郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

長崎、近藤長次郎紀行 後編

2013年11月09日 | 近藤長次郎

 長崎、近藤長次郎紀行 前編の続きです。

 さて、小曽根家の墓域をめざす前に、おイネさんと二宮敬作のお墓へ寄り道を志しました。
 またまた、ものすごい急坂だったのですが、高嶋家墓域のすこし下あたりから、かなり整備されました道となり、手すりがついていたりもするようになりました。




 シーボルトの娘・楠本イネにつきましては、吉村昭氏と司馬遼太郎氏が、小説に登場させています。
 司馬氏の「花神」は、おイネさんと大村益次郎が恋仲になる、といいますような、ちょっとありえないフィクションが挿入されていまして、吉村氏の「ふぉん・しいほるとの娘」の方が、史実に忠実です。
 ただ、「花神」の二宮敬作は、好人物として、とても印象的に描かれていまして、これは、ほんとうであってもらいたいところです。

ふぉん・しいほるとの娘〈上〉 (新潮文庫)
吉村 昭
新潮社


花神〈上〉 (新潮文庫)
司馬 遼太郎
新潮社


 二宮敬作は、四国宇和島藩領出身のシーボルトの弟子で、シーボルトが日本に残した娘、幼いイネの養育を託されました。
 敬作は、シーボルト事件に連座しましたが、蘭学好きの宇和島藩主の配慮で、卯之町(現・西予市宇和町)で医院を開業し、イネを呼び寄せて、その教育に尽力します。
 やがて日本は開国し、敬作はイネとともに長崎へ移って開業。
 シーボルトが再来日し、再会を果たしますが、その三年後、文久2年(1862年)に長崎で病没します。

 今回、初めて知ったのですが、敬作のお墓は、楠本家の墓域にあります。
 いえ、ですね。「おイネさんは、当初、シーボルトにちなんで失本(しいもと)イネと名乗っていたが、宇和島藩主・伊達宗城から、本を失うというのはよくないので、楠本にしてはどうかと勧められ、楠本を名乗った」というような話があるのですが、驚きましたことに、この楠本家の墓域には、没年天保年間の楠本性の墓碑があったりするんですね。
 おイネさんの名前が側面に刻まれました楠本家の墓は、実孫で、養子となりました楠本周三の名もあり、かなり新しいもののようですが、どうも、墓域の状況からは、イネさんの母親のお瀧(たき)さんが楠本性だったように見受けられ、ちょっとびっくりです。

 「長崎のおもしろい歴史」というサイトさんに、イネさんの娘のタカさんの「祖母タキのこと」という回顧談がありまして、これによれば楠本瀧は遊女だったわけではなく、島津家の御用商人だった服部家に小間使いとして勤めていて、シーボルトに見初められた、ということでして、行儀見習いに出ていたのだと考えれば、かなりいい家の娘さんだったのではないでしょうか。

 下の写真は、楠本瀧、イネ、二宮敬作の顕彰碑で、少し離れた区画にあります。
 そして、いよいよ、近藤昶次郎のお墓です。




 見せていただいた過去帳の写しでは、昶次郎さんは、ちゃんと「謙外宗信居士」という戒名をいただいています。
 おおよそ左右二行にわけて、ただし書きのような説明がありまして、右側には「土佐人近藤昶(偏が日でつくりが永という異体字)次郎ゆえ有って薩州上杉宗治郎を称す 没年29」とあり、左側に「明治31年7月特贈正五位 墓は当山の頂に在り梅花書屋之墓と5字のみ刻む」と書いています。(「」内の文字は、私が勝手に読み下しておりますので、悪しからず)
 また「本博多町小曽根より一札入」 ともありまして、小曽根家より「一札入」で当寺に墓がある、といいますことは、薩摩藩士として葬られたわけでは、どうも、なさそうな気がします。

 しかし、戒名をもらっていたにもかかわらず、墓碑には「梅花書屋氏墓」 (過去帳に「之」とあったため、「氏」か「之」か迷っていたのですが、中村さまから「やはり氏では?」とのご指摘が在り、宮地佐一郎氏の著作にもそうありましたことから「氏」とします)としか刻まれていない、といいますのは、どういうことなのでしょうか。あるいは、墓碑が建てられました当初は戒名がなく、戒名はもっと後のもの、だったのでしょうか。
 わが家(真言宗)の例で恐縮ですが、明治期の個人墓は、正面には戒名のみが刻まれ、側面に本名や生年、没年が刻まれていまして、ちょうど、過去帳の形式を、そのまま墓石に刻んだかたちです。本名で葬られることにはばかりがあったにしましても、もしも戒名をいただいていたとしましたら、正面に戒名のみを刻んで、側面を省けばいいことなのです。

 そして、この「梅花書屋」なのですが、昶次郎さんが自害したといわれます小曽根家の離れの名前であった、と言われます。本博多町の小曽根家が一札入れているわけですから、その離れも本博多町にあったのだとしましたら、現在、小曽根邸跡とされています長崎地方法務局(万才町8-16)おあたりでいいのかなあ、とも思うのですが、吉村淑甫氏の伝記では、ちょっとちがう場所であるような描写でして、別邸だった、といいます話も読んだようにも思いまして、謎は深まります。

龍馬の影を生きた男近藤長次郎
吉村 淑甫
宮帯出版社


 次いで、昭和43年4月28日に、現在の場所、小曽根家の墓域に墓石が移されました経緯につきましては、墓石の隣に赤字で刻んだ石碑が建っておりました(写真下左)。
 過去帳を見たわけではなさそうでして、命日は「慶応二年正月十四日」 になっています(過去帳は二十四日)。そして、墓石の文字は「坂本竜馬の筆になる」とあるのですが、これらは、司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」をそのまま信じて書かれたようです。
 といいますのも、昭和43年は、NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」が放映された年なのです。

竜馬がゆく〈6〉 (文春文庫)
司馬 遼太郎
文藝春秋


 私、この大河で、近藤長次郎がどのように描かれていたかさっぱり知らないのですが、当時はおそらく、大河ドラマになれば、その原作も相当に読まれたと思いますので、亀山社中にも注目が集まり、長崎では、「晧臺寺さんに近藤長次郎のお墓があって、荒れた場所に放っておかれている」ということを、つきとめた方がいたのではないのでしょうか。側面に「世話人」の名が刻まれておりますが、小曽根姓の方が二人いて、あるいは、小曽根家のご子孫が、中心になって動かれたのかもしれません。
 どういうご縁があったのか、墓石移転の費用を出しましたのは、親和銀行だったようでして、赤字の石碑には「親和銀行建立」と刻まれています。

 気になることが一つ。赤字で刻まれました文章の最後は「その荒廃を恐れ有志の協力を得て当処に移し併せて同墓域内にあった津藩士服部源蔵の墓碑とも修覆を加えた」 と結ばれておりまして、つまり、おそらくなんですが、もともと墓石があった墓域には、津藩士・服部源蔵の墓碑もあって、そちらも倒れていたかなにかなので、これもご縁と修復いたしましたよ、ということなのです。
 昶次郎さんと同じ墓域に葬られておりました津藩士・服部源蔵っていったい何者???と、またまた謎を深めつつ、お参りさせていただいたような次第です。



 最後に、小曽根家墓域のすぐ横の道からの眺望です。
 すでに、晧臺寺さんの建物も樹間に見えまして、このあたりは、非常にきれいに手入れされた墓域になっております。しかし、やはり木は斬れないのか、風致地区ではありません隣の大音寺さんの墓域にくらべましたら、樹影が濃く、眺望はさまたげられています。ただ、それもこのくらいでしたら、風情があっていいんですけれども。
 今度、もう一度お参りさせていただくときは、お寺から登るつもりです。

 私の数々の疑問につきまして、なにかご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授のほどを。


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コメント (4)
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