郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

我が胸の燃ゆる想いとホテルライフ

2008年12月05日 | 幕末薩摩
 今回の薩摩行は、指宿一泊、鹿児島三泊でした。なにしろ母を連れていたものですから、鹿児島宿泊は、ちょっと豪華に城山観光ホテル。本日は、思うぞんぶん桜島を眺め、我が胸の燃ゆる想いにひたったホテルライフを、写真で(笑)



 

 MacBook Airをのせた机が、桜島をのぞむ窓に面している、というこの贅沢。
 そして、ベッドのそばのもう一つの窓からも、もちろん桜島が。



 上の写真ではわかり辛いのですが、窓際の寝椅子からは、下のような感じで桜島が見えるんです。



 朝の7時半くらいだったと思います。朝日と桜島です。お部屋でこれを見ることができる幸せ!



 上は、バイキングの朝食がサービスされる4階ホールの、広々としたテラスからの桜島です。鹿児島はあたたかいですから、12月でも十分に、オープンテラスで食後のコーヒーを楽しむことができました。しかも嬉しい喫煙席(笑)

 なによりすばらしいのは、露天風呂から見る桜島だったんですが、それはちょっと、写真に撮るわけにもいきませんで。
 そうなんです。本格的なホテルにもかかわらず、城山観光ホテルには本物の温泉があって、そこだけは部屋着でOKなんです。おかげで、個室のバスルームもとてもりっぱだったんですが、一度も使用しませんでした。

 BGMは、なぜかこれで。

I Shall Be Released


 なぜかって………、あれですね。私が初めて桜島を見たのは、まだ幕末なんてなんの興味もなかった乙女のころ、種子島の野外コンサートに泊まりがけでいくために、早朝、鹿児島の港で、だったんです。あのときのときめきは、ちょっと忘れ難いものでして、圧倒されるような桜島の噴煙に、なぜかこの歌の「Any day now, any day now,I shall be released」というリフレインが、胸の中で重なっていたのです。
 で、ですね。その後、桐野利秋にはまったとき、「I see my light come shining, From the west unto the east. Any day now, any day now, I shall be released」と、時のかなたから、桐野が桜島に語りかけているような気がしたものでした。

 ところで、次回(できれば明日)は、Wikiでどなたかがシャルル・ド・モンブラン伯爵の項目を作ってくださいましたお祝いに、今回の旅のモンブラン関係をちょこっとまとめ、ファン募集プレゼントを実施する予定ですっ!!!


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4 コメント

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桜島 (チンダラコッチ)
2008-12-16 20:34:18
お父様をなくなされてご愁傷様です。お母様への親孝行は大変美しいお姿です。
私は昭和19年、鹿児島の予科練にいましたので懐かしいところで、亡妻と(4月永眠)鹿児島に旅行したことが何時までも思い出されます。特に城山には西郷さんの
自刃の古跡が印象的でした。
亡き妻を二度も鹿児島に同行したのですが、歴史を不勉強でして何事も教えてあげられなかったことが心残りです。
母方の祖父は西南戦争では西郷方の戦士でした。熊本の出身でしたが、鹿児島につくことは如何に西郷さんが慕われていたかを祖母から良く聞かされていました。

何時も歴史を勉強させて頂いております。
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ご無沙汰いたしておりました! (郎女)
2008-12-17 11:53:14
奥様が逝去されたとは……、存じませず、遅ればせながら心よりお悔やみ申し上げます。お二人そろってご旅行なさっておられるようなお話しを、うらやましくお聞きしておりましたのに。

今回、母は知覧にいきたがっておりましたので、指宿から鹿児島への途中で寄ったのですが、いくら私が「お母さん、ここは陸軍で海軍じゃないから」といっても、現松山空港の海軍航空隊にいたまだ年若い予科練出身の方が、「お世話になりました。さようなら」という置き手紙をして、前線に出ていった思い出話をくりかえし、感慨深かったようです。我が家は海軍の指定を受けた料理屋で、一人娘の母は、女学校にかよっていたとめさんの娘さんのような立場だったんです。ほどなく母は学徒動員で今治の飛行機工場へ行きますから、どうも、フィリピン戦線へ出て、最初の特攻をした部隊の方だったようなのですが。

西郷軍に参加された熊本隊の方、といえば、子供の頃に祖父に買ってもらった絵本の『孝女白菊』を思い出します。当時はわけがわかりませんでしたし、落合直文の名文がもとにあったとは後で知ったことですが、なぜか、とても懐かしくて涙ぐみそうな気分になるお話です。
「阿蘇の山里秋深けて 眺寂しき夕まぐれ いづこの寺の鐘ならむ 諸行無情と告げわたる。折しも一人門に出て 父を待つなる少女あり」

かつて北朝鮮に住んでいて、引き上げてきたという遠縁のお年寄りを、数年前に母を連れて訪ねましたが、去年でしたか、息子さんから訃報をいただきました。

チンダラコッチさんはぜひ、北朝鮮が解放され、お育ちになった場所を御覧になれるまで、お元気で、長生きなさってくださいませ。かなうことならば、お供をしたい気分です(笑)
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鹿児島垂水温泉 (チンダラコッチ)
2008-12-19 22:32:19
80歳を超えた旧制中学の同期生でインターネットを使っているのは現在4名です。会社経営の者と医者OBと
元警察官です。全国各地に散らばっていますのでITが便利のようです。私もHPを再開しようかなと考えていますが、余命が少なくなりましたので目下考慮中です。

鹿児島県の想い出は、桜島の根元にある古江とか言う温泉町で予科練時代航空魚雷の発射訓練場がありました。
中々真っ直ぐには走ってくれないのが整備の悪さで、完走は愚か途中で沈没もありました。その時は巡検後総員整列でバッター懲罰が待っていました。懐かしい想い出です。カッター訓練は朝鮮からのりんごとタバコの班長への贈り物で何時も舵だけを取っていました。だから戦争は負けたのだと親戚の者に言われました。旧海軍は袖の下も効いたのです

今グーグルアースで北朝鮮の町を覗いています。鴨緑江
河畔の中国「丹東市」までは亡妻を同行したことがあり
ます。大連市まで行くと丹東市の迎えの車が400キロ
の路を往復してくれました。家内は興味が無かったようです。

戦前見てきた朝鮮民族の慣習を又お知らせしたいと思っております。若しご興味がありましたら・・・・
ご自愛のほど祈ります!

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グーグルアースは (郎女)
2008-12-21 17:32:27
楽しいですよね。
北朝鮮が案外、解像度が高いので驚きますが、チンダラコッチさんからお教えいただいたことで、一時、平壌にかなりの数の米軍関係者が入っていたことや、戦前からのキリスト教団体のつながりで、パソコン、ネットに関するアメリカからの援助が北朝鮮に対して行われている、という報道を見ますと、不思議ではないのかもしれません。

旧海軍は、陸軍よりも圧倒的に兵員数が少なかったにもかかわらず、食料まではりあって陸軍と同じくらいかきあつめていましたから、比較的、ですが、戦争末期にも食料が豊富だったといわれますよね。わが屋も海軍の指定料理屋だったおかげで、食べ物には不自由しなかったそうです(笑) 

ぜひ、HPを再開なさって、戦前、併合時代の北朝鮮の風習や思い出など、載せられてはいかがでしょうか。私も、以前のように気ままな一人旅はかないませず、お話しをうかがいにあがろうにも、なかなかできるものではございません。ネットは、使い方でしょうけれども、とても便利なものですね。ネットがなければ、チンダラコッチさんとお知り合いになることもなかったわけです。80を超えられて、すばらしいことと存じます。
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