頂部には宝珠を載せている。
堂内には50センチから80センチの砂岩が四基安置されている。

昔は、押明キョウ・笑キョウ・イベヅカサ・寄キョウと命名され、
霊石として崇められていた。
今はビジュル・ボージャー仏・子孫繁栄の神などと呼ばれ、
子に恵まれない女性が祈願しているようである。

昔、渡口村に高時 ( セジ高い占者の義か ) という人が、
霊石を権現と崇め、宮を建てたと伝える。
高時の三代目の子孫である伊舎堂集落の五良勝連の養子・カマドゥ与儀が
祭事をとり仕切った。

沖縄県浦添市伊祖 「 伊祖の高御墓 」

2014-01-14 06:20:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所










墓は浦添貝塚横の崖の中腹にある


















伊祖の高御墓は1972年のバイパス道路建設で存亡の危機に直面したが、
住民の粘り強い運動で、計画が大幅に変更され守られた経緯がある。

浦添墓地公園がある丘陵の中腹にあり、
地上より高所にあるので 「 高御墓 」 と呼ばれたようである。
墓はバイパスの伊祖トンネルの ( 眼鏡トンネル ) の真上の丘 ( 東面 ) にあり、
浦添墓地公園から展望台がある方へ入って行く。

墓は岩の横穴の前面を石で積み上げて塞いだもので、墓口は大きい。
歴史的に古い形式のものである。

墓内には三基の石棺があるといわれ、13世紀の英祖王の父・恵祖 ( イーズ ) 世ヌ主や、
先祖の遺骨が納められているという。
恵祖世ヌ主 ( 領主を世の主という ) は、伊祖グスクの城主であり、
晩年に英祖が生まれ、英祖はテダコ ( 太陽子 ) と呼ばれていた。



沖縄県中城村 「 安里ティラ 」

2014-01-12 05:10:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄県中城村 「 安里ティラ 」

























昔、中城村屋宜の百姓が漁をしようと舟を出したところ、
急に風が強くなり航行できないので、安里の浜に舟を停めておいた。
しばらく浜辺で仮寝をしていると、夢を見た。
地中から霊石が三個出て来て、 「 我は権現 ( 仏が仮に神に姿を変えて現れる意 ) である。
崇信すればそちの持病は治り、願い事も叶えられる 」 という声がして、目が覚めた。
あたりを見ると、霊石のような石があった。
それでユタ家に行って占いをさせたところ 「 大吉 」 と出たので、この三石を祀り、
名付けて、ひとつは笑イキヨ、ふたつは押明ケガナシ、三つはイベヅカサとした。

その後、海中から石が浮かんで来た。
これに寄りキヨラと名付け、前の三石とともに小宮を建てて祀った。
この人の持病は治り、家は富み、子孫は繁栄した。
村人も安里権現として崇めた。
この霊石はビジュルと呼ばれ、白衣を着せてある。
子孫や安産の祈願者が多い。



浦添市大平  「 三様 ( みさま ) の墓 」

2014-01-11 05:32:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



浦添市大平にある 「 三様の墓 」












浦添市のパイプラインの小湾バス停から東へゆるやかな坂道を約200mほど行くと、
安信運輸の後方に 「 小湾共同墓地 」 があり、
その入り口の左側に 「 三様之墓 」 がある。
向かい側には御嶽や泉井を合祀した拝所がある。

小湾は、戦前は勢理客 ( じっちゃく ) の隣にあって、海に面していた。
風光明媚なところで、王家の御殿や別荘、上級士族の別荘が並んでいた。
戦後米軍基地の接収にあい、住民は字宮城や字大平に移住させられた。


昔、小湾川の河口には山原舟 ( やんばるせん ) が出入りしていた。
波が荒れると舟はV字形の湾口に避難して来た。
ある日、仲西村の外間の娘が海水を汲みに湾口に来てみると、
舟が割れて陸に打ち上げられ、3人の男が浜に伏せていた。
娘が介抱して3人は助かりこの地に住んだ。
名前は、新屋、外間、勢理といい、小湾を村づくりしたという。
その子孫の宮城、外間、大城の三門中が祀る三様の墓に、
字民は正月初拝みや、旧暦5月ウチマーの時に拝んでいる。



「 墓めぐり 」 について

2014-01-11 05:31:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所








ブログに墓の写真を掲載することは、
このブログに訪問して下さる方々の家族や親族、
または大切な人との死を関連させるようで、
なかなか受け入れられないものだと思う。
だから 「 見たくないものは開かずにおこう 」 と思うのは当然だと思う。

ただ、死者の尊厳を尊重するだけではなく、
その歴史上の人物がどのように生き、
どのような場所でどのような死に方をしたかということや、
その墓がどんな形をした墓なのかなど、とても興味深いことである。

識名墓園ではないが、見渡す限り墓、墓、墓。
抜けても歩いても墓、墓、墓である。
その中で、自分が探す墓を見つけ出すことは至難の業であるが、
それを見つけ出したときは、グスクと同じように達成感がある。

墓地や岩陰墓を廻っていると、どの墓も一種独特の雰囲気を醸し出しているが、
人を寄せ付けないような凄味や威圧感などは感じられず、
むしろ底知れぬ寂しさと、訪れてくれた歓迎にも似た空気を感じるのである。
それは、墓のある環境や墓を訪れた時の
自分の心の在りようが反映されているのだと思う。

ただ、グスクの探訪中に偶然出くわす按司墓とは違い、
最初から墓を訪れる目的だから覚悟の上の墓はむしろ歓迎である。


人を知り、歴史を知り、墓を知る。



一日じゅう墓めぐり

2014-01-07 18:05:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所






昨日に続き、今日も朝から墓めぐりをした。
一か所だけ探し出せなかった墓があったが、
ほかの12基はちゃんとさがした。

明日も残った墓をめぐるが、充実した一日だった。




沖縄県うるま市宮里 「 江洲按司の墓 」

2013-12-21 05:28:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



奥が江洲按司と手前が妹 「 つきおやのろ 」 の墓








母せりきよ、座安掟親雲上 ( うっちーぺーちん ) 代々のノロを一緒に葬った古墓





江洲集落に江洲ヌル殿内があり、
標高100mほどの丘が江洲グスクである。
仲原小学校の裏丘、江洲629番地の道向かいに按司墓へ行く小路がある。
石段を登ると岩陰に石積みされた江洲按司とヌル墓がある。
石碑には 「 兄 えすあんじ之が左 妹 つきおやのろ之が右 」 と刻まれている。
他に母せりきよ、座安掟親雲上 ( うっちーぺーちん ) 代々のノロを一緒に葬るとある。

按司とヌルは、尚 泰久王と江洲生まれの女との間にできた子であるという。
真栄田家・嘉陽家がその子孫にあたる。
南西の崖下に江洲王子の墓もあるという。
尚 泰久王が宮里生まれの女に産ませたのが尚 武ではなかろうか。
江洲按司は五男宗組で、尚武は六男ともいわれるが判然としない。

江洲グスクには尚 巴志の六男の尚 布里王子が居たといわれ、王位継承の内乱で遁󠄀走した。
そのため尚 泰久王の五男が江洲グスクに入ったといわれ、
第一尚氏王統の没落とともに廃城になった。


※ 尚 布里王子の墓


沖縄県浜比嘉島 「 シルミチュー霊場 」

2013-11-09 05:03:39 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄の開闢始祖であるアマミチューとシルミチューの住居洞穴






















シルミチュー洞穴に続く階段






シルミチュー洞穴の近くにある奇岩










宇比嘉の南南東端の森の中に大きな洞穴がある。
地元では琉球開びゃく祖神、アマミチュー、シルミチューの居住したところと伝えれれている。
毎年、年頭拝みには比嘉のノロ ( 祝女 ) が中心となって、
海浜から小石1個を拾って来て、洞穴内に安置された壺に入れて拝んでいる。
また洞穴内には鍾乳石の隕石があり、子宝の授かる霊石として崇拝され、
信仰圏の広い貴重な霊場である。

普段、ここの洞穴は閉鎖されていますが、島の人など祭事の際は中に入られるそうです。
こちらでアマミチューとシルミチューが3人の男の子と2人の女の子をもうけたとされます。
そして、洞穴内には女性を象徴した鍾乳石があり、子宝の願かけを行う拝所としても知られている。



沖縄県浜比嘉島アマジン 「 アマミチューの墓 」

2013-10-06 05:35:53 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



階段の上にあるアマミチューの墓 ( 拝所 )








島の入り口に立つ路標








アマミチューの説明版







満潮の時は渡れないが干潮時は歩いて渡ることが出来る







遠くから見ると崖の中に隠れるように見える







望遠で見ると墓の上の左側に逗子甕ではないが骨壺のようなものが見える







独立した島になっているアマジン





浜比嘉島の比嘉港のそばにあるアマジン岩にアマミチューの墓がある。
アマミゾ嶽 ( 神名イシヅカサノ御イベ ) と称する拝所である。
アマミキヨは、辺戸岬や佐敷、百名に足跡をとどめた伝承がある。

アマミキヨは津堅島に上陸したが、水が乏しく安住の地ではないと思い、
浜比嘉島の久場岩 ( 久場島ノ嶽 ) を足掛かりに上陸して、
兼久のシルミチュー洞穴で暮らし、死後、アマジン岩の横穴に葬られたと伝えられている。
明治20年ごろに古骨が散乱しているのをまとめ、石積みセメント造りの墓にしたものである。


碑文より
 字比嘉の東方海岸にアマンジと呼ばれる岩屋の小島があり、
そこに洞穴を囲い込んだ墓がある。
地元では琉球開びゃく伝説で有名なアマミチュー、シルミチューの男女二神及び
他の神が祠られていると伝えられている。
毎年、年頭拝みには字比嘉のノロ(祝女)が中心となって島の人々多数が参加して、
豊穣・無病息災・子孫繁昌を祈願している。

 また、古くから各地からの参拝者が絶えない、信仰圏の広い貴重な霊場である。
文化財保護条例により、勝連町文化財に指定します。
平成7年2月20日 勝連町教育委員会


沖縄県那覇市  「ナイクブ古墓群 」 埋蔵文化財発掘調査 

2013-09-08 00:10:00 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



発掘調査中のナイクブ古墓群







残念ながら、目の前にある墓の中が見えそうで見えなかった







写真の左のムイ ( 森 ) にナイクブ古墓群がある





那覇市の国際通りを挟んで右と左にそれぞれ丘状になったムイ ( 森 ) がある。
東の 「 希望ヶ丘公園 」 に対して、西にあるのが 「 緑ヶ丘公園 」 である。
その 「 緑ヶ丘公園 」 は、国際通りから一本裏道に入ったニューパラダイス通りにある。
そこに 「 ナイクブ古墓群 」 と呼ばれる墓地があり、
緑ヶ丘公園整備事業として埋蔵文化財発掘調査が行われていた。

墓地を覆っていた木々が伐採されて古墓全体が目の前に露わになり、
きれいに古墓が見える状態になっていた。
発掘作業をしている人に 「 ちょっとでヨカけん墓ん中に入ってヨカですか? 」 って訊くと、
「 那覇市の教育委員会の許可がないと中に入ったらダメさ~ 」 という。


沖縄の墓は、亀甲墓と呼ばれるものが有名であるが、これは子宮をイメージしていると言われている。
だが、今回発掘調査をしている墓は亀甲墓よりも、もっと古い時代のもののようである。
破風墓から亀甲に移行する前のものか?
それより以前の横穴式の墓 ( 浦添ようどれ風 ) の時代のものであると思われる。

沖縄で一番古い亀甲墓は、中城にある護佐丸の墓だといわれているから、
それ以前の琉球王朝初期~中期のものではないかと思われる。
その構造から石灰岩を切り出し積み上げ漆喰で固めている様子がよく解かる。
墓の前庭、入り口の様子も見て取れる貴重なものである。

この一帯には亀甲墓もあり、王朝系の貴族や高官の墓がたくさんあるので、
発掘調査の結果で新しい発見があるかも知れないと思っている。
ただ、発掘作業をしている人によると、「 墓の中には人骨は無かった 」 ということである。
そういえば、 玉城にある尚 泰久や安次富金橋の墓にも遺骨は入ってなかったから、
こういうこともあるだろう。

ダメ元で再度 「 目の前の墓でヨカけん墓穴の中に入れてくれ! 」 と頼んだが、やはり断られた。

今度、機会があれば墓を調べてみたいものである。



沖縄県新城島 ・ パナリ島の 「 オヤケアカハチの墓? 」

2013-09-07 06:11:48 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



パナリ ( 新城島 ) にあるオヤケアカハチのものと思われる墓







波照間島にあるアカハチの生誕の地の碑










パナリ ( 上地島 ) の集落の中に、こんもりとした墓がある。
これは、宮古・多良間・伊良部地方で 「 ミャーカー 」 と呼ばれる墓の造りである。
パナリに住む地元の人によれば、 「 オヤケアカハチの墓 」 ではないだろうか?というのだが・・・
何でも 「 一般人の墓にはこんな大きな盛った墓はない 」 というが、実際のところは謎である。

現に、石垣島の大浜にはオヤケ赤蜂と古乙姥(クイツバ)の碑があるが、
オヤケアカハチの墓はどこにも見当たらないのである。
だから、この墓が 「 アカハチの墓 」 と言われてもおかしくない気がする。
ただ、歴史上これがアカハチの墓であるという証拠を示す物がないのは残念である。




鹿児島県沖永良部島  「 世之主の墓 」 

2013-08-13 05:57:27 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



二つ目の塀の奥に墓がある








世之主城跡から300mほど離れた世之主の墓
























累々と石が摘まれた一つ目の塀







グスクの城壁のように頑丈に造られた塀








二つ目の石塀と開き門の奥に 「 世之主 」 の墓がある






世之主の墓は、沖永良部島のほぼ中央に位置し、近くには世の主城跡がある。
世之主(真松千代)は西暦1400年ころ、沖永良部島を統治していた人である。

世之主、真松千代の母は沖永良部の人で、
琉球が北山、中山、南山の三山に別れていた時代に北山に働きに行った時、北山王に気に入られ、
妾の女となり、子供を身ごもってしまった。
真松千代の母は沖永良部へ帰り、真松千代を生んで育てたのである。
真松千代が17歳になった時、真松千代は北山王に会いに行って子供として認められ、
沖永良部島の世之主となったのである。

世之主のまつりごと ( 政治 ) は民衆に慕われる立派なものだったという。
優秀な四天王と呼ばれる4人の家来もいた。
世之主は中山王の姫を奥方 ( 真照間慕之前 ) をもらい、嫡子を1人もうけたという。

しかし、琉球の北山、中山、南山の戦いが激しくなり、中山は南山を陥れ、北山も滅ぼした。
中山は世之主の奥方が中山王の姫であるため、沖永良部島へ和睦の船を差し出したが、
世之主はこれを軍船と勘違いし、大国には勝てないと判断し、自害したという。

また、別の説では、北山の和睦の船に四天王たちが様子をうかがいに行ったところ、
北山から酒で歓迎を受け、四天王がなかなか戻ってこないため、
世之主が四天王たちが討たれたものだと勘違いし、自害したという説もある。

世之主の墓には、中央に世之主と、殉死した奥方、嫡子の3名が、
四隅には殉死した家来の四天王の4名
(後蘭孫八、屋者真三郎、西目国内兵衛、国頭弥太郎)が眠っている。





沖縄県宮古島市下地町  「 前山御嶽 」

2013-08-09 00:06:23 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



ムイ ( 森 ) の中にある拝所



















前山御嶽は与那覇集落の南西約500mほどの墓団地の近くにあり、
古くから旧暦の3月と8月、11月に“七日籠り”が行われ
与那覇の神子たちが豊年祈願と厄除けの祈りを捧げている。
一帯は新世代第四紀洪積世の琉球石灰岩からなり福木 ( フクギ ) を主とする植物群落である。
福木 ( フクギ ) が植えられたのが300~400年前だと考えられる。
群落内には直径1mの大木がいくつかありガジュマル、センダンなども見られ草などは余り発達していない。




宮古島市下地町与那覇 「 佐多御嶽 」

2013-07-21 00:04:27 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



与那覇公民館の近くにある 「 佐多御嶽 」








御嶽内の拝所





14世紀中ごろの宮古島は争乱の時代だった。
平良の東川根に佐多大人を首領とする与那覇原軍の強大な勢力があった。

最初の攻略は北方の大浦多志グスク
そして次は西南の美野村の村人を虐殺しながら南下して、
川満村浦ノ島を襲い、上野の大嶽グスクを攻略し、
さらに女・子どもをも皆殺しながら城辺の高腰グスクも攻略した。

宮古島の大半を我が物にした佐多は、平良の根間グスクの目黒盛を攻撃した。
目黒盛軍は漲水の浜まで追い詰められ、もはやこれまでと覚悟した矢先、
畑仕事をしていた農民たちが方々からかけ集まり、
また西仲宗根の首長スラクイも援軍を率いて、敵の背後から攻めた。
戦況は見る見るうちに逆転し、与那覇原軍は敗走したが、目黒軍は深追いはしなかった。

一軍は船でここに落ち延び、村づくりをしたのが与那覇村だと伝えられている。
佐多大人は当地で死去し、彼を祀ったのがこの御嶽である。