いまボクが住み、会社も在る六甲アイランドは神戸市が作った
人工島のひとつで、元はいえば西区にあった山を削って運んで
来た土が原料だ。
対岸の魚崎・住吉から西宮・伊丹にかけて、いわゆる「灘の生一本」
を作る灘五郷の清酒が、遠く江戸まで運べれて、江戸から見れば、
京大阪から下ってきた上物を指して「下りもの」すなわち上等なもの。
それに対して、房総あたりの近郊の物を「下らんもの」と、謙譲の言葉
になった由。
これは着物もそうで、江戸から地方に出す着物はたいていが古着。
だから東北の城下町などでは、「良い古着ですね」なんて、怪訝に思える
誉め言葉があった。
ボクが知る限りでは、最近東京に良い喫茶店がなくなった。
神楽坂界隈でも目に入るのは、簡素な椅子と机のパン屋みたいな店。
まだ大阪や神戸には、雰囲気で勝負の珈琲店が残っている。
疲れた身体を休める一時は、やはり昔ながらの喫茶店がなつかしい。
全部がスタバじゃ情けなくなる。
その全貌を語る資格はボクには無いが、昭和32年に入社した
当時の社名が東洋棉花「後のトーメン」の本社社屋と、近くの
三越百貨店大阪店は焼け残った幸運な建物で、遠くからもよく
見えていた。
山崎豊子さんの「不毛地帯」に登場する近畿商事のモデルは、
伊藤忠商事だが、あのドラマに移る近畿商事の社屋にはトーメン
のビルが使われ、今はその跡に三井ガーデンンホテルがある。
ついでにトーメンの裏手に当たる。黒塀に見越しの松の風情が残る
浮世小路も焼け残っていて、界隈には耐火ガラスで助かった建物
なども多かった。
浮世小路には「セイロン」という、美味い珈琲を飲ませる喫茶店が
残っていたし、だからボクは部分的ながら、昔の大阪市の雰囲気を
知ることが出来た。トーメンは三代続いた無能な社長のおかげで、
豊田通商に合併されて、今はその一部としてかろうじて残っている。
ウイーン時代に住んだ部屋は、ヌスドルフというウイーンの北の外れで、
引っ越しが多かったことでも有名な、ベートーベンが好んだ街の地続き
でした。日本語に訳せば、くるみ村となり、第六交響曲「田園」が、その
村に当たります。
ウイーンに発達している市電の「D]に乗って、30分とは掛からずに終点
に到着。そこがすでにヌスドルフといった至近距離。
市電を降りて、我が家に向かうと、すぐそこに小川が流れていて歩道に
架けられた橋がある。「田園」に描かれた小川がそれ。
この川に沿って、ウイーン市民が訪れる散歩道がありベートーベンガング
と呼ばれている。だから市電の終点の名前もベートーベンガング。ガング
はドイツ語の「歩く道」。すなわち散歩道を意味しています。
ボクが借りていた部屋は、広いワンルームマンションで、テラスにも三十名
ぐらいが集まっても充分な余裕がありました。
かのソビエスキー将軍が、軍隊を集結させたレオポルドベルグが肉眼で見え、
丘の斜面は全部ブドウ畑。このブドウは食用ではなく、すべてワインに成る。
市電を降りた場所に二軒並んで、大きな農家があり、木製の入り口を開けて
中へ進めば、そこは「今年の新酒」を意味するホイリゲがある。
ホイリゲの中から、外へ出るドアを開けて、外に出たら石畳の道路が。そこに
ベートーベンが、視力が衰えて悲観し、弟に充てた遺書を書いた家もここに
あります。つまりは一軒の農家を通り抜けたら、もうそこはベートーベンの住居
が有ったって訳です。
この道を右手に(西に)進んで行くと、何軒ものホイリゲが。そして市電「38」番
の終点、グリンツエンの観光客向けのホイリゲ群に至ります。
ここまで来たら、街ん中と品質では劣らぬペッパーステーキが半分以下の安値
で食べられる。本物じゃなかろうが、「青き美しきドナウ」の楽譜が飾られている
店もありました。ステーキの後には香り高い珈琲がもちろん用意されていました。
ボクが44歳で脱さらして、淀川の向こう側に小さな会社を
起こしたころ、大阪に「街」という雑誌があり、喫茶店に無料で
配布されていました。
大阪でも名門といわれた喫茶店が心斎橋と淀屋橋にあったが、
そこの次男にあたる人が、始めたタウン誌であった。
その発行人が小さな実質ボク一人のオフイスにやってきて、
どこで聞いたのか、ボクにヨーロッパの街々にまつわるコーヒーの
物語を書いて欲しいとのご依頼が。
一人ぽっちのオフイスは、まだ滅多に電話もかからず、ボクは売名
の一助にと、その依頼を引き受けて月刊誌の「街」に半年余り文章を
書いた。
たしか秋山さんといったその人は、原稿料は一円も呉れなかったし、
だんだん新会社にも注文が入りだして忙しくなり、ボクは書くのをやめた。
その中に、ウイーンとコーヒーとの物語も書いた覚えがあります。
ハプスブルグの王城ウイーンに、オスマントルコの軍勢が押し寄せて
あわや落城かとの危機に、ウイーンの森と呼ばれるアルプスの先端
レオボルドベルグに集結した、北ヨーロッパのキリスト教徒の大軍が、
ポーランド出身の将軍、ソビエスキーの指揮の下に、一気に丘を
駆け下り、オスマントルコ軍を蹴散らした。
逃げたトルコ軍が残した麻袋。その中に見慣れない豆状のモノがあり
噛めば苦いながらも香ばしい。煮立ててみれば薫り高い液体が得られた。
それが後に広まるウイーンナーコーヒーの原型だと。
欧州のコーヒーには、別の説もあります。
二十代も半ばに達した頃、東京に出張して神楽坂寮と呼んだ
会社の出張者用の豪華な宿舎に泊まり、一週間単位で東京に
居る。そんな時期がありました。
取引先に「タコちゃんと」と呼ばれていた女性が居た。
明治大学の商学部を出た、ボクより一個年上の人で、気軽に話し
が出来るタイプの人だった。
ボクも大学は商学部だから、その点でも話が良く合いました。
場所が何処だったか定かじゃない。ただ彼女の勤務先は三田界隈で、
その頃の東京には都電が走っていて、大手町から乗れば乗り換えなし。
仕事を終えた後、自然と一緒に帰ることになり、良く行ったのが彼女の
趣味のクラシック音楽を聴かせる店。
「なんでタコちゃんなの」との問いに、ワタシの名前がショウコで、ショウ
は日章旗の章という字。子供の子の代わりに魚と書けばタコになる。
だから章子変じて章魚すなわちタコってわけらしいの。
いま思い出しても、ほのぼのします。好い感じの年上のお姉さんだった。
で、コーヒーの味ですか? 覚えてないなぁ~。
ボクが税理士のマネゴトで、月に一万二千円を稼ぐようになって、
やっと喫茶店にも慣れたけれど、音楽喫茶なる高級店はまだ高峰
の花で、大阪にも何軒かあった店にも出入りを始めたのは、就職の
後からであった。
大阪梅田の阪急東通りに、銀馬車というジャズ喫茶があり、ミナミの
道頓堀界隈には、クラシック音楽をレコードで流す店も三店ぐらいは
有ったように思う。
ジュークボックスという、今では知る人もそうは居ないと思うが、そちら
の方は、ずっと後にドイツでゲーテに学んだ田舎町に、一軒だけそれ
を導入した店が出来て、地元の若い衆やお姉ちゃんで賑わっていた。
ボクはゲーテの先生から勧められて、村に一軒の映画に良く生き、連れ
歩いた親衛隊の連中に、ジュークボックスの店で、ビールやコーヒーを
奢る身分に出世していた。映画は特等席が学割で一人2マルク。毎回
ボクが全部払っていたが、五人で言っても10マルクで済む。
後の飲み代だって、単価が廉いからせいぜい3マルク以内にしかなら
ない。そんなボクを、親衛隊員たちはカピタリストと呼んでいた。
ドイツ語で資本家の意味だ。村のコーヒーはどこでも単なるコーヒーで
しかなかった。
五年生の八月に、旧満州国にソ連軍が侵入して来て、以来小学校は
再開されずに終わった。引揚げに4カ月以上が掛かったから、淡路の
南端に辿り着いたのが、敗戦の翌年で十月の初旬だった。
この間一年以上学校には行っていない。五年生からやり直すのか覚悟
していたが、六年生を担任する佐野繁樹先生が、今日は中間テストが
行われる日だから、先ずその結果で判断しましょうとなって六年の教室
に連れて行って下さった。おかげでボクは五年のやり直しを免れた。
旧制洲本中学を受験するべく準備していたが、入試が遅れに遅れた末
に、マッカーサー指令による、新制中学が出来て、今までと同じ小学校
に舞い戻り、名前だけは中学一年生となったが、英語の先生が居なくて
代わりに農業実習の時間が増えた。農繁期は当然の如く休校となる。
で、三年後に、これまた俄かに出来た新制の高等学校へ。男子生徒用の
トイレが無かった。元が実科女学校すなわち花嫁学校だったから。
そんな田舎で暮らす日々だったから、喫茶店なんて結構な所もなく、第一
我が家は貧困家庭に転落し、コーヒーが有ったとしても、カネが無かった。
大学も無理して行ったが、アルバイトで自活を覚悟し、授業料も国立より
廉い大阪市大だけしか受験も出来なかった。だから前半の二年に喫茶店
に行った記憶はゼロ。三回生になりゼミの先輩から税理士の偽者の仕事
を回して貰い、ようやく一息ついた。一社で月に三千円は呉れた。週一回
顔を出し経理担当の女の子に伝票の書き方を指導し、下宿に持ち帰って
の仕事だかた、三回生の一年間で、四年分の単位を殆ど取った。
成績は二の次だから、ボクの大学の成績は悪い。その税理士を三社から
四社に増やしたりして、当時の大卒初任給を上回るカネを稼いだ。
それで大学の単位も取れたし、喫茶店で友人と駄弁る余裕も出来た。
おそらくボクの喫茶初体験は、今度アベノに建ったハルカスの辺りにあった
喫茶店の中のどれかだろう。コーヒー代は一杯三十円の時代であった。
ハンブルグ時代から、いつの間にか45年が経っている。
水道水が硬水で、買いたてのヤカンでお湯を沸かしていたら、一週間で
ヤカンの底に石灰質がベッタリ付いたのに驚いた。
あんな水で炊いた飯を食ってたら、それだけで腹の中に石が出来そうだ。
エビアンというフランス産の水が有ると聞いた。どこで売っていると聞けば
なんと薬局だとの答えが。60年代のハンブルグは、そんな硬い水との戦い
でもあった。
住んだ家の近くの薬局でエビアンが入手できるとは限らない。他に日本人
が住んでいたら、先に買われてしまうから。
どんどん遠い地区までエビアンを求めて、新たな薬局を探しに行っていた。
そんな街で美味いコーヒーが飲めるわけがない。
相当に高値を請求されるが、有名な店ではエビアンで淹れたコーヒーを売り
にしていた。だからハンブルグの象徴みたいな湖の畔に建つ、見晴らし上々
の店を片端から訪ね歩いた覚えがあります。
アルスター湖は、冬は凍って湖畔はただ寒い場所に過ぎないが、夏ともなれば
白鳥やら鴨の親子が、泳いで疲れたのか芝生で寝そべっていたりで、まさに
大都市の中にあるオアシスといえた。
そのアルスターの畔にある珈琲の美味い店を、思い出しつつ列挙してみる。
先ずは会社から程近い、アルスターパビリオン。ここはレストランが本業ながら
時間を外せば珈琲だけの客も歓迎してくれました。
お気づきでしょうか。ボクがコーヒーと珈琲を使い分けしていることを。
そうです。美味いと自信を持てるのが珈琲で、その他はコーヒーと呼んでの差別。
この時代の日本航空の乗務員は、殿さまとお姫様と呼ばれていた。
なにしろアラスカ経由でハンブルグまで飛んだら、そこで十日近くの休憩がある。
その間に一度か二度、パリまでの日帰りフライトをこなすだけで、後は優雅な
御身分でした。すぐに常連になった、一軒だけの日本料理店で知り合った姫たちは
お車をお持ちじゃないから、自然とボクは彼女たちのアッシー君になっていった。
アルスターは外の方が広い。そこに建つアメリカ領事館の隣に、なんともエレガントな
店があった。会員制だろうと思いながら、厚かましく入ろうとすると、初老のドアマンが
咎めるでもなく、にこやかに入れてくれました。
ディー・インゼル(島の意味)は、バーでしたが頼めば香り高い珈琲も極上を出して
くれる、ボクの秘密の基地でした。姫たちは喜んだ。
真の友人以外に連れて行ったことはない。雰囲気がまるで異なる世界だった。
永らく六甲アイランドには美味い店が無いと嘆いていた。
それが嬉しいことに、訂正しないと正しい情報ではなくなって来た。
ホテル・ベイシェラトンの二階にある和食の店に鮨のコーナーがある。
二代続けて、嫌味な職人が居て、ホテルの会員たちを辟易させていた。
その頃から、黙って下働きをやらされていた青年が、実は名人だった。
まさに鋭い爪を隠した鷹が時の到来を待っていた感じ。
その青年がイギリス人? んな、あけはない。立派な日本男児なんだが、
名前が英人だから、冗談に本人がイギリス人だと笑って言っている。
嫌味な職人が去って、日本男児が姿を露わにして登場。
この際全部明かしてしまおう。偶には本格的な鮨を食いたい。
日本人なら、そう思う瞬間があるものだ。幸いボクのオフイスはホテルの
隣のビルにある。その気になれば、今すぐにでもといった絶好の場所で
社員たちの仕事の邪魔をしている。まさに老害である。
ボクも多趣味の方で、雑学のかけては相当なものと自惚れていたが、
まだ三十代の、姓を芝というこの青年の勉強ぶりが凄い。
中韓が騒ぐ、靖国神社の遊就館にも足しげく訪ねている。下手に歴史ネタも
しゃべれない。彼の方がよく知っているから。
こんな事を書いていたら、またも芝英人くんが握る鮨が食いたくなってきた。
なに、消費は美徳だとアダム・スミスが言っている。
安倍総理だって、個人消費の裾野の広がりを待っている。
えっ? 珈琲はどうなるですか。 自慢じゃないが、わが社の珈琲はホテルじゃ
飲めない。
身体を壊してから欧州はおろか東京にも滅多に行かない。
東京で唖然とするのは、名店に数えられている蕎麦屋に限って
一食分の蕎麦の量が極端に少ないことだ。
昨年神田の藪が失火で燃えた。ここの蕎麦の分量たるや・・・呆然。
あれは最低でも三枚ぐらいは注文しないと到底一食のカロリーを
充たしはしない。
神戸のそごうの新館に、神田の藪の出店がある。
ここでは、本店ほどにはぶっていなく、一人前の量もまずまず有る。
ただし大きな問題点が。名店の出店とは到底思えなく不味いこと。
もうひとつ。東京では「もり」を食うのが主流で、めったに「ざる」を食べない。
両者はどこが違うか。器が角か丸か。それと揉み海苔が有るか無いか。
せっかく江戸前の海苔を売る店が、神楽坂に並んでいるのに。
蕎麦に海苔は実の相性が良い。それをケチって、海苔なしの「もり」を食う。
おかしいとは思わないのだろうか。
大阪には東京人も感嘆する蕎麦の名店がある。通称「お初天神」の裏手
にある、これも通称で「夕霧そば」と言う店が断然美味い。
夕霧は柚子切りをもじった呼び方で、蕎麦を打つ時に柚子を練りこんである。
冷やしたのと熱いのと、双方があるが、せっかくの柚子の香りを愉しむには
断然熱い方だ。北の新地からも遠くは無いから、飲んだ後の身体に柚子切り
の熱々が染み通る。これを食べさせると東京人も頭を下げる。
えっ? 今日は珈琲は出ないのか?
もちろん最後の締めは淹れたての香り高い珈琲を飲ませる喫茶店が幾らでも。
ボクが80年に新大阪駅から地下鉄で一駅の西中島南方と
いう、なんとも長い駅名の、その駅から歩いて五分ぐらいの
小さな雑居ビルに会社を作った頃の話です。
このエッセイの前回に登場した、上島珈琲貿易の上島社長の
高校時代の友人に、愛称「ミカンちゃん」という人がいた。
なんとなく友人になって、大阪ミナミの美味い店を何軒か教えて
貰ったりお世話になっていました。
その「ミカンちゃん」が突然ボクの新会社にやって来た。
今から京都に行きましょう。で、その足で新大阪から新幹線で。
なんだか妙に急いでいる感じ。京都駅からタクシーを拾って、
告げた行く先が下鴨神社。
下車するや殆ど走り出すかの感じで、向かった先が「あぜくら」と
いう店。そこのご主人が趣味で蕎麦を打つらしい。それも気が向い
た時に限って蕎麦を打つそうで。
なるほど急いで来る必要があったわけだと、やっと納得しました。
「あぜくら」のご主人が打った蕎麦はさすがに美味かった。
食べ終えた「ミカンちゃん」が、いきなり言った。「弟子にしてください」
何度か「あぜくら」に通ったらしい。
突然ミナミの一等地に新設の「蕎麦や」が出来た。もちろんオーナー
は「ミカンちゃん」。自ら割烹着を身につけて蕎麦打ちをやっている。
感動がありました。ここでの蕎麦は何を食べても美味いを超えていた。
彼は蕎麦を作り終えたら、今度は珈琲を淹れる。これがまた絶品で。
そんな店が儲かる筈がない。一年かそこらで、絶品の蕎麦やが消えた。
今度は本町の近辺に建ったマンションの一階で「珈琲館」をやると。
友人の上島珈琲貿易の社長が、ずいぶんと応援しての開店でした。
実は十年近く前に、当時はメルマガで友人たちに、書いていた
エッセイの続きで、それもボクと同年の倉本聡氏のエッセイに
「いつも音楽があった」というタイトルのものがあって、その音楽
の代わりに珈琲を持ってきた、いわば倉本氏からのパクリです。
ボクが70年代まで商社マンをやっていて、80年に独立した事は
すでに述べましたが、実はその頃幼少時からの腎臓病の悪化の
気配を感じて居り、連日のように世界の各地を飛び回る生活に
無理を知っての事も有りました。
たまたま訪ねて行ったドイツの古い会社から、日本の総代理店の
地位を得て今の会社を35年もやっていますが、最初は小さな喫茶
店でも開いて、その傍らヨーロッパ各地の小物でも扱おうかと考えて
いました。
神戸から大阪にかけて、上島家というコーヒー豆の大手があり、今は
そこの次男の系統にあたるUCCが有名になっています。
ある人が上島の七男の系統を継ぐ上島珈琲貿易の社長を紹介して
くれ、直営のコーヒー店「珈琲館」の一軒を経営するべく教えを受けた
事もありました。
東京で多くのチエーン店を展開していたドトールの社長にも、面会に
行ったことも。まだドトールは昔ながら豪華な喫茶店でした。
今のスタイルに成ったのは、スターバックスが上陸してからのこと。
スタバ式の立ち飲み喫茶を始めた人は、東京のアークヒルズの中に
あるドイツ銀行などが入っているビルの一階でそっくりの店を開いて
いた。本職は有名ホテルの中にあるドラッグストアのオーナーさんと
して有名な方だった。六本木最大の地主さんで、バンクーバーで、
億ションをそれも一棟丸ごと購入する豪快な人でもあった。
アークヒルズの、その店は特に同じビルのテナント(圧倒的にドイツ系)
に向けた大きなポット単位で売る淹れたての珈琲で、大成功して居られ
ました。アメリカにもよく新知識を得るために旅行をしておられたから、
おそらく現地のスターバックスもご存じだったのだろうと思っています。
ボクのいまのビジネスにも、ずいぶんと助言をくださった方は、もう故人と
なられました。 合掌
ボクは十年社員として、意外な「陽のあたる場所」に抜擢された
幸運の人となったが、最初からハンブルグ支店に勤務した訳ではなく、
先ずは2ヶ月間、田舎の村にわざわざ作った、ゲーテの名を冠した
外国人の為の語学校に入れられることになった。
村人は一人として英語もしゃべれない。その環境が良かった。
希望者には学校の中にある寮への入居が許されたから、ボクは裏手に
あった一人部屋に入った。
学校が建っている場所が傾斜地で、表から見るのと裏かでは結構高さ
が違う。裏側の窓から見る風景も当然異なっていて、すごそこから大きな
森が始まり、多少の距離を置いてこれまた結構高い山が見えた。
村の名にもなっている、「いのしし山」だった。
森から出て来たと思える、鹿や兔が遊んでいるのどかな光景であった。
授業を受ける教室も、全部学内にあり三食の食事を供する食堂もまた
同じ建物の中にあった。食堂ではビールは飲めなかったが、コーヒーや
紅茶なら、飲むことが出来た。
当時のドイツの通貨はマルクで、日本円との換算レートは90円が1マルク。
円に対する銭がペニッヒで、それがまだ一般に通用していた。
寮で飲むコーヒーには二種類があり、ワンカップが20ペニッヒ、ポット入りが
45ペニッヒだったから、当時の日本の喫茶店で120した時代にタダみたいな
気がしたものだった。しばらくして村の中心部に行ったが、そこでもワンカップ
は35ペニヒぐらい。後に行ったミュンヘンでは1マルクはしていた。
ボクの欧州初出張は、1968年(昭和43年)の事で、同期の
中でも遅咲きだった。南アフリカに十日も滞在し、欧州各地を併せて
視察する大規模なもので、初出張者には荷が重かった。
折りしも世界的な学生運動が盛んな時で、新宿で電車が止められたと
いった事件が日本でも起きていた。
フランスで、ドゴール大統領の退陣を迫るゼネストが発生し、ボクは
フランクフルトの日航のオフイスで、当分はフライトの予定が無いことを
確認し、どこかで時間を潰すことを余儀なくされた。
ボクよりも4歳違うだけで、旧制の高等学校の体験者だったが、そこで、
ドイツ語を学んだ人々は、ドイツで最も行きたい場としてハイデルベルグを
挙げる人が圧倒的に多かった時代だった。
ボクはもちろん新制高校だが、アルト・ハイデルベルグという戯曲がある事
を知っていて、一日を割いてハイデルベルグに行った。
当時はまだ団体旅行者の姿もなく、有名な城に上っても日本人はと探したら
一人だけ居られた。その方はコロンビアを中核とするコーヒー豆産出国連合
に勤務されていて、大森さんとおっしゃった。
お互いにホテルが近いと分かり、夕食をご一緒にと約束して、その場で別れた。
夕食は中華料理店だったが、大森さんが言われるのに、ドイツのコーヒーが
美味くないのが不思議だとの事だった。そういえばハンブルグのコーヒーは
妙に苦い感があった。
大森さんは商売柄コーヒー豆に詳しい。コーヒーの業界で有りがたい国が三つ
有ると。もっとも大量に買う国がアメリカ。その年の最も上出来の豆を買うのが
ドイツ。日本が質量ともに第三位に上がってきたとの事だった。
しかし、ドイツ各地で飲んだコーヒーで美味いと思ったことがない、品質にこだわる
意味が無いとの事だった。
ボクはその後、ローマから南アに飛び、帰途はロンドン。
そしてその年の10月末から、ミュンヘン郊外のドイツ語学校へと、欧州生活が
始まる。ドイツ南部のミュンヘンで飲むコーヒーは、そうは悪くない。土地柄軟水が
有るからだろう。ハンブルグの水道水は極端な硬水であった。あんな水じゃ紅茶も
珈琲も共に良いものは出来ない。
ボクは商社に22年間勤めた後、独立して35年目を迎えている。
いつの間にか自分の会社の方が倍半にも成ったのに驚いている。
ウイーンは音楽と森の都として、辞令を貰ったら多くに羨まれたが、
2年間で92回も東欧に出張していた激務だったから、商社マン時代
にはウイーンの優雅な生活を満喫するには至らなかった。
ウイーンに長期滞在して、オペラやオペレッタを楽しんだのは、むしろ
自分の会社が軌道に乗ってから後のことだ。
東欧ではなく、ウイーンでの仕事がまるで無かったわけではない。
その限られたオーストリー独自の仕事の中に、ある時アイダ・エンジニア
の技術者が出張して来られた。何よりも街のど真ん中にあるシュテファン
大寺院のすぐ傍にあるカフェが気に入られた。
そのカフェの名を「アイーダ」と言った。「アイーダ」は「アイダ」に通ずる。
もっともボクは、その「アイーダ」にも、その時の一回だけで後は行った事
もなく終わった。