郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

中村半次郎(桐野利秋)がいた! 映画「オトコタチノ狂」ほか

2013年08月01日 | 桐野利秋

 えーと。
 いろいろと書きかけているのですが、ちょっと忙しく、まとまって書く時間がとれません。

 久しぶりに桐野です。
 中井桜洲と桐野利秋桐野利秋と伊集院金次郎の続きでしょうか。
 実は、桐野に関しまして、ちまちまと情報が見つかり、それをメモしますついでに、Wiki-桐野利秋に大幅に加筆しておりました。
 
 きっかけは、しばらくお休みしておりましたヤフオクに復帰し、アラートで桐野利秋、中村半次郎にかかわる出品を、チェックし始めたことです。
 書とかゲームとか映画とか、それなりの情報を得ることができ、そこから話がひろがっていったのですが、wikiには書けなかったことをまとめて、こちらにメモしたいと思います。
 まずは、映画「オトコタチノ狂」から。こんな映画があったとは、存じませんでした。

オトコタチノ狂 [DVD]
クリエーター情報なし
インターフィルム


オトコタチノ狂



 これ、俳優たちの映画制作集団・石井組が自主制作のような形で作った映画だそうでして、低予算ですが、制作者の熱意は感じられます。
 しかし、一言で言いまして、熱意が空回り気味。残念な映画!!!です。

 どういう映画なのか、ごく簡単に言ってしまいますと、現代の東京で一人暮らしをする青年のアパートに、突然、幕末から、長州の久坂玄瑞、土佐の中岡慎太郎、薩摩の中村半次郎、新撰組の土方歳三の四人が、時を超えて現れた!!!、という設定です。なんでこの四人だったのか、なんの脈略もないんですが、魅力的な人選です。
 なにしろ低予算ですし、つっこみどころもまた満載です。
 薩摩藩士の中では突出して長州よりの中村半次郎が、なんでお友達だったと思われる久坂に斬りかかるのか、あげく中岡慎太郎ごときに(笑)押さえつけられるって、なんなんでしょ??? いや、慎太郎よりは、半次郎の方が力があると思うんですけどねえ。畑仕事で鍛えていますから。

 しかしね、制作者の熱意は十二分に感じられまして、もうちょっと、どうにかならなかったの?という意味で、残念だったんです。
 途中、幕末の四人が、一人の赤ん坊を囲んでいる映像が幾度か挟まれるのですが、赤ん坊は、近代国民国家としての日本を象徴しているのだろう、とは、容易に察しがつきます。
 これ、ですね。パゾリーニ監督のイタリア映画「アポロンの地獄」[DVD]を、ちょっと思い出す場面でした。
 「アポロンの地獄」はギリシャ悲劇『オイディプス王』を題材にしているんですが、 やはり突然、19世紀末か20世紀初頭と思われる衣装を身につけた若夫婦と赤ん坊の映像が、はさまれるんです。それが、とても印象的に、オイディプス王の悲劇が、時を超えた、普遍的な人間の業であることを、訴えてくるんです。

 私、もともとタイムトリップものは好きなんですが、時を超えた人々の思いが、もう少しこう、じんとくるように上手く描けなかったものなのでしょうか。終わり方も変でしたし。
 一番時の流れを感じましたのが、10年前の東京を描きました現代の場面の風俗が、とても古びて見えたことだった、と言いますのが、なんとも。

 次いで、桐野の雅号について、です。
 ヤフオクに、桐野が書いたもの、とされる書が一点出ていまして、雅号が鴨溟でした。どなたか、落札されたようですが、私には、桐野が書いたものとは、ちょっと思えません。しかし、他にも鴨溟、または鴨瞑という雅号で、桐野が書いたとされる書が複数存在することは、wikiに書きました通りです。

 いったい、どういう意味の雅号なんだろう、と検索をかけていまして、私、頼三樹三郎の雅号が、wiki-頼三樹三郎にもありますように、鴨崖だったことを知りました。そして、その漢詩集に北溟遺珠があるんです。
 いうまでもなく頼三樹三郎は、安政の大獄で処刑された漢詩人でして、なにしろ頼山陽の息子ですし、幕末の志士たちにとっては英雄だったでしょう。
 とすれば、都に出て、長州寄りの思想に目覚めました半次郎が、憧れて当然でしょうし、あるいは、漢詩を作ったのは有馬藤太か中井桜洲で、実は桐野の雅号を考えたのも彼らなのかもしれず、そうだったにしましても、どっちみち、鴨崖の北溟遺珠にちなんだ雅号の可能性は高そうだな、と思ったりしたのですが。

 で、「少年読本 桐野利秋」を読んでいましたら、著者の春山育次郎が、桐野の話を聞くために京都の中井桜洲を訪ねるんですが、この中井の住居を、鴨崖の家と書いているんです!!!
 「ええっ??? もしかして、頼三樹三郎が住んでいた家に、後年、中井が住んだとか???」と謎は深まりまして、もうこれしかない!と、中井にお詳しい某さまにお電話を。
 某さまのお話によりますと、中井が京都府知事時代に住んでいました家は、荒神橋のすぐ北で、鴨川のほとり(右岸)にあったから鴨崖と呼ばれていたんだそうなんです。
 「ええっ??? 鴨崖って、鴨川のほとりって意味だったんだっ!!!」と、ここではじめて気づいた、馬鹿な私でした。
 言われてみましたら、頼三樹三郎が育ちました山陽の山紫水明処は、荒神橋の南数百メートルのところにあり、やはり鴨川の右岸、なんです。位置関係は、下の地図に示しておりますので、どうぞ、ご覧になってみてください。

 Googleマップー幕末の京都

 えーと。
 つまり、です。
 中井が頼三樹三郎の号にちなんで、自宅を鴨崖の家と呼んでいたのではないか、ということは、あっておかしくないでしょう。若き日の中井が師としていた大橋訥庵は、刑死した頼三樹三郎の遺骸を引き取った人です。
 しかし、鴨崖の鴨が鴨川を意味するとしましたら、鴨溟って、鴨川の海、ですか? 相当、頓珍漢な雅号になるのではないだろうか、と思うのですが、鴨溟の意味について、他に考えられる解釈があれば、どうぞ、ご教授くださいませ。

 最後に、桐野利秋の子孫について、です。
 これね、私と中村太郎さまとの間に見解の相違がございまして、長らくお電話で、言い争いをさせていただいております。
 どういうことかと申しますと、伝えられています戸籍、あるいは大正5年に桐野が贈位されましたときの新聞記事などでは、「桐野利秋には子供がいなかったので、実弟・山内半左衛門(山内家に養子)の長男(幼名栄熊、利義と改名。明治3年生まれ)が跡を継いだ」となっているんですね。

 ところが、です。
 桐野の孫(利義の娘)にあたります桐野富美子氏のインタビュー記事には、利秋の正妻だった久(富美子には義祖母)の語った言葉として、以下のようにあるんです。歴史読本「子孫が語る幕末維新人物100」から、引用です。

 「栄どん(栄熊、利義)は妾(私)が生んだ子じゃないが、おじいさん(利秋)の若い時、自分の母方に弟の子として預けて、京など奔走したのだけど、籍は、私より先に入っていたね。むかしの結婚は、やかましかったで、その頃はおじいさんはもう軽輩じゃなかったでなあー」

 少なくとも桐野富美子氏は、このように信じていたようでして、直系のご子孫の間では、「利義は利秋の実子だった」と言い伝えられているようなのですね。

 桐野利秋本人のファンであります私にとりましては、ご子孫が桐野の直系か弟の血筋か、まあどちらでもいいことでして、気にもとめてなかったんです。
 ところが、ところが。

 美少年と香水は桐野のお友達に書いておりますように、この富美子氏談話に、以下の一節がありますことを再認識することとなりまして。

 生前の祖父と親交があり国士として世界中を旅していた前田正名翁が帰国して訪れ、私の兄利和に、「お前は顔も気性も、利秋によく似ている」と嬉しそうにみつめ、「この子は俺に食いかけの芋をくれた、うまかったなあ!」と言われたので、皆大笑いしました。
 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。


 「まっ!!! 正名くんが、利和はおじいさんの利秋に似ていると言ってなつかしんだのなら、これは、実孫だった方が絵になるよねえ」と、俄然、富美子氏談話を信じる気になったんですね。

 これを信じて、利義が利秋の実子だったとしますと、利秋の若いころの話ですから、利義の母親は、桐野の京都時代の愛人だった村田さとさんの可能性が、高いんですね。
 しかし、だとすれば、利義が明治3年生まれ、というのは、ちょっとおかしな話にはなるんです。
 まあ、ですね。利秋の足跡がすべてわかっているわけではありませんから、明治2年に京都に立ち寄ったことがなかったとも言えず、だとすれば、さとさんが明治3年に出産した可能性が、これまたなきにしもあらず、なんですけれども。

 中村太郎さまは、利義は甥だとする戸籍の方を信じたい、とのお考えで、富美子氏談話になんらかの裏付けがあるわけではありませんから、ごもっともではあるんです。
 結局、おたがいに、私はこう信じたい、ということにつきまして、話は平行線にしかなりません。

 それは一応、置いておきまして、最近、検索をかけておりましたら、tondenwikiという、屯田兵の歴史を調べておられるサイトさんに行き着きまして、そこに、以下のようなことが書かれてあったんです。

 野幌屯田兵の名簿の中に「桐野利春」という名前が載っています。 西南戦争で戦死した西郷軍総司令・桐野利秋(中村半次郎・1838~1877)と名前が1字違い。 屯田兵名簿によると、利春は明治元(1868)年生まれで、原籍地は鹿児島郡清水馬場町(現・鹿児島市清水町)番外地となっています。 

 私がどびっくりいたしましたのは、桐野利秋と伊集院金次郎のコメント欄に来られた北村典則氏のご先祖のお話が、あったからです。
 さっそく、江別市役所発行の「野幌屯田兵村史」を買い込みました。

 これによりますと。
 江別の野幌への屯田入植は、明治18年と19年の2回行われまして、すべて士族です。
 鹿児島からの入植は、明治18年入植の30戸のみ。この中に、18歳の桐野利春がいたわけです。
 なにしろ、明治7年に桐野利秋は清水馬場に屋敷をかまえましたので、利春の原籍が清水馬場ということであれば、利秋の遠縁にあたるかなにか、関係があった可能性はありそうなわけでして、妄想をたくましくしますと、利秋が外で作った実子を遠縁の籍に入れてもらったり、もあり??? とか、つい、思ってしまったりするわけなのです。

 実は、栄熊が利義として、利秋の死後養子になりました時期が、奇妙なことに明治18年でして、桐野利春が野幌に屯田入植しました年と同じなんです。
 明治10年の西南戦争で、桐野利秋も実弟の山内半左衛門も戦死し、その時点で、山内家の長男となっていました栄熊が山内家を継ぎ、子供がいませんでした桐野家は妻の久さんが戸主になった、というのは、わからないでもないのですが、それから明治18年まで数年ありまして、養子に迎えるタイミングが、ちょっと遅いのではないのか、という気がしてしまうんです。ここでまたまた、妄想をたくましくしますと、利春と利義はともに利秋の実子かもしれず、遠縁に養子に出していました利春を跡継ぎに迎えようと考えていましたところが、養家先の事情で、利春は屯田入植することとなり、結局、利義が跡を継いだ、とか。

 妄想は横へ置いておくにしましても、北村典則氏のお話に、野幌に屯田入植しました桐野利春を重ねますと、あるいは、北村氏の曾祖母・桐野ヒロさんが、桐野利春の娘、ということも考えられるのではないんでしょうか。利春が利秋の遠縁だったとしまして、男の子が生まれず、屯田兵は世襲だったそうですから、故郷の鹿児島から、娘の婿として、利義の次男、三男を養子に迎えたのだとしましたら、話がぴったりとあうんですけれども。

 いずれ、もう少しちゃんと調べてみるつもりではいるのですが、なにかご存じの方がおられましたら、どうぞ、ご教授くださいませ。


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原籍からたどれませんか? (green)
2013-08-05 22:22:55
原籍が清水馬場。法務局に土地台帳というのがあって、閲覧・コピーができます。久夫人の相続した土地であれば利春さんは実子の可能性ありと言えるのではないでしょうか。明治18年伊地知正治さんの影響あり?偶然ではないような?

桐野の実子の子孫と言う人が墓の掃除を平成の初めごろまでしていたそうです。(桐野利秋のすべてに書いてあったのですが)文久2年桐野は軽輩ではなかった。と夫人は言っているそうですが、久光のお庭番だったと書いたものを読んだ事があります。

大塩平八郎の息子の護衛をしたとも。伊集院(有馬新七の出身地)の神社に切りつけたという逸話も。寺田屋事件十人目の鎮撫士の可能性あり?初めて半次郎の名前が出てきた時の西郷の手紙、その書き様はかなり冷たい感じがします。


政権奪取に向けて公家・幕府・各藩熾烈な競争をしていたはずですが、明治以降の為政者に都合よく作られた部分もあるのかもしれません。

「昔の結婚はやかましかったで。」この言葉の中に夫人と桐野の青春の秘密があるのでは?駆け落ち?とか。封建時代に、純愛を貫いたとしたらすごい。この辺の事情に久夫人の話の歯切れの悪さ・曖昧さの原因の一つがあるように思います。


さらに夫人は映画鞍馬天狗を見て、杉作が太郎の幼い頃に生き写しと続けます。(なぜ、京都時代の年頃の太郎君を知っているのか?)鞍馬天狗のモデルは桐野といわれる人がいますが、太郎君の存在がそういわせたのでしょうか。

村田さとさん恋人説はいつの間にか作られたものでは。写真で見れば、「少女のような」と取材した奈良迫ミチさんが書いておられます。桐野のタイプではないような。刀の趣味からしても、華やかな女性が好みのような気がします。
姉のカツさんも妹の恋人と2人で寄り添って写真を撮るかな?と思うのです。
それとハニートラップは幕末もあったのでは?女性関係に派手だったといわれる桐野ですが、誘われるまま、誰とでも、あちこちに子どもを作ると言うタイプではないような気がします。(女性的で小心な部分もある?)ハニートラップに気をつけていたからこそ幕末を生き延びたなんて事もあると思います。

(男子全般に対して失礼な言い方ですが多くの女性に言い寄られて望まれるまま関係を持つ生き方は男性の夢&願望?)

ところで、利春さん以外の方は何時ごろ誕生されたのでしょうか?
桐野との親子関係を戸籍でたどるのは困難かもしれません。戸籍上実子なしとなっているはずだと思うのです。子孫に災いがこない様に。
是枝家に養子に出された武吉さんは弟ではなく、実子なのではないでしょうか。御子孫が先祖に弟と言われていただけで。
それから、昔の戸籍はかなり自由に作られていると聞きます。生年月日・両親の名など。
昭和50年頃の雑誌(西南戦争の特集)に晩年の久夫人が6人か7人桐野の子を産んだと言っているという記事を見た事があるという人がいるのですが、未だ見つかりません。本当だとすれば、18歳で結婚して死ぬまでほぼ3年毎に1人。律儀というか微笑ましい。ともかく、特に鹿児島においては、桐野の子孫である事は生きていく上で非常にマイナスと言う判断が働いていて夫人・子どもの存在を隠したというストーリーはいかがでしょうか?
長くなってすみません。読むのは好き。書くのは苦手なものですから、まとまりがなくて。ブログの更新もうれしい。そして、本もとても楽しみにしています。
返信する
greenさま (郎女)
2013-08-06 15:12:13
 お久しぶりです。お元気でなによりでした。

 えーとまず、「寺田屋事件十人目の鎮撫士の可能性あり?」という点ですが、これはありえないかと思います。といいますのも、ちょっといま、何巻の何ページか出てこないのですが、松方正義の日記に、事件から1年以内に、挙兵側にいて謹慎をくらっておりました三島通庸と連れだって松方を訪れ、どうもその書きぶりからしますと、挙兵側に同情的な陳情をしたようなのです。
 春山育次郎の「少年読本・桐野利秋」にも、当時半次郎がもっとも親しくしていたのは、挙兵側にいて斬殺されました弟子丸龍助であり、鎮撫使だった奈良原繁のことを、半次郎は事件以降嫌った、というようなことが書いてあります。久光のお庭蕃だった、といいますのは、やはり春山育次郎が書いていますが、小松帯刀の引き立ててそうなったような書き方でして、寺田屋事件よりは、はるかに後の感じです。身分を上げるために便宜的に、ということです。

 次に、桐野利春の原籍地なんですが、清水馬場番外地、なんです。番外地って、なんなんでしょ? ちなみに、明治7年から久さんが住んでいました清水馬場の家なんですが、中村さまのお話では、同じ清水馬場ではあるんですが、番地が資料によってちがっているんだそうなんですのよ。おそらく、今回、中村さまが送ってくださいました吉田和夫(東京法務局武蔵野出張所長)著「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」に引用されました除籍簿の住所が正しいのではないか、と思われ、これによりますと「清水馬場町91蕃戸」です。

 で、中村さまは、敬天愛人第17号(平成11年9月24日発行)所蔵の宮下満郎著「正五位追贈の桐野利秋」という論文もご提示くださったんですが、これに、是枝氏の資料に対します、批判が載っております。是枝氏の所持しておられました戸籍の写しでは、「清水馬場町112蕃戸」となっているそうです。番地に変遷があったのか、写し間違いか、なんだと思います。
 是枝氏は、一般に「与左衛門兼秋」とされます利秋の父の名前を「利邦」として、これが自分の父親である、としています。是枝氏が添えていた史料からしまして、桐野利邦は海軍省に勤務しておりました実在の人物なんですが、調べてみると利秋より7つも若く、父親であることはありえないんだそうなんです。

 あるいは、肝付だったらかならず名前に「兼」がつきますように、鹿児島の桐野氏にはかならず「利」がつく、といいますような、伝統があったのかもしれないですね。
 私と中村さまは、是枝氏は、利秋の父親が島流し中に、島の女性に生ませた子供ではないんだろうか(よくある話でして)、と推測しておりました。
 
 村田さとさんですが、さとではなく、駒だったかと思うんですが、春山育次郎の「少年読本・桐野利秋」に、すでに出てきていたはずです(いま手元になく、確かめることができないんですが)。この伝記、書かれたのが明治30年頃で、関係者が生きていますし、春山育次郎氏は薩摩の人で、桐野の甥(妹の息子)と親しく、京都の中井に取材したりもして書いていますから、かなり、正確だと思います。

 鞍馬天狗は、ちらりとNHKBSで最近作られたドラマを見ただけでして、あまりにつまらなかったものですから、よくは見ていないのですが、鞍馬天狗が煙草屋に下宿していたっぽいんですよ。ちょっと村田煙草店を思わせる感じでした。ただ、鞍馬天狗は公家出身ですし、中山卿なんかがモデルかも、と思います。もしかしましたら桐野もモデルの一人かもしれませんが。

 野幌に屯田入植しました桐野利春につきましては、いまのところ、ブログに書きました以上のことは、わかりません。なんでも、明治23年の野幌屯田兵の詳しい名簿が残っているそうでして、なんとか、それをさがすしかないかな、という感じです。
 あと、戦後はともかく、戦前の鹿児島、それも明治期の鹿児島では、桐野利秋は英雄であった、と思うんですのよ。

桐野利秋(中村半次郎)と海援隊◆近藤長次郎 vol1 - 郎女迷々日録 幕末東西

 上のページに載せておりますが、戦前の鹿児島におきまして、桐野利秋は、西郷、大久保と肩を並べて五偉人の一人に数えられ、葉書まで作られております。

 私たちそれぞれに、思い入れがあるわけですが、今度ぜひ、greenさんにも直にお会いして、ああでもないこうでもないと、お話してみたいものです。その日を楽しみに、しております。
返信する
清水馬場の古地図見てもよさそうですね。 (green)
2013-08-08 22:24:43
私は検証するのに文献等を使わなければならないとか研究者の取るべき方法を知らないので、勝手な事を言えるのかもしれません。本当に申し訳ないです。
例えば家光は春日之局の実子という説があって、家光の像(長年公開禁止だったそう)と春日之局の絵を見れば親子に違いないと思ったり、教科書の信長の絵が御子孫に似ていると言う事で納得したりしてしまいますから、我ながら困った物です。
私が桐野は女性的と思う理由の一つは髭がないこと、(もみ上げがわずかにふわふわしているだけで後は伸ばしてもまばらでとても格好がつかなかったと思います。)髪がふさふさしている事、一方頭の毛の薄い大久保利通さんは男性ホルモンが多いと言う事になります。
全くあきれた考えでしょう。しかも、脳科学者の受け売りなのですから。
夫人は南洲墓地の下で縫い物をして、生計を立てたと言います。と言う事で清水町ではありませんが墓地の周辺の土地台帳を見ますと、不思議な事に島津忠義、浄光明寺等の所有地があります。賊将の妻たちは彼らの保護を受けていたのでは?そして、吉野の藩士を江戸時代経済的にも支えてきた浄光明寺。浄光明寺に彼らの戸籍をたどるすべがないでしょうか。今でも、政治家・芸能人などわけのわからない女性関係をでっち上げられる人も多い。しかも、お話を作る上でロマンスは必須アイテムですから、京都や江戸で華やかな女性関係があったということになったのではないでしょうか。そう考えてしまうともう調べようがないのですけれど。
東京で桐野が住んでいたという無縁坂の上の妾宅、「金安までは江戸のうち」と言われた金安の近く(本郷)、つまり当時は江戸の外れでしょう。テロが起こらないように常に警戒してこのような場所を選んだとか考えられないでしょうか。京都、東京、桐野にとっての幕末の日々は決して一瞬の気を抜く事も許されない日々、恋愛をする余裕はないような。
会津戦争での惨劇を見て、桐野は知っていたと思います。人間の非情さを。勝てば官軍、負ければ賊軍。立場がほんの少し違っていただけと。そして、まずは自分を生んでくれた母のことを心配し、妻子のことを心配したに違いありません。
是枝氏の祖先の年齢ですが、墓石に刻まれた没年、これが唯一本人の年齢を探る手段と考えます。京都に出たとき桐野は既に若いパパ。根拠がないのにおかしいですよね。けれど、桐野のイメージは西南戦争以前から既に作られてきました。そして、時代を経るに従い上書きがされて現代に至っていると私は思うのです。
ほんとにお会いできる日が来るといいのですけれど、なかなか自由に時間が取れなくて。
そんな私にとって、ブログは楽しみ。私だけでなくもう既にたくさんの読者がいると思います。出版を楽しみにしている人はたくさんいると思います。ご自身の思われるとおり、自由に書いていただけたら。とても楽しみです。
島津家こそ桐野が忠誠を尽くした唯一の主家。西郷は先輩の一人。といったイメージなのです。そして桐野の子孫については何か手掛かりがあれば、いいのですが。
なんだか、長い上にまとまりがなくて、すみません。

返信する
再びgreenさま (郎女)
2013-08-10 11:04:39
 私たちは研究者ではないわけでして、基本的には、それぞれが信じたいことを信じればいい、と私は思っています。
 ただ、ですね。自分が描く像に客観性を持たせるためには、一応、資料の裏付けが必要とも思っているものですから、まずはリアルタイムの日記、書簡。後に書かれました伝記のたぐいも含めて、いつ、どういう状況で書かれた資料なのかが、気になってしまいます。
 イメージの変遷にしましても、細かく資料を見ていかないと、いつ、どういう世相のもとで、どういう像が描かれたのか、大変な作業で、いずれ、とは意気込んでいるんですけれども。

 一応、ですね。贈位されました大正5年の新聞記事では、久夫人は、養子の利義とともに、清水馬場の屋敷に住んでいた、と書いています。
 なんで読んだんだったか、ちょっとはっきり思い出せないのですが、明治7~9年頃、桐野が久光を指して「あんな名門先生にないがでくる」と言っている、ということを、かなり早くから読んでいまして、私の思い描く桐野は、幕末には長州寄りの革命の闘士、明治6年以降は、反政府で、自由民権を志す闘士、です。
 もっとも一方で、久光が非常に高く桐野を評価していた、という話も伝わっているのですが。

 思うに、ですね。明治6年までの久光は、大久保よりも西郷を嫌っていた感じですが、明治6年以降、政権の中枢に居座っている大久保をより多く憎み、明治10年のときには、なんとか戦争になることを防ごうと、息子たちを京都に派遣するのですが、長州閥を中心とします政府の妨害で、うまくいきません。
 結局、久光も桐野も、鹿児島を愛していたことでは同じですから、6年以降、久光は桐野を、高く評価することになったんじゃないんでしょうか。

 西南戦争で荒廃した鹿児島において、島津家が元藩士たちの救済に力をつくしたことは、事実だと思います。
 ただ、浄光明寺は一度、幕末維新期の廃仏毀釈で廃寺になっています。南洲墓地の墓碑が、すべて本名で、戒名がないのは、神道で葬られているから、なんです。

 私の方も、今年から来年の前半にかけては忙しいのですが、来年の後半あたりから、本格的に桐野に取り組みたいなと思っていまして、ほんとうに、お目にかかれることを楽しみにいたしております。
返信する
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遅くなりました。 (green)
2013-08-16 17:09:18
日本を変えた薩摩人 鹿児島と明治維新 : 芳即正 著と言う本を読んでいます。(なかなか進みません。)
芳即正先生は鹿児島の方そして、年齢からすれば、自由にものが書ける時代で、なおかつ幕末当時の人間をより、理解できる世代の方だと思っています。亡くなられて残念。
それから、津本楊氏、剣術をされるこの人物もまた当時の人の心情をより正確に理解できる方の一人と思っています。
そして、もう一人女性でありながら(残念ながら、女性は男性とは脳の構造が違うと言います。男性ならどう考えて、行動すると予想してみるのですが、私はうまくいかなくて。)彼らの実情に迫る事ができるのが郎女様だと思っています。

高校時代、幕末に来て「日本史が理解できない。」と放り出した私でした。
この年齢で少しばかりの本を読んで、斉彬のそして久光の人物像が今までと違ってきています。
法務局のOBが書かかれた「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」は一般人には読めないのでしょうか?
いずれ、郎女様か中村様の著作で新事実としてわかることを期待しています。
廃仏毀釈はあっても、本部(この表現ではおかしいのかもしれませんけど。)にバックアップしてあるのでは?などと考えてお寺に資料がないかと思ったわけです。

清水馬場の土地台帳については機会があれば調べてみたいと思うのですけれど。思うようにいきません。
ちなみに、西郷隆盛さんに対する私のイメージは学校の校長先生。
おかしいでしょう。
たんたんと資料を積み重ねて、事実に迫る郎女様の姿勢は誰でもまねできることではありません。
ですから、著作を本当に楽しみに待っています。
返信する
芳即正のご著書は (郎女)
2013-08-18 08:58:08
私も好きです。津本楊氏も、小説ですが、抑制した書き方をされていますよね。

実はいま、中村さまのパソコンの調子が悪く、コメントいただけないものですから、お電話で、「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」について、お聞きしてみました。ちゃんとしたコピーが見つからないそうでして、送っていただいたのは、除籍簿の写しが載った1ページぶんだけで、雑誌名とかも、私は知らなかったんです。
お話によりますと、「桐野利秋と調所笑左衛門の戸籍から」は、国会図書館で検索をかけて見つけられた論文だそうでして、雑誌「戸籍時報」に載っていたそうです。館内デジタルでは見ることができるそうですが、オンラインで見ることはできないそうで、論文名を指定して、コピーを依頼するしかなさそうです。
中村さまからいただいた1ページぶんだけ、ですが、PDFにしましたので、メール添付でお送りします。ついでに、久夫人のインタビュー記事も。

もっと野暮な件(わが家の財産管理)で、土地台帳は調べたことがありまして、調べ方はわかるのですが、鹿児島では、なかなか。機会がありましたら、ぜひ、お願いいたします。
返信する
Unknown (ボーイング)
2013-11-12 21:06:07
桂小五郎が木戸孝允、村田蔵六が大村益次郎だったように、中村半次郎が桐野利秋だなんて知らない人が多いのに、幾つになる娘さんか知らないけれど、立派だね。
ただの歴女と言うより歴史学の講師のように思えてならない。こういう女性がいる限り、日本はまだまだ捨てたものじゃないね。歴史展でも開催しようものなら [ 坊ちゃん ] の
故郷、愛媛まででも観に行きたいね。
返信する
「坊ちゃん」の故郷 (郎女)
2013-11-13 09:35:54
松山は、幕末にゆかりの史跡はほとんどないのですが、いいところです。愛媛県内には、宇和島藩や大洲藩もありますし、ぜひぜひお越しくださいませ。長崎がうらやましいのは、人口は松山より少ない都市なのに、町中の古い商店街が元気なことです。坂が多く平地が少ないことで、郊外型になりづらく、それがプラスに作用しているのかなあ、とも思のですが、市電は120円乗り放題で黒字だそうですし、ほんとうにうらやましい街です。
返信する
ありがとうございます。 (ボーイング)
2013-12-06 21:16:10
秋冬に30歳になりました。ホーイングです。
仕事柄、全国の空港にお邪魔しています。
勿論、四国の愛媛松山にもです。

僕の近辺にも会津への戊辰戦争の途中、桐野が
立ち寄った藤原口が車で40分ぐらいの所にあります。
鶴ヶ城が新政府に受け渡しの際、桐野が新政府の
代理人として立ち会い、会津の人々の行く末を心から
心配していたそうです。後に藩主の容保から大切な
刀を送られたと聞いています。人間として思いやりの
ある心を持った桐野だから出来た事だと思います。

僕には今でも付き合いのある大学時代の友人が
います。何度となく蜜柑も頂きました。四国愛媛の
松山東高校の出身だそうです。

みかんたまご・・・とは何でしょうか ?
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