郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

「桐野利秋とは何者か!?」vol3

2019年01月27日 | 桐野利秋

 「桐野利秋とは何者か!?」vol2の続きです。

薩摩の密偵 桐野利秋―「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書 564)
桐野 作人
NHK出版

 
 桐野作人氏は、著作の「はじめに」で、以下のように述べておられます。

 本書では「密偵」としての桐野のほか、「剣客」「軍人」「政論家」(必ずしも政治家ではない)、そして西南戦争の「軍事指導者」としての側面に光を当てている。そのなかには、当然向き不向きがあった。そのことが桐野個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。桐野のもつ功罪が入り混じった存在意義もそこにあるといえるのではないか。

 まず、これを読んだ時点で、大きな違和感がありました。
 「当然向き不向きがあった」「功罪が入り混じった存在意義」なんて、そもそも、だれについても言えることですよねえ。

 例えば、ですね。
 薩摩藩家老として、幕末のパリ万博で活躍しました岩下方平が、明治22年ころに書いた随筆には、以下のようにあります。
 
 大久保は非常の人なりし故、みつから任すること厚く、我か意にまかせ行ひし事多きか如し。 
 
 肥前佐賀の江藤新平、嶋団右衛門暴動せしは私の為にあらす、天下の為と思ひてなせし事なるへし。是皆御一新の功臣なりしなり。論旨の相合はさる所より斯に至りし物にもせよ、大久保政権を掌握せし程の事なれは、少し思慮を加へは非命の死には至らさりしなるへし。長州の前原にしても其他皆一個の人材なりしを死に至らししめしは日本の為め可惜事なりし。故に自らも刃の下に死せしは源本故ある事なりし。 

 上州の松園七助云、西郷・大久保等は創業の人なり。天下を破るに心を尽くせし人々なり。是よりは守成の人を撰ひ任用すへし、然らされは終に創業の人を疵つくる事あらん、功臣として政事に関わらしめす尊ひ置へしと。実に其事の如くなりし。

 上は、佐々木隆氏読み下しによります「岩下方平随想録」から引用です。

これを作人氏の桐野評の言葉を使って言い換えますと。
 人には向き不向きがあって、大久保利通は天下を破ることには向いていたけれども、維新が成った後の政治には向いていなかった。そのことが大久保個人の評価にとどまらず、幕末維新から西南戦争までの激動期を思う存分攪拌し、流動化させたことも事実である。功罪が入り混じった存在意義のある人物だったが、罪を言えば、自分の思うままに独裁を貫き、自分と意見があわないというだけで、殺さなくてもいい人材を非業の死に至らしめたことである。自らも斬られて死んだのは、理由のあることだ。

 作人氏流に言いますと、大久保利通は、同時代人で、一緒に活躍しました岩下方平によって、上のように評価されているわけです。

 で、ふりかえって作人氏が桐野利秋について述べておられることを見てみますと、いったいだれが、桐野利秋の向き不向き、功罪を評価しているんですか?と聞きたくなるんですね。

 「おわりにー桐野利秋の人気と功罪」を読みますかぎり、作人氏の桐野評は、結局、以下に尽きると思うんですね。

 〜前略〜また私学校のあり方には批判的であり、それゆえ、西南戦争では必ずしも主戦派ではなかったことも明らかにしたつもりである。
 とはいえ、南九州一円で半年間にわたって戦われた西南戦争を早期に収拾することによって、みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする。しかし桐野はそれよりも、薩摩兵児(へこ)の意地を貫きとおし、城山で最後の一兵になるまで戦い抜くことを選択した。それは「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期にはふさわしいかもしれない。だからこそ人気や同情、共感を集めるのだろう。
 だが、両軍合わせて一万人を超える戦死者、それに倍するであろう戦傷・戦病者の存在とともに、熊本県や宮崎県に多大な人的、物的な被害をもたらし、鹿児島城下をほとんど灰燼に帰した責任も振り返らずにはいられない。その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える。
 

 「みずからの責任を問うべきだったのではないかという気がする」とか、「その責の多くは西郷とともに桐野も負うべきではないかとも思える」とか、これはあきらかに、作人氏の個人的感想、ですよねえ。
 少なくとも私は桐野の最期を、「ラストサムライ」の華々しくも哀しい最期なんぞとは思っていませんし、まったくもって同情はしておりません。
 といいますか、西南戦争を収拾することが、西郷と桐野の責任だったなんぞという見解を聞くのは初めてです。通常、反乱の収拾責任は、反乱の指導者ではなく、反乱を起こされてしまいました時の政府にあります。西郷も桐野も、大将・少将の身分を剥奪されてしまいましたし、なんで責任が、為政者ではなく彼らにあると思えてしまうのでしょうか。

 そして、いったい作人氏は、西郷や桐野と同時代の識者の見解を、どう考えておられるのでしょうか。

明治十年 丁丑公論・瘠我慢の説 (講談社学術文庫)
クリエーター情報なし
講談社


 福沢諭吉著「 丁丑公論」より引用です。

 およそ人として我が思うところを施行せんと欲せざる者なし。すなわち専制の精神なり。故に専制は今の人類の性と云う可なり。人にして然り。政府にして然らざるを得ず。政府の専制は咎むべからざるなり。
 政府の専制咎むべからずといえども、これを放頓すれば際限あることなし。またこれを防がざるべからず。今これを防ぐの術は、ただこれに抵抗するの一法あるのみ。世界に専制の行わるる間は、これに対するに抵抗の精神を要す。
 〜中略〜余は西郷氏に一面識の交もなく、またその人を庇護せんと欲するにも非ずといえども、とくに数日の労を費して一冊子を記しこれを公論と名けたるは、人のために私するに非ず、一国の公平を保護せんがためなり。方今出版の条例ありて少しく人の妨をなず。故に深くこれを家に蔵めて時節を待ち、後世子孫をして今日の実況を知らしめ、以て日本国民抵抗の精神を保存して、その気脈を絶つことなからしめんと欲するの微意のみ。
 

  要約すれば、「人はだれしも専制の精神をもちあわせているもので、専制政治そのものをとがめるわけにはいかない。しかし、これを放っておくと行き過ぎるので、弊害を防ぐためには抵抗が必要だ。現在、政府の専制に言論人がおもねり、正確なことが世に伝わっていない。私は西郷をかばうつもりはないが、一国の公平を守るため、後世に西南戦争の抵抗の精神を伝えようと筆をとった。昨今、出版条例があって、下手なことを書けば牢屋行きであるので、公表はせず、百年後の人々に見てもらいたい」ということでしてして、福沢は文中、専制政治に抵抗するには「文」「武」「金」をもってする方法があり、西郷は武力をもっての抵抗を選んだので、自分とは考え方がちがう、と断っています。
 しかし以下本文に入って、「政府が言論の道を閉ざしたのだから、「武」に頼らざるをえなかったのも仕方がない」というようなことも言っているんです。

 〜前略〜政府の人は眼を爰(地方民会を認め、地方自治を進めること)に着せず、民会の説を嫌てこれを防ぐのみならず、わずかに二、三の雑誌新聞紙に無味淡泊の激論あるを見てこれに驚き、これを讒謗としこれを誹議とし、はなはだしきはこれに附するに国家を顛覆するの大命以てして、その貴社を捕えてこれを見ればただこれ少年の貧書生のみ。書生の一言豈よく国家を顛覆するに足らんや。政府の狼狽もまたはなはだしきものというべし。
 これらの事情に由て考れば、政府は直接に士族の暴発を防がんとしてこれを未発に止まること能わず、間接にこれを誘導するの術を用いずして却って間接にその暴発を促したるものというべし。故にいわく、西郷の死は憐むべし、これを死地に陥れたるものは政府なりと。
 〜中略〜維新後、佐賀の乱の時には断じて江藤を殺してこれを疑わず、しかのみならずこの犯罪の巨魁を捕えて更に公然たる裁判もなくその場所において刑に処したるはこれを刑というべからず、その実は戦場に討取りたるもののごとし。鄭重なる政府の体裁に於て大なる欠典というべし。一度び過て改ればなお可なり。然るを政府は三年を経て前原の処刑においてもその非を遂げて過を二にせり。
 故に今回城山に籠たる西郷も、乱丸の下に死して快とせざるは固より論を俟たず、たとい生を得ざるはその覚悟にても、生前にその平日の素志を述ぶべきの路あれば、必ずこの路を求めて尋常に縛に就くこともあるべきはずなれども、江藤、前原の前轍を見て死を決したるや必せり。然らば則ち政府はただに彼れを死地に落とし入れたるのみに非ず、また従ってこれを殺したる者というべし。
 

要約します。
政府は地方民会を盛んにすることを嫌い、地方自治を認めようとはせず、それどころか、わずか二、三紙の新聞雑誌が激論を載せたことに驚き、国家を顛覆する企てだとして記者を投獄するという、めちゃくちゃな対応をして、言論を封じた。政府は、それによって士族の暴発を防ぐどころか、間接的に暴発を誘ったわけで、結局、西郷を死地に陥れたのは政府の方だ。佐賀の乱のときは、江藤新平を裁判もなく処刑し、政府が政府として成り立っていないことを露呈した。一度の過ちならまだしも、3年後の萩の乱で、またも前原をろくな裁判もなく処刑した。したがって、今回城山に籠もった西郷も、江藤、前原を見れば、自分の志を述べる場がないことが明白であり、死を決するしかなかったのである。したがって、西郷を殺したのは政府だと、いうことができる。

 つまり、福沢の見るところでは、西南戦争を起こした責任は政府にあり、もちろん、西南戦争を収拾する責任もまた政府にある、ということです。
 また福沢は、「西郷が志を得れば政府の貴顕に地位を失うものあるは必然の勢なれども、その貴顕なる者は数名に過ぎず、それに付会する群小吏のごときは数思いの外に少なかるべし」とも言っていまして、つまるところ、「西郷には政府を転覆するつまりはなく、中枢にいる数名の権力者を退けたいだけで、維新の時ほどの大変革をめざしているわけではない」ということです。
 つまり、はっきり言いまして、福沢の見るところでは、「大久保利通はじめ数名が退けば、西郷の志は成る」ということですから、戦乱になった責任をとって大久保が引けば収拾は簡単だった、ということでもあります。

 栗原智久氏は「史伝 桐野利秋」の「はじめに」において、以下のように述べておられます。

 果して、歴史の流れが人物を生むのか、人が歴史を動かすのか、これは史観としての議論にも関るところであるが、しばらく措いて、本書はこうした桐野が幕末維新史の中でどのような位置にあり、どのような言動をみせたのか、その真実を、その軌跡を、史料に基づいてできるかぎりあらわそうとするものである。 

 これに比べまして、作人氏がおっしゃるところの「功罪が入り混じった存在意義」とやらは、相当に胡乱なものとしか、私には受け取れません。

 次回、これも相当に胡乱な「桐野利秋密偵説」に踏み込みたいと思います。

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4 コメント

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Agnesさま (郎女)
2019-02-02 14:56:25
福澤先生だけではなく、岩下方平も、前原の名を上げていますよね。当時、だれが見ましても、江藤新平、前原一誠の殺し方は、異常だったということだと思います。ちゃんとした文明国家のやることでは、ないですよねえ。
書き残してくださって、ありがたい話です。
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慧眼 (Agnes)
2019-02-02 00:59:19
福沢先生は素晴らしかったんですね。
福沢先生は泣いているかも。反骨精神はどこえやらの今の塾を。塾生ではありませんが、的確な先生のコメント当時すでに書き残しているのはすごいですし、前原一誠のことも含めていただき、今では小さく扱われていますが、当時はやはり大きな存在だったということもわかりました。感謝
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福澤諭吉先生 (郎女)
2019-01-27 21:01:21
今回、ブログを書いてみて、つくづく偉大です。よくぞ百年の後を見据えて、書き残してくださった、と思います。私も先生とお呼びします(笑)
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感謝です。 (中村太郎)
2019-01-27 19:52:46
何か変ではあるもののその原因がわからず、わだかまりとなっているものを、いつも的確な論評で、「腑に落ちる」ものにしていただき、有難うございます。

そして、福澤諭吉さんはやはり偉大でした。
塾生ではありませんが、これからは福澤先生とお呼びした方が良いかなと思ってしまいます。(笑)
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